1968年、「人間の顔をした社会主義」を掲げたドプチェク・チェコスロバキア共産党第1書記の指導部が主導した民主化運動。党の権力独占を否定、検閲を廃止するなどし、同年6月には、改革を支持する知識人らによる「二千語宣言」が発表され運動は拡大した。懸念を深めたソ連のブレジネフ政権は軍事介入に踏み切り、同年8月20日、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵攻。運動は頓挫し、89年の共産政権崩壊まで抑圧が続いた。(プラハ共同)
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1968年にチェコスロヴァキアで起こった体制内改革運動の象徴的な呼び名。60年代後半に保守的・抑圧的な社会主義体制への批判が高まり,68年1月にドゥプチェクが共産党第一書記に就任し,政治・経済改革の推進が図られた。4月に採択された「行動綱領」では,「人間の顔をした社会主義」をスローガンに党主導による政治的民主化,経済的自由化や連邦制の導入などが提唱された。改革の促進を求める「二千語宣言」には7万人の署名が集まった。だが改革の他の東欧諸国への波及を恐れたソ連はワルシャワ条約機構軍を率いて,同年8月に同国全土を占領。改革は挫折し,その後フサークを指導者とする「正常化」体制がつくられた。89年の東欧革命でこの軍事介入は公式に誤りと認められた。
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…この間,49年にはCOMECON(コメコン)に参加,55年にはワルシャワ条約機構に加盟した。
[〈プラハの春〉]
56年にフルシチョフによるスターリン批判が行われても,チェコスロバキアの非スターリン化は遅れ,スターリン主義者のノボトニーが社会主義体制を強化した。60年7月には社会主義共和国憲法が採択された。…
…この時期にとくに顕著な自由化を試みたのはチェコスロバキアであった。作家同盟や党内の知識人を中心とする自由化運動は,スターリン批判の不十分であった党と政府を動かし,ドゥプチェクを党の新指導者として,68年には〈プラハの春〉と呼ばれる高まりを見せた。ドゥプチェクらは慎重に改革を試みたが,夏にはソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍の介入を招き,〈プラハの春〉は挫折した(チェコスロバキア事件)。…
※「プラハの春」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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