デジタル大辞泉
「上東門院」の意味・読み・例文・類語
じょうとう‐もんいん〔ジヤウトウモンヰン〕【上東門院】
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じょうとう‐もんいんジャウトウモンヰン【上東門院】
- 藤原道長の長女で、一条天皇の中宮彰子(しょうし)の院号。
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上東門院
没年:承保1.10.3(1074.10.25)
生年:永延2(988)
平安時代後期の一条天皇中宮。藤原彰子。藤原道長と源倫子の子。長保1(999)年2月著裳して従三位。11月1日輦車宣旨を得て入内。その際,厳選した女房40人らと共に,入内の吉方に当たる西京の大蔵属秦連理宅から内裏へ赴いた。長保2年中宮。同日中宮定子は皇后になった。これは,彰子がまだ幼いにもかかわらず,定子に一条天皇第1皇子(敦康親王)が誕生したことに危機を感じた道長が皇后並立を強行したもの。藤原行成は尼である定子らを指し,藤氏皇后が出家していては氏の祭祀に支障があると史上初の皇后並立を正当化した。寛弘5(1008)年土御門第(上東門第)で敦成親王(後一条天皇)を出産。邪気,物怪が多く出現し,陰陽師の祈り,僧侶の読経のなか,戒を受け頭頂部の髪を下ろして出産に臨んだ生々しい様子は『栄花物語』や彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』などに詳しい。寛弘6年には藤原伊周,高階光子,源方理らにより中宮と親王が呪詛される事件が起こる。同年上東門第で敦良親王(後朱雀天皇)を出産。寛弘8年夫天皇が死亡し,翌年皇太后になった。 以後も饗餞,仏事を主催する。寛仁2(1018)年後一条天皇元服により太皇太后となり,内裏では嫡后の居所である弘徽殿に入る。後宮のトップとして一族の子女の後見をする。道長主催の仏事にも参加し,治安2(1022)年仁和寺に観音院を建立した。万寿3(1026)年女房6人と共に上東門第で出家し,上東門院と号す。太皇太后宮職は停止されたが,年官などは旧のままに置かれた。法名は清浄覚。封戸200戸を加えられる。長暦1(1037)年,前年死亡した後一条天皇の火葬所に菩提樹院を建立。長暦3年法成寺で剃髪,受戒。87歳と長生きしたため,子や孫に先立たれる結果となった。
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上東門院
じょうとうもんいん
[生]永延2(988).京都
[没]承保1(1074).10.3. 京都
一条天皇の中宮藤原彰子。父は関白藤原道長,母は左大臣源雅信の娘倫子。長保1 (999) 年従三位に叙せられ,一条天皇の女御となり,翌年皇后に冊立 (さくりつ) され中宮職を付せられ,和泉式部,紫式部らの才女が仕えていた。一条天皇には皇后に藤原定子 (ていし) がいたので,2后が並立することになったが,その所生の敦成,敦良親王が後一条天皇,後朱雀天皇と相次いで即位するに及んで,外祖父道長の全盛時代を招来した。長和1 (1012) 年皇太后,寛仁2 (18) 年太皇太后となった。万寿3 (26) 年出家し,同時に上東門院の院号を賜わった。陵墓は京都府宇治市木幡の宇治陵。
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上東門院 (じょうとうもんいん)
生没年:988-1074(永延2-承保1)
平安中期の皇后。藤原道長の長女。名は彰子。法名清浄覚。999年(長保1)一条天皇に女御として入内,翌年中宮となり敦成(後一条天皇),敦良(後朱雀天皇)両親王を生んだ。紫式部が彰子に仕えたことは有名。1012年(長和1)天皇の死とともに皇太后,26年(万寿3)出家して門院号を受け,晩年は法成寺内に東北院を建てて住み,大女院と呼ばれ,国母と仰がれた。聡明・穏良の人柄でもあったが,晩年は肉親に多く先立たれて寂寥の影が濃い。
執筆者:今井 源衛
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上東門院
じょうとうもんいん
988~1074.10.3
一条天皇の中宮。名は彰子。父は藤原道長。母は源雅信の女倫子。999年(長保元)女御(にょうご)となり,翌年,中宮定子(藤原道隆の女)が皇后となり,彰子が新たに中宮とされた。1008年(寛弘5)敦成(あつひら)親王(後一条天皇)を,翌年敦良(あつなが)親王(後朱雀天皇)を生んだ。12年(長和元)に皇太后,18年(寛仁2)に太皇太后となり,26年(万寿3)院号をうけた。
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上東門院 じょうとうもんいん
988-1074 平安時代中期,一条天皇の中宮(ちゅうぐう)。
永延2年生まれ。藤原道長の長女。母は源倫子(りんし)。長保元年入内(じゅだい),翌年中宮となり,後一条天皇,後朱雀(ごすざく)天皇を生む。長和元年皇太后,万寿3年出家,院号をうける。紫式部,和泉(いずみ)式部が女房としてつかえた。承保(じょうほう)元年10月3日死去。87歳。名は彰子。法名は清浄覚。
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世界大百科事典(旧版)内の上東門院の言及
【女院】より
…以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。 院号宣下は,初例の東三条院の場合は出家による后位の停廃に基づき,第2例の太皇太后藤原彰子も1026年(万寿3)1月出家により上東門院の号を授けられたが,第3例の禎子内親王が陽明門院の女院号宣下を被ったのは1069年(延久1)2月で,すでに出家から二十数年を経ており,以後,出家と女院号宣下は必ずしも関係はなくなった。ただ以上の3例はいずれも天皇の生母で,后位にあるのを共通とする。…
【紫式部】より
…10年(寛弘7)夏ごろ《源氏物語》を完成し,さらに同年末までに《紫式部日記》をまとめたらしい。一条天皇没後も[上東門院]彰子に仕え,《小右記》長和2年(1013)5月25日条に〈為時女〉の文字が見える。同年10月ごろから長期間宮仕えを中断したあと,19年(寛仁3)1月に再び彰子のもとに出仕しているが,それ以降は明らかでない。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」