記録映画作家。軍国主義一色の日本の戦時下で,陸軍省の依頼と後援による《上海》(1938),《戦ふ兵隊》(1939)で,うわべは戦意昂揚をうたいながら,〈戦争と生命の悲痛な関係の実証だけ〉を描いて反戦,反骨の姿勢を貫いた。《戦ふ兵隊》は公開禁止になり,亀井は逮捕,投獄された。日本の文化映画の古典的名作とみなされるに至る短編(記録映画というよりは小林一茶の句と貧しい日本の農民の生活風景をからみ合わせ,ときには対位法的にモンタージュした作品)《小林一茶》(1941)にその戦闘的姿勢を一時〈後退〉させたあと,日本帝国主義と天皇制の侵略史をあばいた記録映画《日本の悲劇》(1946)を完成させるが,アメリカ占領軍に没収された。以後は山本薩夫と共同監督の《戦争と平和》を契機に劇映画に転向(《女の一生》1949,《女ひとり大地を行く》1953,等々),1953年の《基地の子たち》から,また記録映画に戻り,《生きていてよかった》(1956),《流血の記録・砂川》(1956)等々を撮ることになる。〈先入観に合わせた画面を撮るな。その場に立ったときの印象,思いを,正しく絵にすべきだ〉と主張したそのドキュメンタリストの精神は,《パルチザン前史》(1969)から《水俣》シリーズに至る土本典昭(1928-2008)や,三里塚闘争記録(《三里塚》シリーズ)から《ニッポン国古屋敷村》(1982)などを通して稲と日本人そのものの原生活へと踏みこんだ小川紳介(1935-92)に継承されている。
執筆者:広岡 勉
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記録映画監督。福島県生まれ。1928年(昭和3)レニングラード映画学校留学後、33年東宝の前身PCLに入社。『上海(シャンハイ)』(1938)で日中戦争の戦勝ではなく戦禍を編集して物議を醸し、さらに『戦ふ兵隊』(1939)では戦争の困苦に肉迫して軍部から上映禁止処分を受ける。『小林一茶(いっさ)』(1941)ののち、治安維持法により逮捕され、演出家資格を抹消された唯一の抵抗映画人となる。第二次世界大戦後東宝に復帰。山本薩夫(さつお)と共同監督の『戦争と平和』(1947)など劇映画もつくったが、東宝争議で追われた。1954年(昭和29)独立プロを創立し、原爆記録映画『生きていてよかった』(1956)、反基地闘争の『流血の記録 砂川』(1957)などを発表。
[佐伯知紀]
上海(1938)
北京(1938)
戦ふ兵隊(1939)
信濃風土記より 小林一茶(1941)
戦争と平和(1947)
女の一生(1949)
無頼漢長兵衛(1949)
母なれば女なれば(1952)
女ひとり大地を行く(1953)
生きていてよかった(1956)
流血の記録 砂川(1957)
世界は恐怖する 死の灰の正体(1957)
人間みな兄弟(1960)
みんな生きなければならない ヒト・ムシ・トリ…農事民俗館(1984)
生物みなトモダチ・パート2 教育篇 トリ・ムシ・サカナの子守歌(1987)
昭和期の映画監督 日本ドキュメントフィルム代表。
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…16ミリカメラの機動性を生かしたドキュメンタリー映画(山岳映画,海底探検映画,ニュース映画,科学映画等々)がその取材範囲を飛躍的に広げていったこともある。1930年ころの日本で起こったプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)によるプロパガンダの方法として,小型映画が〈家庭的娯楽から階級闘争の武器〉としてとらえなおされたこともその一つで,この方法は土本典昭の《パルチザン前史》(1969),《水俣》シリーズ(1971‐ ),小川紳介の《三里塚》シリーズ(1968‐ )に至るまで,日本のドキュメンタリー映画の歴史を貫くものといってもいいが,亀井文夫の《生きていてよかった》や《流血の記録―砂川》三部作(ともに1956)などは16ミリで撮影されたものが35ミリにブローアップ(拡大)して上映された。ウォルト・ディズニーの長編記録映画《砂漠は生きている》(1953)も,16ミリ(カラー)で撮影されてから35ミリにブローアップされたもので,《小型映画の世界》の著者宇野真佐男は,これを〈ブローアップ映画〉と呼んでいる。…
…また,ロマン・カルメーンの《戦うレニングラード》(1942),レオニード・ワルラーモフの《スターリングラード》(1943)というニュース映画を編集したもの2本と,ドブジェンコの《ウクライナの勝利》(1943‐45)のような長編ドキュメンタリーもつくられた。 日本では,日中戦争が泥沼化した1938年に,前線部隊と行動をともにしながら撮影取材を行った亀井文夫の《戦ふ兵隊》が,陸軍省情報部の後援で製作されたにもかかわらず,その〈生命の詩をうたう〉反戦的要素が濃厚すぎて軍当局から公開禁止にされ,以後,40年代に入ると,侵略戦争の激化とともに,〈国民総力戦への戦意昂揚,一億玉砕へと民衆を追い込む宣伝扇動の手段として記録映画は利用された。あらゆる映画は戦争遂行のためにのみつくられた〉(野田真吉《日本ドキュメンタリー映画全史》)。…
…アンドレ・ジッドの同名の小説を翻案映画化したメロドラマ《田園交響楽》(1938),新鋭戦闘機のPR映画ともいうべき《翼の凱歌》(1942)などを撮ったのち,召集されて中国の戦場に送られ,46年,最後の引揚船で帰還した。 47年,ドキュメンタリー作家亀井文夫と共同監督で,〈憲法普及会〉から東宝に依嘱された〈戦争放棄〉をテーマとする〈憲法記念映画〉として《戦争と平和》を撮り,真の作家的出発をする。《戦争と平和》は,占領軍がとった〈逆コース〉によって2ヵ月近い検閲紛争を起こしたのち公開されたが,反戦平和映画のさきがけとなった。…
※「亀井文夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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