中村光夫(読み)なかむらみつお

精選版 日本国語大辞典 「中村光夫」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐みつお【中村光夫】

評論家劇作家小説家東京生まれ。本名木庭(こば)一郎。東京帝国大学卒。在学中より評論活動を始め、二葉亭四迷フローベール等に関する著述で認められた。以後、戦前・戦後を通じて、西欧近代文学による知見をベースとした多彩な評論活動を展開。評論「二葉亭四迷論」「フロオベルとモウパッサン」「風俗小説論」「志賀直哉論」のほか、戯曲「人と狼」「汽笛一声」、小説「贋の偶像」などがある。明治四四~昭和六三年(一九一一‐八八

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デジタル大辞泉 「中村光夫」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐みつお〔‐みつを〕【中村光夫】

[1911~1988]評論家・劇作家・小説家。東京の生まれ。本名、木庭一郎。近代リアリズムの歴史をたどり、日本近代文学に対して鋭い批判を行った。評論「二葉亭論」「風俗小説論」、小説「わが性の白書」、戯曲「パリ繁昌記」など。

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百科事典マイペディア 「中村光夫」の意味・わかりやすい解説

中村光夫【なかむらみつお】

評論家,劇作家,小説家。本名木庭(こば)一郎。東京生れ。東大仏文科卒。在学中から同人誌《銃架》《集団》に参加。また小林秀雄推薦で《文学界》に評論を発表,《フロオベルとモウパッサン》の他,《二葉亭四迷論》などがある。後者は《二葉亭四迷伝》(1958年)に結実。日本の近代文学の私小説性を西欧リアリズム小説との比較において批判・検討した。こうした視点は《風俗小説論》《異邦人論》《佐藤春夫論》等でも展開され,戦後の文芸評論界に大きな影響を与えた。
→関連項目唐木順三風俗小説吉田健一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村光夫」の意味・わかりやすい解説

中村光夫
なかむらみつお
(1911―1988)

評論家、劇作家、小説家。本名木庭(こば)一郎。東京に生まれる。東京帝国大学仏文科卒業。1933年(昭和8)、小林秀雄らの推薦で『文学界』に連載した『ギイ・ド・モウパッサン』(1933~34)や、池谷(いけたに)信三郎賞を受けた『二葉亭論』(1936)などで、批評活動を始める。38年フランスに留学したが、翌年、戦争のため帰国。この間、山本健吉らと『批評』を創刊。第二次世界大戦後は雑誌『展望』の創刊にあずかるほか、次々と評論を発表、戦後批評界の中心となった。彼の立場は、近代リアリズムの正統論に立脚して、日本の近代文学の擬似性を批判するものであるが、『風俗小説論』(1950)はその代表的なものであり、さらに『谷崎潤一郎論』(1951~52)、『志賀直哉(しがなおや)論』(1953)、『佐藤春夫論』(1961)と進めて徹底した。ほかに戯曲に『人と狼(おおかみ)』(1957)、『パリ繁昌(はんじょう)記』(1960)、『汽笛一声』(1964)など、小説に『わが性の白書』(1963)、『ある愛』(1976)、『グロテスク』(1979)などがある。82年文化功労者。

[古木春哉]

『『中村光夫全集』全16巻(1971~73・筑摩書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中村光夫」の意味・わかりやすい解説

中村光夫
なかむらみつお

[生]1911.2.5. 東京
[没]1988.7.12. 神奈川,鎌倉
評論家,劇作家,小説家。本名,木庭 (こば) 一郎。第一高等学校を経て 1935年東京大学仏文科卒業。在学中から小林秀雄の知遇を得,『二葉亭四迷論』 (1936) で評壇の新人として登場。第2次世界大戦後は『風俗小説論』 (50) ,『異邦人論』 (52) のほか『谷崎潤一郎論』 (51~52) ,『志賀直哉論』 (53) ,『佐藤春夫論』 (61~62) などの長編作家論を書き,『ふたたび政治小説を』 (59) の硬文学待望論も話題を呼んだ。小説『わが性の白書』 (63) ,『贋の偶像』 (66) ,戯曲『人と狼』 (57) ,『パリ繁昌記』 (60) ,『汽笛一声』 (64) などの作品がある。 67年日本芸術院賞受賞。 70年日本芸術院会員。 74年日本ペンクラブ会長。 82年文化功労者。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村光夫」の解説

中村光夫 なかむら-みつお

1911-1988 昭和時代の評論家。
明治44年2月5日生まれ。東京帝大在学中から「文学界」に寄稿。昭和11年の「二葉亭四迷論」でみとめられる。戦後は私小説批判を中心に日本の近代文学のひずみを追究,「風俗小説論」「志賀直哉論」などを発表。「汽笛一声」「贋の偶像」など,戯曲,小説も手がけた。42年芸術院賞。57年文化功労者。芸術院会員。昭和63年7月12日死去。77歳。東京出身。本名は木庭(こば)一郎。
【格言など】自己批評をするには,まずその批評の対象になる自己を持つこと(「風俗小説論」)

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世界大百科事典(旧版)内の中村光夫の言及

【風俗小説】より

…海外の文学にもその例は少なくないが,日本では坪内逍遥が《小説神髄》(1885‐86)に〈小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ〉と唱えたことから風俗小説のあり方が問題とされる。なかでも中村光夫の《風俗小説論》(1950)は,その系統を小栗風葉の《青春》(1905‐06)あたりから探って,日本の近代小説のゆがみを指摘したものとして知られる。風俗小説が表面的なリアリズムに走って,そこに小説本来の虚構性,ひいては作者の思想性が欠如していることに言及してもいるからである。…

【文芸時評】より

…明治中期の内田魯庵,石橋忍月による先駆的な仕事をうけつぐ形で,明治末から昭和にかけては,近松秋江,正宗白鳥,佐藤春夫,広津和郎その他が,この分野を拡大してきた。そして,1922年以来20年間にわたって文芸時評を続けた川端康成と,33年ごろから約30年間月評家をもって鳴らした十返肇(1914‐63)が文壇の生き証人,目撃者の立場をとった現場主義的な批評を代表し,1930年から文芸時評をはじめた小林秀雄や,35年から新鋭として認められた中村光夫(1911‐88)らが,原理的批評を代表することになる。なお,80‐82年に発表された吉本隆明(1924‐ )の文芸時評は,文学創造の本質を把握したものとして高く評価された。…

【私小説】より

… このように私小説について特徴的なのは作品と論議とが同程度の重要さをもって発表されてきたことである。小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)(風俗小説)の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。…

※「中村光夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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