改訂新版 世界大百科事典 「平将門の乱」の意味・わかりやすい解説
平将門の乱 (たいらのまさかどのらん)
10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,935年(承平5)以来,常陸西部に館をもつ一族の平国香,平貞盛,良兼,良正らと合戦を繰り返していたが,939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い,国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては,将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と,国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが,ともに《将門記》にみえる。史料批判の立場からすれば後者をとるべきであろうが,いずれにせよ,この常陸国衙襲撃は国家に対する反乱の第一歩であり,こののち将門は,下野,上野,相模などの諸国の国衙を制圧して受領を放逐し,弟やおもだった従者を伊豆および関東諸国の国守に任じ,みずから〈新皇〉と称する。《将門記》によると将門らはさらに,下総の亭南に王城を建てることを議し,左右大臣,納言,参議,文武百官,六弁八史を点定し,新皇の印や太政官の印,公文書の書式や正字を定めたという。これはたやすくは信じられないが,将門は律令体制からの関東の自立をはかったものと推察され,足柄,碓氷の2関を固め,契丹の耶律阿保機(やりつあぼき)の建国をまね,武力による国家建設を主張したとも伝えられている。
このときほとんど同時に瀬戸内海の藤原純友が反乱を起こしたため,この事件は〈東西の兵乱〉として貴族たちに大きな衝撃を与えた。貴族の間では将門と純友が共謀して事を起こしたのではないかという危惧は事件勃発時からあり,《大鏡》などには将門が天皇に,純友が関白になるという盟約のもとに東西で蜂起したとしているが,この両者共謀説は信用できず,《純友追討記》が記しているように,将門謀反の由をきいた純友が乱を企てたとみるのが正当であろう。ともあれ東西の兵乱という危機に直面した政府は,純友を従五位下に叙してその懐柔をはかるとともに,地方の領主たちに恩賞を約束して追討への参加を訴える官符を発した(《本朝文粋》所収)。また貞盛や良兼の子の公雅,公連など将門と対立していた平氏一族をはじめ,従来しばしば追討の対象としてきた藤原秀郷らの群党的領主たちを押領使(追捕凶賊使)などとして登用し,940年2月初旬には,藤原忠文を征東大将軍に,藤原忠舒,源経基らを副将軍に任命して出征させた。しかし将門は,征東軍の関東到着以前の2月14日に,下野の藤原秀郷と貞盛,為憲らの軍に攻められ,下総猿島郡で討たれた。
将門の乱はこうしてわずか3ヵ月で平定されたが,律令国家成立以来の本格的な地方反乱として,後世に大きな影響を与えた。とくに乱の平定に活躍した藤原秀郷,平貞盛,公雅,源経基などの地方土豪が,恩賞として四位,五位に叙され受領に任命されたことの意義は大きく,その子孫は,武者でありながら中央貴族の家柄となり,地方の武士を組織しつつ事があれば反乱を鎮圧する〈武門の棟梁〉への道を歩み始める契機となった。また将門の関東支配には独自の政治構想が認められず,それは律令国家のミニチュア版にすぎなかったが,みずから新皇と称して律令体制からの自立をはかったことは,2世紀半後の源頼朝の東国政権の先駆として評価されている。京都下向の受領を放逐した将門の行動は,壮挙として東国の民衆の記憶に深く刻み込まれ,将門英雄伝承形成の基盤となったと考えることができる。《将門記》は乱に至る将門の合戦の模様を記した文学作品であるが,将軍実朝がこれをもとに《将門合戦絵》を描かせて愛蔵したことは,東国を基盤として生まれた鎌倉幕府の,将門の乱に対する精神的連帯感を象徴するものといえよう。
執筆者:福田 豊彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報