墓に副葬する葬具の一種。中国では人や鳥獣を木,土,金属などでかたどった人形を俑と呼び,器物をかたどった明器と区別した。孔子は芻霊(すうれい)(草人形)を用いることを善しとし,人を写実的に描写する俑を用いることに反対した(《礼記》檀弓(だんぐう)下)。殉葬の人にかえて人形を埋葬することから出発したようであるが,時代が下るにしたがって鳥獣が加わり,明器とともに墓の不可欠な副葬品として明・清時代まで長く行われた。俑は各時代の風俗を敏感に反映しており,服飾や習俗を研究するうえで重要な資料であるとともに,美術的にもすぐれたものが多い。
殷代には陶製の俑のほか,石や玉で人や怪獣を彫刻したものがある。陶俑はごく少なく,石や玉の彫刻も一般的でない。器物の台脚などの装飾部材としてつくられたものもあり,俑の出現を殷代に認めない説もある。春秋・戦国時代の墓から芻霊は発見されないが,陶,木,金属の俑が出土する。山西省長子県7号東周墓の木俑は,頭から足までを一木で彫りだし,別木の腕をつけ,顔に泥をはりつけた武士俑で,衣服などの細部を黒と赤とで彩色する。同様の木俑は河南省信陽や湖南省長沙などの楚墓からも発見され,矛や盾を手にするものもある。また,楚墓では双角をつけた木彫の怪獣(鎮墓獣)を副葬する場合が少なくない。河南・山西省などで発見される黒陶俑は手のひらにのるほどの大きさで,細部の表現を省略しており,木俑とは異なった様相を呈している。洛陽市全村などでは鋳造の銅人が発見されているが,一概に俑といいがたい。秦の始皇陵の東側に展開する兵馬俑坑,馬葬坑から出土した一群の陶俑は壮観である。等身大に彫塑した中空の俑で,兵士,士官,将軍,馬,御者の1体ごとに顔,衣服,鎧などを個性豊かに彫刻し,焼きあげたのち各種の顔料で文様などを細かく着色する。また,兵士がもつ武器類や馬につける馬具類は実用の銅器である。それらは始皇帝の軍隊と厩舎を陶俑によって地下に再現したもので,膨大な数に達する。
前漢は秦の葬制を受け継ぎ,帝陵や王侯墓では,墓主の墳丘をめぐって兵士や侍女の陶俑をいれる俑坑が配される。しかし,羊や牛,犬の家畜類が加わり,戦車の代りに騎士が増加するなど漢制に基づいている。画一的な量産品で,小型化した型づくりであり,髪,衣服,鎧などを彩色で表し造形的には始皇陵よりも劣っている。一般の墓でも陶俑は副葬され,山東省済南市無影山1号漢墓の雑技俑のように,舞人,楽人などの群像セットにして表現するものがある。華南地方では木俑の出土例が多い。湖南省長沙馬王堆3号漢墓(馬王堆漢墓)の例をあげよう。正装男子官人俑2体,侍女俑10体,歌舞俑8体が冠,踏,衣服,仮髪などをきせた精巧品であるのに対し,一般の男女俑101体と楽人俑5体は彩色だけにとどまっている。地上の身分関係を俑に表しているのである。
後漢代では明器と組み合わさって俑が小型化する傾向がある。歌舞,サーカス(百戯),車馬行列,六博(棋の一種)の対局,農耕,厨房など生活の一場面を切り取って,複数の人や家畜で表現するものが多い。甘粛地方ではなお木俑を用いているが,華南地方でも陶俑が多くなる。墓室の入口に置き,外部からの悪霊から墓主を守る空想上の動物,すなわち辟邪が出現し,陶・木製のほか大型の石彫刻もある。甘粛省武威雷台漢墓の車馬行列俑はこの種のもので最も完備したものである。部分ごとに鋳造したものを溶接や鋲留めで組み立てた銅俑の総数は100体に上り,武士17,奴婢21,馬39,車14,牛1,脇息1という構成をとる。馬は武士をのせ,車を引き,車馬の行列をなす。この情景は同時代の壁画(壁画墓)や画像石に共通しており,太守級の将軍である墓主が配下を従えて地下で生活する場面を立体的に表現したものにほかならない。
魏・晋時代も後漢の制を受け継ぐ。後漢代からしだいに濃厚さを増す地方色が一段と強まり,湖南省長沙金盆嶺の西晋墓では,手づくねでスタンプ文様を施した素朴な青磁俑が出土している。南朝では俑が全般的に少なくなり小型化する。磁器製ではあるが,手づくねでつくる素朴なものが多い。北朝では彩色灰陶俑を主にするが,山西省大同の司馬金竜墓(484)のように,青緑釉や黄褐釉をかけた豪華品もある。型づくりの小型俑ではあるが,行動的なポーズをとり,個性的な表情を示すものが多い。墓主が騎乗する,豪華な馬具をつけた飾馬をいれるのもこの時期の特色であり,それまでは少数であった胡人俑が多く,ラクダとともにエキゾティックな雰囲気をただよわす。
隋・唐時代の俑は北朝の制を受け継ぐ。彩色灰陶俑を主にするが,長安,洛陽では官窯で製作した白磁,三彩,石彫など美術的にすぐれた俑が多数つくられる(唐三彩)。胡人やラクダはすっかり定着し,これに文官,武官,天王,魌頭(奇怪な容貌をもつ面具),獅子などが加わる。天王や魌頭は墓門にあって悪霊を防御するのであるが,前者は仏教の四天王に結びつくもの。これとは別に十二支の動物を人格化した十二生肖(せいしよう)もこの時代に加わる俑である(十二支像)。新疆ウイグル自治区トゥルファン(吐魯番),アスターナの唐墓から出土する彩色の泥俑は,唐制に基づくものであるが,手づくねの造形と素朴な彩色はユーモラスな感をかもしだす。隋・唐以降もなお俑はつくられつづけていくが,唐の陶俑を凌駕するものは現れなかった。
→明器
執筆者:町田 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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墓の副葬品としてつくられた人形。明器(めいき)の一種で、一般に中国の人形明器に俑の名称を用いる。その材質によって、陶俑、木俑、銅俑などがあり、玉石のものもある。殷(いん)後期にすでに玉製の人物像が存在し、これらも俑の一種ではあるが、俑とよばれる遺物の出土は戦国時代以降のものが多い。戦国の遺物としては湖南省長沙(ちょうさ)出土の木俑、山西省長治出土の小陶俑などが知られ、秦(しん)の始皇帝陵の兵馬俑坑(ようこう)からは等身大の陶俑が出土している。漢代の墓からも多くの陶俑、木俑、銅俑、石俑が出土し、魏晋(ぎしん)南北朝から隋(ずい)、唐、宋(そう)、元(げん)、明(みん)に至るまで各種の俑がつくられている。
[飯島武次]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…さらにイタリア半島でもローマ人に先立って古代文明を樹立したエトルリア人は,前6世紀に,ギリシアの青銅像や大理石像に代わって等身大の人物像をテラコッタで制作,陶芸における彼らの卓抜した技量を示した。 一方,東洋では日本の縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪,さらに中国の戦国時代から唐代にかけて制作された土製の俑(よう)もテラコッタである。日本の土偶や埴輪は〈手づくね〉であったが,とくに埴輪は粘土を輪状に積み重ねて形成する〈輪積法〉もしくは粘土を紐状にして積み上げる〈紐作り法〉であるのに対し,中国の俑はタナグラの小像と同様に型による成形で,唐代の加彩人物像,騎馬像などはテラコッタの最もすぐれた作例とされる。…
※「俑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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