政治家。山口県生まれ。佐藤栄作は実弟。旧制一高を経て1920年(大正9)東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。1931年(昭和6)商工省で重要産業統制法の立案・実施にあたり、以降革新官僚の頭目として軍部(統制派)との連携を強めた。1936年、工務局長を辞し「満州国」実業部次長として渡満、満州産業開発五か年計画を実施し、実際上の責任者として「満州国」の経済軍事化を推進した。帰国後、1940年商工次官。1941年東条英機(とうじょうひでき)内閣の商工大臣となり、太平洋戦争開戦の詔書に連署した。1942年翼賛選挙で当選し、政治基盤を獲得。1943年国務大臣兼軍需次官として戦時経済体制の実質的な最高指導者となった。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、1948年(昭和23)末釈放。1952年公職追放を解除され、日本再建連盟を結成。1953年3月自由党に入り、翌月の総選挙に当選し(山口2区)政界復帰。党内の憲法調査会長として憲法改正・再軍備を唱道した。1954年鳩山一郎(はとやまいちろう)らとともに自由党を除名され日本民主党結成に参加、幹事長となった。1955年保守合同後、自由民主党の幹事長。翌年総裁選で石橋湛山(いしばしたんざん)に敗れ、石橋内閣の外相に就任。1957年2月石橋首相の病気退陣により自民党総裁に選ばれ内閣を組織した。日米安全保障条約の改定を国民的な反対運動のなかで強行したため、1960年7月総辞職した。以後1979年まで衆議院議員。首相経験者として自民党最高顧問を務めた。状況変化に俊敏に対応し、変わり身が早く、情勢判断力・政治力にたけた典型的な官僚政治家とみなされている。
[荒 敬]
『吉本重義著『岸信介伝』(1957・東洋書館)』▽『岸信介他著『岸信介の回想』(1981・文芸春秋)』▽『岸信介著『我が青春』(1983・広済堂出版)』▽『『岸信介回顧録』(1983・広済堂出版)』▽『高橋正則著『昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史』(2000・三笠書房)』▽『岩見隆夫著『岸信介 昭和の革命家』(学陽書房・人物文庫)』▽『原彬久著『岸信介――権勢の政治家』(岩波新書)』
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政治家。山口県出身。佐藤家の出で父方の実家を継ぐ。佐藤栄作は実弟。東京帝大法学部卒。農商務省に入り,臨時産業合理局をへて,1935年工務局長。翌年,満州国実業部次長となり,37年より満州産業開発五ヵ年計画を推進。当時,東条英機,星野直樹,松岡洋右,鮎川義介とともに,満州国を動かす〈2キ3スケ〉といわれた。39年帰国,商工次官。同年5月,8万5000人の朝鮮人労働者を日本に強制連行・強制労働させる計画を,厚生次官と連名で公表。41年1月,経済新体制問題で小林一三商工相と対立,辞任するが,同年10月,東条内閣の商工相となる。42年,翼賛選挙で当選,翌年,軍需省新設で国務相兼軍需省次官。第2次大戦後はA級戦犯容疑で逮捕されたが,不起訴となり,48年12月釈放。講和発効後,公職追放解除とともに政界復帰。反共・憲法改正を掲げる日本再建連盟を作り,53年自由党から衆議院に当選。54年11月,鳩山一郎を担いで日本民主党を結成,幹事長となり,ついで保守合同を推進,翌年11月自由民主党幹事長となる。56年12月,同党総裁選で石橋湛山に敗れ,外相に就任したが,石橋首相の病気辞任により57年2月,首相に就任。58年,日米安全保障条約の改定交渉に入り,60年5月19日,衆議院で新条約を強行単独採決。同条約は6月19日,〈アンポ,ハンタイ。キシヲ,タオセ〉と叫んで国会を包囲した広範な民衆の見守る中で自然成立,23日批准書交換,発効した。翌月,人心一新の理由で内閣総辞職。以後も79年まで総選挙に6回連続当選。その後も親台湾・韓国の大物タカ派政治家として隠然たる力を持続した。
執筆者:神田 文人
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昭和期の政治家 首相;自主憲法制定国民会議会長。
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1896.11.13~1987.8.7
昭和期の政治家。山口県出身。東大卒。1920年(大正9)農商務省に入り,商工官僚として頭角を現す。36年(昭和11)満州国総務部次長をへて,39年商工省に次官として復帰。東条内閣の商工相,同省の軍需省への改組後は東条軍需相の下で国務相・軍需次官を務めた。第2次大戦後はA級戦犯容疑者として服役,48年釈放。52年追放解除後は反吉田保守勢力の糾合に尽力,日本民主党の幹事長,保守合同後の自由民主党の幹事長をつとめた。石橋湛山(たんざん)首相の発病とともに臨時総理,その後,2次にわたり内閣を組織。日米安全保障条約の改正を推し進め,安保闘争の攻撃目標にされた。新安保条約の国会承認後に総辞職。
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…内閣調査局時代から,企業の所有と経営の分離による公益的統制を主張して電力国家管理案を作成し,その実現に奔走した奥村喜和男(逓信省出身)の活動はその先駆をなすものであり,さらに40年後半の新体制論議のなかで,企画院案として提示された〈経済新体制確立要綱〉は,革新官僚の意図と方向を示すものとして注目を集めた。当時,革新官僚とは,岸信介商工次官,星野直樹企画院総裁ら,すでに満州国での経済統制の経験をもつ高級官僚と企画院の実務を担当している前記の奥村や,美濃部洋次(商工省出身),毛里英於菟(大蔵省出身),迫水久常(大蔵省出身)らの中堅官僚をひとまとめにした呼称として使われている。彼らによって作成・推進された〈経済新体制確立要綱〉は,企業の公共化,ナチス的な指導者原理の導入による統制機構の確立,利潤の制限などを骨子とするものであり,これらの要求が〈革新〉の名で呼ばれたのであった。…
…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…
…しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。…
※「岸信介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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