仁阿弥道八(読み)ニンナミドウハチ

デジタル大辞泉 「仁阿弥道八」の意味・読み・例文・類語

にんなみ‐どうはち〔ニンアミダウハチ〕【仁阿弥道八】

[1783~1855]江戸後期の陶工。京都の人。清水焼を焼いて代々高橋道八を名のる家系の2代目。初代の次男。名は光時。仁和寺宮から「仁」の字を賜り、仁阿弥と号した。新旧の技術を修得し、琳派りんぱ風の意匠をよくした。

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改訂新版 世界大百科事典 「仁阿弥道八」の意味・わかりやすい解説

仁阿弥道八 (にんなみどうはち)
生没年:1783-1855(天明3-安政2)

江戸後期の京焼陶工。京の粟田口焼の陶工初代高橋道八(1742-1804)の次男で,名は光時といい,2代道八を襲名。松風亭,華中亭とも号したが,醍醐三宝院宮から阿弥号を,仁和寺宮から〈仁〉の字と法橋(ほつきよう)位を与えられ,1825年(文政8)以降,法橋仁阿弥を称した。陶法を初代道八に学ぶかたわら奥田穎川えいせん)や粟田口の陶工宝山文造にも学んだと伝える。1811年(文化8)窯を五条坂に移し,はじめは青花白磁(染付)の製作で名を挙げたが,また仁清や乾山,光悦など伝統的な和風京焼の写しを得意とした。また彫塑的な〈寿老人〉や〈お福〉にも秀作があり,高麗や南蛮写しにも優れた手腕をみせている。当時流行の中華趣味に走らず,純日本風な作風を求めて一家をなした。またその作風は各地の御庭焼や御用窯藩窯)に影響を与え,自身でも近江石山寺御庭焼,西本願寺の露山焼,和泉願泉寺御庭焼,嵯峨角倉家の一方堂焼讃岐松平家の讃(さん)窯,紀州偕楽園御庭焼にも参画している。晩年の42年(天保13)には桃山窯興し,温和な作風,琳派風な意匠によって広く万人に好まれた。その子孫は代々高橋道八を名のる。
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朝日日本歴史人物事典 「仁阿弥道八」の解説

仁阿弥道八

没年:安政2(1855)
生年天明3(1783)
江戸末期の京都の陶芸を代表する陶工。正しくは2代高橋道八。高橋家は伊勢(三重県)亀山藩士の出身と伝え,初代道八(松風亭空中周平)のとき京都に出て粟田口に開窯した。2代道八は初代の次男で,名を光時といい,父の雅号松風亭を受け継いだほか,華中亭と号し,以後この号が高橋家の雅号として定着した。のち醍醐寺三宝院門跡から「阿弥」の号,仁和寺宮から「仁」の字を賜ったので仁阿弥を号として多く使うようになった。仁阿弥は,建仁寺近傍の奥田穎川の門を叩き磁器の研究を進める一方,楽焼や野々村仁清以来の陶器の伝統をも受け継いで作域を拡大した。18世紀前半の京焼を代表する尾形乾山(深省)の乾山焼から多くのことを学び,京風の陶器作りに力を注いだ。そのなかでも,白化粧地に上絵付で春の桜・秋の紅葉をひとつの器に描く雲錦手は乾山焼によりながらも彼の得意の作となった。彫塑像も巧みで,寿老人,布袋,福禄寿など七福神の置物にも妙技を発揮した。中国趣味の煎茶道具作りには走らず,正統派の和様の伝統を守った。 文化8(1811)年粟田口から清水坂へ窯を移し,天保13(1842)年にはみずから隠居して伏見桃山に桃山窯を興し,法螺貝の道八印を捺した。その間文政7(1824)年には近江(滋賀県)石山寺の尊賢法親王のために石山御庭焼,西本願寺本如上人のために露山焼を造り,10年には紀州偕楽園御庭焼を助け,天保年代に入ると角倉玄寧のために京都嵯峨で一方堂焼を始め,3年には讃岐(香川県)高松藩主に招かれて讃窯御用窯を始めるなど盛んに活動した。<参考文献>河原正彦「京焼」(『陶磁大系』26巻)

(矢部良明)

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百科事典マイペディア 「仁阿弥道八」の意味・わかりやすい解説

仁阿弥道八【にんなみどうはち】

江戸後期の京焼の陶工。名は光時。高橋家の次男で2世を襲名。奥田頴川(えいせん)に師事,野々村仁清尾形乾山,李朝の写しなど多方面にわたり,特に琳派の画風を応用した雲錦手が有名。讃窯(さんよう),偕楽園窯などの御庭焼に招かれて作陶,晩年は桃山に窯を作って隠棲(いんせい)した。仁阿弥の号は仏門に入ってからのもの。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁阿弥道八」の意味・わかりやすい解説

仁阿弥道八
にんあみどうはち

[生]天明3(1783)
[没]安政2(1855).京都
「にんなみ」とも読む。京都の陶家高橋家の2世で,最も著名。名は光時,通称は道八,号は法螺山人など。仁阿弥の号は剃髪して仏門に入った 42歳以降用い,また文化9 (1812) 年に仁和寺宮家より法橋号を賜わった。主として京都五条坂で製陶し,晩年は伏見桃山でも焼いた。琳派や狩野派の絵を器体に写した雲錦手 (うんきんで) の酒器や茶器のほか,人物や鳥獣魚介などをかたどった置物類も得意とした。磁器も創製して名声を得,諸藩から多くの用命を受けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「仁阿弥道八」の解説

仁阿弥道八 にんあみ-どうはち

高橋道八(たかはし-どうはち)(2代)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仁阿弥道八」の意味・わかりやすい解説

仁阿弥道八
にんなみどうはち

道八

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世界大百科事典(旧版)内の仁阿弥道八の言及

【京焼】より

…なかでも穎川による呉須赤絵写しや古染付写しなどは,本格的な京焼における磁器焼造の初期の作例として注目される。また穎川の門下には青木木米,仁阿弥道八,欽古堂亀祐,三文字屋嘉介らが集まり,染付磁器や青磁,白磁,色絵磁器,交趾釉などに加えて伝統的な京焼の技法にも腕を振るった。木米は文人趣味豊かな煎茶具などで名をなし,亀祐は青磁に,嘉介は五彩磁器に優れ,仁阿弥は典雅な仁清写し,乾山写し,光悦写しなど和様の作品を多く残している。…

※「仁阿弥道八」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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