愛媛県東端の市。2004年4月伊予三島(いよみしま)市,川之江(かわのえ)市,土居(どい)町,新宮(しんぐう)村が合体して成立した。人口9万0187(2010)。
四国中央市中部の旧市。1954年三島町,寒川(さんがわ)町と松柏,豊岡,富郷(とみさと),金砂(きんしや)の4村が合体し市制,改称。人口3万6832(2000)。南の法皇山脈北麓には中央構造線が東西に走り,北流する大きな河川はないが,北の燧(ひうち)灘に向けて扇状地式三角州が連なる。南からの局地風〈ヤマジ風〉が春から夏に発生するため石置き屋根や鉄筋コンクリート造の民家が多い。別子銅山とともに高品位銅鉱で知られた佐々連(さざれ)銅山は79年閉山した。大王製紙を中心とする日本有数の製紙地帯として知られ,市の出荷額の約9割を産する。東部の村松地区では東隣の旧川之江市妻鳥(めんどり)地区とともに水引細工が盛んである。紙関係の商社が多く,地方銀行の支店も多い。農業ではサトイモ,ツクネイモの栽培が目立つ。1963年柳瀬ダムが完成し,銅山川をせき止めた金砂湖は富郷渓谷とともに行楽地となっている。天然記念物に下柏の大柏(イブキビャクシン)がある。71年,港は重要港湾三島川之江港に指定された。JR予讃線が海岸沿いを東西に通り,旧川之江市との境に松山自動車道の三島川之江インターチェンジがある。
四国中央市北東部の旧市。燧灘に面する。北は香川県,東は徳島県と接する。1954年3月川之江町が二名(ふたな)村を編入,同年11月金生町,上分(かみぶん)町および妻鳥(めんどり)・金田(かなだ)・川滝3村と合体して市制。人口3万8126(2000)。市名は金生川の河口を中心に栄えたことによる。中心産業は宝暦年間(1751-64)に始まる製紙業で,その発展は明治期に普及・改良に努力した薦田(こもだ)篤平や和紙生産の機械化に成功した篠原朔太郎らの業績による。市の工業出荷額に占めるパルプ・紙・紙加工の割合は約80%(1995)で,機械すき製紙工場,手すき和紙工場,紙加工工場などが多数あり,隣の旧伊予三島市とともに静岡県岳南地区に次ぐ製紙地帯を形成している。特に全国一の衛生紙綿のメーカーもある紙加工は,妻鳥地区の水引細工とともに有名である。JR予讃線が通るほか,西部で国道11号線と192号線が合流し,四国の東西と南北を結ぶ松山自動車道,高知自動車道,徳島自動車道の交点にもなっている。17世紀に建てられた真鍋家住宅(重要文化財)が山田井にある。
執筆者:穐岡 謙治
伊予国最東部の交通上の要地で,中世には川之江城があったが,1636年(寛永13)一柳直家の入部によって陣屋が構築された。一柳氏の後,松山藩預所,大坂代官所支配,また松山藩預地として天領であり廃藩に及んだ。したがって江戸時代の川之江村は天領支配の陣屋町であり,同時に町方,浜方,村方が共存するという異色ある発達を見た。1701年(元禄14)の川之江村明細帳には家数688,人口3603とある。そのうち町方は上下の古(ふる)町,新町,農人(のうにん)町,塩屋町に分かれ,ほかに裏ノ町,鉄砲町があった。川之江陣屋(一柳陣屋跡)は新町東側の裏ノ町にあった。浜方は廻船の港町であり,浜町(東浜,西浜),浦町,川原町が発達し,1868年(明治1)には廻船49があった。村方は井地,天生津(あもうづ),大門(だいもん)などの枝郷に分かれ,これも町方化した。川之江湊は金生川河口にあり,廻船業者は九州,中国,上方方面と盛んに交通した。
執筆者:三好 昌文
四国中央市東部の旧村。旧宇摩郡所属。人口1808(2000)。吉野川の支流銅山川の中流域に位置し,法皇山脈に属する山地が村域の大部分を占める。中心集落の新宮は古代は《和名抄》に見える山田郷に属し,伊予国府(現,今治市)から土佐国府(現,南国市)へ通じる官道と阿波国への通路であった銅山川の交差地にあたる交通の要地で,村内の熊野神社境内出土の貞応2年(1223)の神鏡銘には古美(こみ)新宮とある。807年(大同2)に紀伊国新宮より勧請したと伝える熊野神社もあり,四国の熊野信仰第一の霊場として栄えた。神鏡のほか,嘉禄2年(1226)の奥書のある《大般若経》600巻が残る。近世は土佐藩の参勤交代路ともなり,馬立には本陣跡がある。林業を基幹産業としてきた山村で,慶長年間(1596-1615)以来タバコの栽培が広く行われている。近年,塩塚高原では斜面を利用した酪農が盛んで,行楽地にもなっている。銅,硫化鉱を産出した新宮鉱山は1978年に閉山した。女人高野として有名な仙竜寺は空海修行の跡といわれる。1992年四国を南北に貫く高知自動車道が開通した。
四国中央市西部の旧町。旧宇摩郡所属。人口1万7560(2000)。北は燧灘に面し,町域中央を関川が流れ,南部は法皇山脈の山地である。開発の歴史は古く,多くの考古遺跡があり,宇摩郡内唯一の式内社村山神社(名神大社)が津根に鎮座,古代南海道の近井(ちかい)駅も町域内に比定される。江戸時代前期,西条藩から宇摩郡内5000石を分知された一柳直照の陣屋が津根の八日市に置かれていた。温暖多雨で古くからの米作地帯であるが,春から夏にかけて宇摩地方特有の〈ヤマジ風〉が吹くため,耐風作物としてサツマイモ,サトイモ,ショウガなどの根菜類を栽培し,かんきつ類は防風林をめぐらして栽培している。JR予讃線と国道11号線,松山自動車道が東西に走り,西隣の新居浜市への通勤者も多い。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛媛県の東端にある市。2004年(平成16)に川之江市(かわのえし)、伊予三島市、宇摩(うま)郡の土居町、新宮村が合併して成立(宇摩郡は消滅)。北は瀬戸内海の燧(ひうち)灘に臨み、東は香川県と徳島県に接し、南は石鎚(いしづち)山脈を隔てて高知県。石鎚山脈と北側にある支脈法皇(ほうおう)山脈の間を銅山(どうざん)川がほぼ東流し、北部では金生(きんせい)川が北西方に流れて燧灘に注ぐ。法皇山脈の北を嶺北、南を嶺南とよぶ。JR予讃線、国道11号、192号、319号が通じる。松山自動車道の三島川之江インターチェンジ・土居インターチェンジ、高知自動車道の新宮インターチェンジ、松山自動車道、高松自動車道、高知自動車道の川之江ジャンクション、高知自動車道と徳島自動車道の川之江東ジャンクションがある。
土居町地区は早くから開けていたとみられ、縄文時代後期の藤原縄文遺跡があり、弥生時代の立石(たていし)遺跡からは中広形銅矛、大地山(おおじやま)遺跡からは石剣が出土した。旧川之江市地区は金生川流域に弥生時代、古墳時代の遺跡が多く、弥生時代の中広形銅矛、平形銅剣が出土している。横穴式石室に金環金銅透彫帯冠などが収められた東宮山古墳、四国最大級の2基の横穴式石室を有する宇摩向山古墳(国指定史跡)など多数の古墳が分布する。
旧川之江市地区は讃岐・阿波・土佐の国と伊予国を結ぶ要衝の地で、古代には伊予国府と土佐国に到る官道が現市域を通った。新宮町地区では古来阿波に通じる銅山川と土佐への道が交差し、13世紀の年紀をもつ神鏡が出土している。中世には川之江城などで攻防が繰り返された。江戸時代初期の一時期は川之江に川之江藩一柳氏の陣屋があり、宇摩郡などを支配した。以降は西条藩領、今治藩領、幕府領などに分かれ、川之江には幕府領支配のための代官所が置かれた。川之江は土佐への道、金毘羅(こんぴら)道が通り、本陣や商家が軒を連ねた。新宮町の土佐道に沿う馬立(うまたて)にも本陣跡が残る。金生川河口の川之江湊は漁業や廻船業で繁栄し、近辺の年貢米が別子銅山の用米として新居浜に送り出された。
近世からの伝統を引く製紙業は明治末期に篠原朔太郎(1865―1952)による技術改良があり、第二次世界大戦後は銅山川に設けられた柳瀬ダムの金砂湖(きんしゃこ)からの分水により、嶺北の東部は日本有数の製紙地帯として発展を遂げた。和紙・洋紙・不織紙・機能紙など多種多様な製品が生産され、大・小の企業が立地する。和紙から作る水引は全国に知られる。農業は米のほかミカン、茶、シイタケや、フェーン現象を伴うやまじ風が吹く沿岸部ではカンショやサトイモが栽培される。金砂湖を含む銅山川一帯は金砂湖県立自然公園に属する。紙のまち資料館、愛媛県産業技術研究所紙産業技術センターがある。面積421.24平方キロメートル、人口8万2754(2020)。
[編集部]
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