デジタル大辞泉 「傘」の意味・読み・例文・類語
かさ【傘】
[類語]洋傘・唐傘・番傘・蝙蝠傘・蛇の目傘・雨傘・日傘・パラソル
頭髪にかぶる笠(かさ)に対して、手に持つ「かさ」を傘あるいは差し傘という。日本では、古くは貴族たちや僧侶(そうりょ)たちの間で日除(ひよ)け傘として使用されたが、鎌倉時代中期になると雨傘として用いられるようになった。さらに江戸時代中期に、子供用の日傘が登場すると、これが大人の間にも利用されるに至った。
[遠藤 武]
傘は、元来外来文化の舶載品であり、日本に初めてもたらされたのは欽明(きんめい)天皇の時代(6世紀中ごろ)に、百済(くだら)の聖明王から贈られたものである。これは蓋(きぬがさ)といわれ傘の周りに裂(きれ)を張り巡らして房をつけ、長い柄(え)の長柄傘として、儀式や外出のおりに天皇をはじめ公家(くげ)たちの頭上に従臣が差しかけて用いた。長柄傘は鎌倉時代に仏教文化が盛んになると、僧侶の間で紙張りをした朱塗傘が用いられ、江戸時代には大名の参勤交代あるいは登城など、供揃(ともぞろ)えのときに爪折(つまおり)傘として用いられた。民間では特殊な社会、つまり廓(くるわ)で太夫(たゆう)が道中をする際に、定紋をつけた長柄傘を用いたが、この姿は歌舞伎(かぶき)『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのよいざめ)』などの舞台では欠くことのできないものである。
[遠藤 武]
一方、雨具としての傘は、絵巻物、たとえば鎌倉時代の『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』あるいは『法然(ほうねん)上人絵伝』などによるとイグサを使ったろくろ式の開閉装置のあるものがみられる。江戸時代になると紙張りのものが出てくる。傘張りの職人は室町時代の『七十一番職人尽(づくし)』のなかにみられ、また狩野吉信(かのうよしのぶ)の壺(つぼ)印のある『職人尽絵屏風(びょうぶ)』(川越市喜多院蔵)のなかにもみられるが、これらの傘はいずれも長柄傘である。柄の長さを短くして雨天用の差し傘としたのが、大黒屋の「つんぼ傘」といわれるものである。この傘は柄も骨も太くて頑丈そのもので、和紙に荏油(えのあぶら)を引き、大坂でつくられた。それが江戸へ運ばれてだいたい元禄(げんろく)年間(1688~1704)から町民の傘となり、正徳(しょうとく)年間(1711~1716)には江戸でもつくられて番傘といった。その後、雨傘には蛇の目(じゃのめ)傘、奴(やっこ)傘あるいは紅葉(もみじ)傘などがつくられた。
蛇の目傘は、傘の中央と端の周りに紺土佐(こんどさ)の紙を張り、中間を白紙にしたもので、傘を開くと、太い輪の蛇の目模様が現れるところから名づけられた。元禄年間に大黒傘を改良してつくったのに始まる。紺土佐のかわりに渋にべんがら(弁柄)を加えて色づけした紙を張ったものを渋蛇の目といい、上方(かみがた)での利用が多かった。また江戸では、奴蛇の目といって周囲を薄墨(うすずみ)にして、傘の中央を黒くしない傘を好んだ。これは上方では用いられなかった。紅葉傘は傘のなかでとくに細身の柄に割い籐(さいとう)を巻き、中央の骨つがいから上を紺土佐、それ以外を白紙とし、糸装束などを飾った上等のものである。
[遠藤 武]
傘は雨傘以外に日傘があった。これは元来は子供のさすものであった。江戸時代初期、男女ともに布帛(ふはく)で顔を包み隠すことが行われ、これを覆面といって、外出には欠くことのできないものであった。ところが17世紀中ごろ、浪人たちによる幕府転覆計画が発覚し、幕府は覆面の禁令を発布した。このため男女ともに素顔で歩かざるをえなくなり、笠(かさ)のかわりに、大人も日傘を用いるようになった。女性のさし物として日傘が定着したのは、宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)からである。幕末になって、単なる日傘ばかりではなく、雨傘としても使える両天(りょうてん)傘が現れた。これは多く上方でつくられた。その特色は、傘の反りが雨傘より傾斜が緩やかであり、雨のときを考えて、紙に荏油を薄く引いたことである。また開港となってからは、欧米文化が開港場に取り入れられていった。横浜では貿易商をはじめ武士も、西洋製の鉄でつくられた8骨ないしは16骨の絹傘を用いるものがあったという。この絹傘が後のこうもり傘で、晴雨両用となり、さらに杖(つえ)(ステッキ)ともなり、文明開化の表徴とされた。
明治も中期以降になると、鉄の柄に、はじき付き、ことに女物のこうもり傘は、絹張りの周囲に欧米風に房飾りをつけたり、レースを施すなどしだいに美しさを増していき、骨より柄の長いものが流行した。また深張りのものを美人傘とよんで、甲斐絹(かいき)、毛繻子(けじゅす)、琥珀織(こはくおり)などの高級織物を用いた。一方、明治の終わりごろからパラソルparasolが洋風の日傘として出現し、『横浜開港見聞誌』には、開港場で女性がさして歩いている図がみられる。パラソルが大衆化するのは大正に入ってからである。
[遠藤 武]
英語では一般に雨傘をアンブレラumbrella、日傘をパラソルparasolまたは日よけsunshadeとして区別するが、この二つは語源上からするとどちらも日傘である。つまり、アンブレラは「影」の意のラテン語umbraがイタリア語に入ってombrellaと指小辞化したもので、もともと「影をつくるもの」を意味した。一方、パラソルもイタリア語の「太陽から守る」意のパラソーレparasoleからきている。アンブレラ(雨傘)とパラソル(日傘)の使用区分が英語に現れるのは1750年ころのことである。ただし、フランス語ではオンブレルombrelleは婦人用の小さい日傘、パラプリュイparapluieは字義どおり雨よけ、つまり雨傘として明確に区分されており、晴雨兼用の傘はとくにアン・トゥー・カen-tout-casとよばれている。
傘の始まりは、おそらく人間の発生と時を同じくするくらいに古いということができよう。なぜなら、大きな自然の木の葉を、人間は日よけ、雨よけに用いたであろうから。しかし、傘の役割はそうした物理的・生理的側面から、やがては心理的・社会的側面へと拡大していく。すなわち、身分や権力の象徴として、ときには人間の影を意味する再生力の表徴として、宗教的意味合いをもつようになるからである。
もともと傘は古代オリエントに始まり、そこから東西に伝播(でんぱ)していった。古代インドではその痕跡(こんせき)を紀元前2000年ごろまでさかのぼる一方、やがてそれは仏教におけるストゥーパ(卒塔婆(そとば))や塔へと発展していく。古代メソポタミアにおける儀式用の傘は前14世紀のアッシリアにまでさかのぼる。また古代エジプトでの傘は前13世紀の中王国時代にまでさかのぼる。そこでの傘は単に日よけだけでなく、穹窿(きゅうりゅう)つまり天空を意味するものであり、陰と名誉の象徴なのであった。古代ギリシアやローマでも、傘は行列の際の神官や葬列での柩(ひつぎ)などにみられる一方、女性用の日よけとして一般的に用いられた。人々の普通の傘はシュロの葉と竹などでつくられたが、後代になると、赤紫に染め金の模様を施した象牙(ぞうげ)の柄(え)の日傘も登場するようになる。
中世に入って、アジア、アフリカではそれほど珍しくなかった傘も、ヨーロッパではまだまれな存在であった。帝政時代の古代ローマからビザンティンへと受け継がれた傘は、中世ヨーロッパのカトリック教会を通じてヨーロッパへと広まったが、それは高位と威信を表す天蓋(てんがい)として、王や聖職者などに差しかけられたもので、単なる傘以上のものであった。ヨーロッパでは、傘は一般にめめしいものと考えられたためか、長い間用いられなかった。こうしてフランスにパラソルが導入されるのは、1533年、イタリアのメディチ家から嫁したアンリ2世妃カトリーヌ・ド・メディシスによってのことであった。17世紀に入ると、傘は上層社会ではそれほど珍しくなくなってくる。ルイ13世は1619年に5本のサテンの日傘、18年後には金銀レースの縁飾りのある油布の雨傘をもっていた。またスペイン王女マリア・テレジアが1660年、ルイ14世に嫁してパリにやってきたとき、小さな日傘をさして馬車に座っているし、サン・ジャン作の1678年の銅版画には、日傘をさして散歩する婦人が描かれている。パラプリュイつまり雨傘は、18世紀になると日傘と並ぶおしゃれの道具になった。
イギリスでも、雨傘を意味するアンブレラの語が定着するのは18世紀初めである。そして今日的一人ざしのこうもり形の洋傘が発明されたのは、イギリスのハンウェイJonas Hanwayによって18世紀なかばのことであり、それが販売されるのは1787年、一般化するのは19世紀初めであった。金属骨の傘がイギリスのサムエル・フォックス社によって発明されたのは1847年で、以後傘は急速に普及した。
[石山 彰]
第二次世界大戦後の日本において、生活が洋風化し、また防水性の高い化学繊維が傘生地に用いられるようになると、洋傘は生産を伸ばし、昭和30年代には和傘の生産量を上回るようになった。折り畳み傘、ジャンプ傘(ワンタッチ傘)も普及した。
洋傘の骨は、傘生地を直接支える親骨、親骨を支える受け骨、傘の中心で主柱の役割をなす中棒から構成される。標準的な親骨の数は、一般的な長傘と、2段に折れるタイプの折り畳み傘では8本、3段以上に折れる折り畳み傘では6本だが、10本以上の親骨をもつ長傘など、デザインや耐久性などの理由からさまざまなものがある。親骨、受け骨の素材には、鉄、グラスファイバー、カーボンファイバー、アルミニウムなどが、中棒にはアルミニウム、鉄、カーボンファイバー、グラスファイバー、木などが用いられている。傘を開いた大きさに関係するのが親骨の長さであり、この寸法と生地の種類を表示することは、家庭用品品質表示法で義務づけられている。親骨の長さは使用対象により異なり、標準的なものは、紳士用の場合は長傘で65センチメートル、折り畳み傘で55~60センチメートル、婦人用では長傘が60センチメートル、折り畳み傘が50~55センチメートルだが、それぞれに大判のものもあり、また婦人用ではさらに小ぶりのものもある。学童用の長傘は幼稚園児で38センチメートル、小学校低学年で50~55センチメートル、高学年で60センチメートルが使用の目安になっている。傘生地にはポリエステル、ナイロン、絹、木綿、麻などの繊維や、ビニールフィルムなどが用いられ、それぞれの特性により雨傘、日傘などに使い分けられている。
国内の洋傘生産量は、1980年代前半には約4000万本前後であったが、安価な輸入品におされ、1987年(昭和62)には輸入品が国産品を上回り、2006年(平成18)の国内生産量は159万本にすぎない。2008年の洋傘輸入量は1億2900万本で、そのほとんどは中国製、9割以上が安価なビニール傘である。
[編集部]
『喜多川守貞著『類聚近世風俗志』(1934・更生閣)』▽『T. S. CrawfordA History of the Umbrella(1970, David & Charles, Newton Abbot, Great Britain)』
雨や日ざしを避けるため頭上にかざすもの。直接あたまにかぶる笠と区別するため〈さしがさ〉ともいう。しかし,傘と笠は関係深く,さらに,仏像の上に懸垂される天蓋や,宮廷の儀式に用いた〈きぬかさ〉とも共通する面がある。
中国の神話によれば,黄帝が戦いの際,五色の雲が花の形になって頭上にとどまったとき戦況が一変し勝利を得たので,これにちなんで華蓋をつくり,以後つねにかざしたという。華蓋は実際に国王や貴族の外出の際の日よけとして用いられたもので,日本では〈きぬかさ〉と読ませている(《和名抄》)。大きな笠に柄をつけて手にもつようにしたものが簦で,《和名抄》では〈おほかさ〉としている。日本では《万葉集》に蓋(きぬかさ)の語があり,《宇津保物語》《枕草子》《更級日記》などに〈からかさ〉の語が出てくる。
からかさ(唐傘)については,(1)唐・韓(から)から伝来したもの(《類聚名物考》),(2)柄笠(傘)の語があり,柄の字を〈から〉と読む(《貞丈雑記》),(3)さっと開いて,さすのが奇なるゆえ(《俚言集覧》),(4)からくりの〈から〉と同じくろくろ細工の意あるいは軽いの意(《俗語考》),というような説がある。文献では,唐傘,韓笠,簦,雨繖,油傘,笠傘,雨傘,竪笠,傘の字をからかさと読んでいる。繖はきぬかさ,つまり布を張ったかさをさすが,紙張りのかさも古くからあり,字音が同じ傘(サン)と区別はない。いずれにしても,古い時代の〈かさ〉がどんなものかは明確ではない。英語では傘をアンブレラumbrellaというが,これは〈影〉を意味するラテン語umbraが語源であり,フランス語では日傘をパラソルparasol(paraはよけるの意。太陽をよける),雨傘をパラプリュイparapluie(雨をよける)という。
古代オリエントの彫刻や絵画には権力者の頭上に傘をさしかけている場面があるが,これは権威を象徴している。古代ギリシア・ローマでも傘は見られるが,いずれも日よけが主で,婦人用であった。開閉できる傘は13世紀にイタリアでつくられたという。雨傘が使われたのは17世紀ころからで,18世紀イギリスの商人で慈善事業家のハンウェーJonas Hanway(1712-86)が1778年に雨傘をさしてロンドン市街を歩き,その大胆さに人々は驚いたと言い伝えられている。当時の傘の骨はクジラの骨であったが,1820年代に鋼鉄の骨がつくられ,52年にS.フォックスによってU字形の溝のついた骨が開発され,骨が細く,軽くて使いよい傘が普及するようになった。
《日本書紀》によれば,日本には552年(欽明13)百済の聖明王の寄進によって初めて蓋が伝えられた。絹張りの大型の傘で貴人にさしかけるものであった。みずから手に持つ傘は1594年(文禄3)堺の商人納屋助左衛門がルソン(呂宋)より伝えたといわれる。これが一般に普及しはじめるのは江戸時代になってからで,とくに女子は頭に直接かぶる笠が髪型を乱すことから傘がもてはやされるようになった。貞享・元禄(1684-1704)のころには長柄傘,蛇の目傘,正徳(1711-16)のころには大黒屋傘,享保(1716-36)のころには紅葉傘,渋蛇の目傘が流行した。粗末なつくりのものを番傘と呼んで,気軽に用いた。一方日傘も文禄(1592-96)のころから盛んに用いられ,延宝から貞享(1673-88)にかけて絵日傘が流行した。こうして傘が普及すると,古傘買い,あるいは古骨買いといって,紙が破れて役に立たなくなった傘を買い集める商人も出現した。江戸では買取りであったが,京坂では土瓶や土製の人形との交換が主であった。古骨は古骨屋が洗い,修理して傘屋におろし,張替傘として再生された。洋傘は1859年(安政6)にイギリスの商人により伝えられ,明治に入るとこうもり傘と呼ばれ文明開化の象徴として用いられるようになり,明治10年代には一般化した。
第2次大戦後,洋傘の開発はめざましく,1949年にはアメリカから輸入されたビニルフィルムを用いたビニル傘が売り出され,爆発的人気を得た。53年にはナイロン洋傘地の国産化,54年にはスプリング式折りたたみ傘の開発で,ナイロン生地を用いた折りたたみ傘の全盛時代に入っていった。また,自動車の乗り降りの際片手で操作できるようにくふうされたジャンプ傘は58年に試作され,61年に一般化,現在紳士物の長傘の70~80%を占めている。72年ころには有名デザイナーブランドの洋傘が登場した。洋傘のサイズは親骨の長さで表し,かつては紳士物63~66cm,婦人物55cm,骨数10~12本だったが,その後軽量化が進み,紳士物60cm,婦人物50cm,骨数8~10本のものが多くなった。しかし最近は大型のものも好まれている。和傘は1936-41年にかけてが生産のピークで年間約3500万本,洋傘の3~6倍の生産量があった。その後,戦争をはさんで49-50年には再び3500万本近く生産され,うち約1500万本は,寛永(1624-44)のころからの歴史をもつ岐阜市加納町でつくられた。しかしその後は和傘の生産量は激減している。現在の洋傘の国内需要は,輸入品も含めて年間6500万本である。
執筆者:菊田 隆
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…古墳は古木曾三川(木曾,長良,揖斐(いび)川)が伊勢湾に注ぐ河口近くに,4世紀半ばころの前方後円墳である円満寺山古墳が姿をみせ,ついで三川をそれぞれさかのぼって,はじめて地形的な障壁につきあたった地域に,4世紀後半の前方後円墳が築造された。つまり三野地方は,遅くとも4世紀半ば以前にヤマト勢力の傘下にはいり,その勢力が東国地方へ浸透するための後詰基地的な役割を担った。そしてこの三野国が大きく脚光をあびたのは,672年の壬申(じんしん)の乱であり,三野国味蜂間評(あじはちまのこおり)の湯沐邑(ゆのむら)が吉野(大海人皇子)方の挙兵根拠地とされ,また吉野方の全軍が和蹔(わざみ)(関ヶ原)に結集して攻勢に転じた。…
※「傘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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