勅使河原宏(読み)テシガワラヒロシ

デジタル大辞泉 「勅使河原宏」の意味・読み・例文・類語

てしがわら‐ひろし〔てしがはら‐〕【勅使河原宏】

[1927~2001]華道家・映画監督。東京の生まれ。勅使河原蒼風そうふうの長男。昭和55年(1980)草月流3代目家元を継承。前衛的な生け花作品を多く発表、のち幅広く創造活動をおこなう。知己であった安部公房の原作・脚本による映画作品を多く手がけた。代表作おとし穴」「砂の女」「他人の顔」など。「利休」で芸術選奨

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「勅使河原宏」の意味・わかりやすい解説

勅使河原宏
てしがわらひろし
(1927―2001)

映画監督、陶芸作家、いけ花の草月会3代目家元。東京生まれ。宏が生まれた年に、初代家元の父蒼風(そうふう)は東京・青山で草月会を創流した。幼年時代より父親のいけ花表現のモダニズムに触れ、のちの幅広い創造活動に影響を受けた。1944年(昭和19)、東京美術学校(現、東京芸術大学)日本画科に入学し小林古径(こけい)に師事したが、第二次世界大戦後、シュルレアリスム運動に影響を受けて洋画科(梅原龍三郎教室)へ転科し、1951年同科を卒業した。しかし、大学在学中絵は教室で習うものではないとの境地に至ると同時に、第二次世界大戦中のピカソたちによる反ナチズムの芸術運動を知り、社会と芸術との関連性に注目して、シュルレアリスム運動に傾倒する。

 また、岡本太郎の紹介で安部公房(こうぼう)を知り、1950年に社会派画家たちの集団「世紀の会」に参加する。その後、シュルレアリスムからドキュメンタリー芸術へ転換し、労働者・大衆と知識人との連携を目ざして安部らと「人民芸術家集団」を結成、政治活動へのかかわりを深めた。大学を卒業後、飲料会社の図案部に就職したが、草月会の季刊誌『草月』が創刊されると同時に編集長となる。1953年には映画『北斎』の演出にかかわり映画に熱中する。映画監督亀井文夫の下で助監督などを務め、その後ドキュメンタリー映画『十二人の写真家』(1955)、『蒼風とオブジェ いけばな』(1956)を監督した。また、1957年松山善三(1925―2016)、羽仁進荻昌弘(1925―1988)らと映画制作プロダクション「シネマ57」を結成。1964年には勅使河原プロダクションを設立。

 安部の脚本による映画『おとし穴』(1962)と『砂の女』(1964。カンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞)、そして『他人の顔』(1966)は、勅使河原の代表作になったが、安部の寓話(ぐうわ)的世界に対し、勅使河原の即物的に現実をとらえる手法が重ねられており、自然や物質の世界から人間世界を表現したものとして評価された。

 一方、1958年に草月会館(東京)が開館し、勅使河原を中心として翌1959年、草月アートセンターが開設された。同センターは現代音楽・ジャズ演劇・舞踏、実験映画・アニメなど、ジャンルを超えた実験的芸術の拠点として、1960年代の前衛芸術の象徴となり、つねに社会と芸術との関係を問い続けてきた勅使河原の総合芸術の実践の場でもあった。日本アバンギャルド運動の発信基地としての草月アートセンターは、土方巽(ひじかたたつみ)の「暗黒舞踏」や寺山修司の「天井桟敷(さじき)」の公演が行われ、1962年のジョン・ケージのイベントが行われた際には「ジョン・ケージ・ショック」といわれたほどの反響をよんだ。1963年には「バウハウス展」も開催された。また催しの内容を盛り込んだ同センターの機関誌『SACジャーナル』の発行も、このセンターの活動の先駆性を特徴づけており、日本の戦後前衛芸術に大きな影響を与えた。

 映画監督としては後年、ドキュメンタリー映画『アントニー・ガウディ』(1984)、三國連太郎(1923―2013)主演の『利休』(1989。モントリオール国際映画祭最優秀芸術賞受賞)を手がけた。ガウディの装飾性と、利休の切りつめた最小限の美の対比は、いけ花の表現を支える「自然観」に対応するものであった。勅使河原の一連の映画作品には、悠久たる自然と、同時代の人間の表現とがいかにかかわりあっていくべきかの問いが含まれていた。

 1979年に蒼風が死去し、2代目家元に妹の霞(かすみ)(1932―1980)が就任するが死去。1980年、宏は3代目家元に就任。いけ花では、竹の伸びやかな性質を使い、幾何的な構成でリズミカルかつ豪胆な表現を開始し、初代家元のオブジェいけ花の教えを踏まえ、新たな時代のいけ花の方向性を示して国内外で高い評価を得た。死後、次女茜(あかね)(1960― )が4代目家元を継承。

[高島直之]

資料 監督作品一覧

十二人の写真家(1955)
蒼風とオブジェ いけばな(1956)
おとし穴(1962)
砂の女(1964)
他人の顔(1966)
インディレース 爆走(1967)
燃えつきた地図(1968)
サマー・ソルジャー(1972)
アントニー・ガウディー(1984)
利休(1989)
豪姫(1992)

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百科事典マイペディア 「勅使河原宏」の意味・わかりやすい解説

勅使河原宏【てしがはらひろし】

映画監督・華道家。東京都生れ。いけばな草月流初代家元の勅使河原蒼風(そうふう)の長男。東京美術学校(現,東京芸術大学)で油絵を学び,卒業後は映画界に進んで木下恵介に師事した。1962年に安部公房脚本の《おとし穴》を監督,同作品は日本アート・シアター・ギルド(ATG)の邦画初上映作品となった。1964年に勅使河原プロダクションを設立し,安部公房と組んだ《砂の女》(同年の第17回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞)や《他人の顔》《燃えつきた地図》,さらに歴史物の《利休(りきゅう)》(1989年度芸術選奨文部大臣賞を受賞),《豪姫》などで高い評価を得た。1980年に草月流第3代家元を継承する一方,陶芸や書でも才能を発揮した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勅使河原宏」の解説

勅使河原宏 てしがはら-ひろし

1927-2001 昭和後期-平成時代の華道家,映画監督。
昭和2年1月28日生まれ。勅使河原蒼風(そうふう)の長男。前衛いけ花を発表していたが,映画製作をはじめ,昭和39年「砂の女」で各種監督賞を受賞。55年2代家元で妹の霞が死去したため,草月流3代となる。竹をテーマに国内外で作品を発表。陶芸も手がける。平成2年映画「利休」で芸術選奨。平成13年4月14日死去。74歳。東京出身。東京芸大卒。

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世界大百科事典(旧版)内の勅使河原宏の言及

【草月流】より

…蒼風のいけばなは造形芸術としてのいけばなの確立をめざしたもので,初期には古典派の華道界からの批判も多かったが,その恵まれた才能によってとくに45年以降はいけばな界の中心作家として活躍した。いけばなの造形性の追求は現在でも草月流の主張であって,蒼風によって高められたいけばなの芸術性は現家元勅使河原宏によって継承されている。東京赤坂にある草月会館は,蒼風のつくりあげたモニュメントであって門下の精神的な拠点ともなっている。…

※「勅使河原宏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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