戦国大名。今川氏親(うじちか)の三男。母は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の女(むすめ)(寿桂尼(じゅけいに))。幼名は芳菊丸。最初駿河(するが)国富士郡今泉(静岡県富士市)の善徳寺の僧として梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、一時は京都建仁寺、妙心寺で修養を重ねた。1536年(天文5)4月に兄氏輝(うじてる)が早世すると異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)(良真(りょうしん))と家督を争い(花倉(はなくら)の乱)、同年6月これを倒し今川家を継ぎ、還俗(げんぞく)して義元と名のった。翌年2月、武田信虎(のぶとら)の女をめとり同盟を結んだが、これを契機に、従来同盟関係にあった北条氏綱(うじつな)が駿河東部に侵攻したため、以後富士川以東の支配をめぐって戦い(河東一乱)、45年同地域の支配を回復する。一方、尾張(おわり)の織田信秀(おだのぶひで)の勢力拡大により三河松平氏が圧迫されると、これを援助し三河へ出兵、42年、48年の小豆坂(あずきざか)合戦(愛知県安城市)をはじめ、織田氏としばしば戦っている。この過程で東三河の吉田(豊橋)城を制圧、49年には松平氏の岡崎城を占領し、ついで織田氏の支城となっていた安祥(あんじょう)城を奪取し、その際の人質交換により織田氏のもとにいた松平竹千代(徳川家康)を駿府(すんぷ)に迎えた。天文(てんぶん)(1532~55)末期にはそれまでの駿河、遠江(とおとうみ)に加えて、ほぼ三河の領国化に成功し、領国の拡大とともに支配体制を着実に強化していった。検地の実施、家臣団・寺社統制、商工業・伝馬(てんま)政策、鉱山開発などはその例であり、53年制定の仮名目録追加第20条にみられる「只今(ただいま)はをしなべて自分の力量を以(もっ)て国の法度(はっと)を申付」という一節は、東海一の戦国大名としての自信を表している。また西進を目ざす義元は領国東部の政治的安定を意図し、54年には政略結婚による北条氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))との三者同盟を完成させ(甲相駿同盟)、さらに58年(永禄1)には駿遠支配を子息氏真(うじざね)に分掌させ、自らは三河支配と尾張領国化を策した。今川氏の発展はこうした一連の内政と外交の充実、連携に基因していたといえる。しかし60年5月、駿遠三の兵力を動員し尾張へ侵入した義元は、織田方の丸根(まるね)・鷲津砦(わしづとりで)を陥落させ、同月19日、本陣を桶狭間(おけはざま)(愛知県豊明(とよあけ)市)に移したところで織田信長の急襲を受け、壮烈な戦死を遂げた。法名天沢寺殿秀峰哲公大居士。
なお近世史書類は、幕府の手前、神君家康を人質とした義元を戦国大名の器量として描いていないが、残された当時の史料による限り、義元はもっとも有能な戦国大名の一人だったといえる。
[久保田昌希]
『小島広次著『今川義元』(1966・人物往来社)』▽『小和田哲男著『駿河今川一族』(1983・新人物往来社)』▽『今川氏研究会編『駿河の今川氏』1~6集(1975~82・静岡谷島屋)』
(長谷川弘道)
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戦国時代の武将。氏親の三男。治部大輔。初め出家して承芳と称し駿河善徳寺にいたが,1536年(天文5)兄氏輝の早世後,次兄恵探と家督を争いこれを倒し相続,太原崇孚(たいげんすうふ)(雪斎)を登用して駿河・遠江両国の経営に着手した。翌年武田氏と結び,北条氏と対立した。他方,織田氏が三河に進出すると松平氏の求めに応じ三河に出兵,48年,小豆坂に織田氏を破り,翌年安祥城を攻略して人質竹千代(徳川家康)を奪い返し,本格的に三河経営に着手した。その間隙をぬって北条氏が駿河に侵入したが,54年,北条氏康,武田晴信と三国同盟を結び東方を安定させ西進策を整えた。60年駿遠三の大軍を率いて西上の途につき尾張に侵入したが,桶狭間に在陣中織田信長の奇襲にあい討死した(桶狭間の戦)。義元は父氏親の政策を発展させ,領国内に繰り返し検地を実施するとともに,《仮名目録追加》21ヵ条を制定し,戦国大名今川氏の最盛期を築いた。
→今川仮名目録
執筆者:加藤 益幹
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1519~60.5.19
戦国期の東海地方の武将。駿河・遠江・三河にわたる領国を築いた。1536年(天文5)兄遍照光院恵探(えたん)を倒して家督となり(花倉(はなくら)の乱),翌年武田信虎の女婿となった。その直後北条氏綱に駿河を侵されたが(河東一乱),45年攻勢に転じ,北条勢をおし返した。一方三河では松平氏とともに織田信秀と争い,42・48年の2度小豆坂(あずきざか)(現,愛知県岡崎市)で戦った。54年北条氏康・武田信玄と同盟を結び(善徳寺の会盟),織田氏との抗争に専念する態勢をつくったが,60年(永禄3)尾張国桶狭間(現,愛知県名古屋市と豊明市の2説)で織田信長に急襲されて敗死。内政面では徹底した検地とそれにもとづく兵力増強を行い,商工業の振興・統制など富国強兵を推進。53年には仮名目録追加を制定し,その一節「自分の力量を以て国の法度(はっと)を申付」は,戦国大名を象徴する言葉として有名。
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…足利氏の一族で,駿河を本拠として遠江・三河にも進出した守護大名,戦国大名。足利義氏の子吉良長氏の次子国氏が三河国幡豆郡今川荘を領して今川氏を称したことに始まる。今川氏発展の基礎を作った範国は,足利尊氏に従って行動し,鎌倉幕府滅亡後,遠江・駿河両国守護や室町幕府の引付頭人に任じられた。以後,駿河守護職は今川氏によって世襲され,範氏,氏家,泰範,範政と伝えられた。また,範国の次子貞世(了俊)は長く九州探題として活躍した。…
…近代兵制のもとでは1921年軍人軍属に関する刑事裁判を管轄する機関として軍法会議が設置された。戦国大名や近世大名が軍団の統制,戦闘能力強化のため制定した軍法としては,1553年(天文22)9月の毛利氏軍法,59年(永禄2)3月の今川義元定書,67年の武田信玄条目などが早期の制定に属するものであろう。今川義元が制定した7ヵ条の定書は,尾張侵入を前に公布したもので,兵粮馬飼料の給付,諸指令の順守,軍規維持,布陣や戦闘手段の厳守,隷属的奉公人の帰属などについて定め,最も整備された形態となっている。…
…父は庵原(いはら)氏,母は奥津氏。幼くして出家し,富士郡善得寺の舜琴渓のもとで承芳(のちの今川義元)とともに修行し,承菊と称した。のち京都建仁寺の竜堂常庵に参学し,妙心寺霊雲院の大休宗休の法を継いで弟子となった。…
…旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。
【古代】
東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する国評制下の評として長田評,荒玉評・紀甲評(藤原宮木簡),淵評・駅評(伊場木簡)などが確認されている。令制下では国郡制施行当初の管郡は浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長田,磐田,周智(すち),佐益(のち佐野(さや∥さの)),城飼(きこう),蓁原(はいばら)の10郡で,大国であったと推定されている。…
…父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。 6歳のとき,人質として駿府の義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られた。…
…しかし三河における松平氏の覇権は,35年(天文4)12月の清康の突然の死(〈守山崩れ〉)で中断した。 伊勢,遠江と流浪を余儀なくされた嗣子松平広忠は,今川義元の後援により37年6月に岡崎へ復帰し,一度は内訌は収拾されたが,西からの織田氏の圧力が強まると松平一族は再度分裂,広忠は今川氏への従属の度合を強め,松平氏の勢威は衰退の一途をたどった。49年3月に広忠が家臣に殺されると,松平領国は完全に崩壊した。…
※「今川義元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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