本多正信(読み)ホンダマサノブ

デジタル大辞泉 「本多正信」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐まさのぶ【本多正信】

[1538~1616]安土桃山・江戸初期の武将三河の人。幼少より徳川家康に仕え、謀臣として活躍。のち、2代将軍秀忠の側近。「本佐録」の著者といわれるが未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「本多正信」の意味・読み・例文・類語

ほんだ‐まさのぶ【本多正信】

  1. 江戸初期の大名。徳川家康の謀臣として近侍し、江戸城下の経営参画。家康が駿府に移ると二代将軍秀忠の執政として活躍した。「本佐録」の著者といわれる。天文七~元和二年(一五三八‐一六一六

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改訂新版 世界大百科事典 「本多正信」の意味・わかりやすい解説

本多正信 (ほんだまさのぶ)
生没年:1538-1616(天文7-元和2)

江戸初期の大名。徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で,のちの大老または老中に相当する位置にあった。通称を弥八郎。祖父の代からの松平氏の家臣。幼いころから4歳年下の家康に仕えたが,1563年(永禄6)三河一向一揆に参加して家康に背き,翌年国を出て加賀に住んだが帰参し,70年(元亀1)姉川の戦に参加。82年(天正10)には家康の文書を取り次いでおり,これ以前にその側近となっていたと考えられる。86年従五位下佐渡守。90年家康の関東移封にともない上野八幡(やわた)(現,高崎市内)で1万石(相模甘縄(あまなわ)との説もある)。のち加増をうけ2万2000石。1600年(慶長5)6月家康の上杉景勝攻めに従って下野小山(おやま)に随行したが,関ヶ原の戦では中山道を西上した徳川秀忠に従って信州上田城攻めに手間どり,美濃の本戦には参加しなかった。05年秀忠の将軍宣下後も秀忠の側近にあり,家康の側近であった子の正純との連携のもとに,実質的に秀忠を指導した。大坂の冬・夏の陣にも秀忠に従って参戦。4月に死んだ家康のあとを追うように16年6月7日江戸で没。鷹匠であったという説,加賀出奔中の戦傷により生涯足が不自由であったという説がある。家康との関係については,主従というよりも気心を知りあった友人であったことをうかがわせる逸話多数残っている。次子の政重は加賀前田家に仕え,子孫家老として明治維新にいたった。
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百科事典マイペディア 「本多正信」の意味・わかりやすい解説

本多正信【ほんだまさのぶ】

江戸初期の大名。佐渡守。幼少より徳川家康に近侍し,一時三河(みかわ)一向一揆(いっき)に加わり家康にそむいたが,のち帰参。1590年の家康関東入国の際,上野(こうずけ)八幡(相模甘縄(あまなわ)とも)1万石(のち加増)を与えられた。関ヶ原の戦では徳川秀忠に従う。1605年の秀忠将軍宣下後も秀忠の側近にあり,家康側近であった子の本多正純と連携して秀忠を補佐した。のちの大老あるいは老中に相当する位置にあって初期幕政に重きをなした。
→関連項目本佐録

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「本多正信」の意味・わかりやすい解説

本多正信
ほんだまさのぶ
(1538―1616)

徳川家康の側近。江戸幕府創業期に、後の大老・老中に相当する役割を果たした。古くからの松平氏譜代(ふだい)の家柄の生まれ。代々通称を弥八郎(やはちろう)。1563年(永禄6)三河一向一揆(いっこういっき)に参加して家康に敵対し、翌年国を出て加賀(石川県)に逃れた。帰参の年は明らかでないが、70年(元亀1)姉川(あねがわ)の戦いで軍功をたてたという言い伝えがある。82年(天正10)には家康の文書の発給に関係しており、このころまでに家康の側近となっていたことがわかる。86年従(じゅ)五位下佐渡守(さどのかみ)。90年上野(こうずけ)(群馬県)八幡(やわた)(相模(さがみ)甘縄(たまなわ)説もある)で1万石。のち加増されて2万2000石を領した。1605年(慶長10)ころから秀忠(ひでただ)の側近に配置され、家康の意を受けて実質的に秀忠を指導した。家康とは気心の通じ合った主従であり、君臣水魚の交わりともいうべき逸話が伝わっている。元和(げんな)2年6月7日江戸で没。治国の要を記した『本佐録(ほんさろく)』は正信の著と伝えられるが、後人による仮託であろう。

高木昭作

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朝日日本歴史人物事典 「本多正信」の解説

本多正信

没年:元和2.6.7(1616.7.20)
生年:天文7(1538)
戦国・江戸前期の武将。三河松平氏の譜代家臣本多俊正の子。通称は弥八郎で,名ははじめ正保,正行ともいった。家康に仕えたが,永禄6(1563)年から翌年にかけての三河一向一揆のとき,一揆方に加担したため追放され,のち同12年ごろ,大久保忠世の取りなしで帰参がかない「帰り新参」などと呼ばれた。天正10(1582)年の家康による甲州平定のころから頭角を現し,次第に家康の帷幄に加わって側近の謀臣として力を振るった。後年,家康と正信の間柄は「君臣の間,相遇ふこと水魚の如し」などといわれるほどであった。同14年,従五位下・佐渡守に叙任された。同18年,相模国玉(甘)縄で1万石。幕府は成立後,秀忠付の老職として2万2000石を領し初期幕政を担ったが,家康没後49日に当たる日,あとを追って没した。『本佐録』(1612)は彼の著という。

(小和田哲男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本多正信」の意味・わかりやすい解説

本多正信
ほんだまさのぶ

[生]天文7(1538).三河
[没]元和2(1616).6.7. 江戸
江戸時代初期の大名。俊正の子。幼名は弥八郎。別名は正保,正行。通称は佐渡守。幼少から家康に近侍していたが,永禄6 (1563) 年の三河一向一揆に参加して家康のもとを離れ,天正 10 (82) 年許され,再び出仕。同 12年の小牧・長久手の戦いで功を立て,同 18年家康の関東入封後,相模甘縄1万石を与えられた。家康が駿府に移ると秀忠に近侍し,江戸城の経営や幕府の中枢機構に参加して,子正純とともに権勢をふるった。治世の要目を記した『本佐録』は正信の作といわれているが,真偽は不明。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多正信」の解説

本多正信 ほんだ-まさのぶ

1538-1616 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)7年生まれ。徳川家康につかえるが,三河一向一揆(いっき)に味方して追放される。のち帰参し,家康の側近となる。関東入国後は相模(さがみ)(神奈川県)玉縄1万石をあたえられた。将軍秀忠を補佐し,幕政をになう。元和(げんな)2年6月7日死去。79歳。三河(愛知県)出身。初名は正保,正行。通称は弥八郎。佐渡守。
【格言など】堪忍は身を立つるの壁。苦労は栄華の礎(いしずえ)(「半日閑話」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「本多正信」の解説

本多正信
ほんだまさのぶ

1538~1616.6.7

織豊期~江戸初期の武将・大名。徳川家康に仕えたが,1563年(永禄6)三河一向一揆で一揆勢に加わり家康と交戦。その後家康に再び仕え,政務能力を高く評価される。90年(天正18)家康の関東入国に従い相模国玉縄(たまなわ)(上野八幡とも)に1万石を与えられ,関東総奉行となる。以後,家康の側近として活躍。1603年(慶長8)家康が将軍になると秀忠付となり,大久保忠隣(ただちか)とともに秀忠政権を支え,2万2000石に加増。

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旺文社日本史事典 三訂版 「本多正信」の解説

本多正信
ほんだまさのぶ

1538〜1616
江戸初期の譜代大名
三河(愛知県)の人。徳川家康・秀忠に仕えて信任を得,幕政に参画して忠勤を励んだ。『本佐録』はその著書といわれている。

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世界大百科事典(旧版)内の本多正信の言及

【本佐録】より

…また本書の〈天道〉観はキリスト教の影響の下に成立したことが指摘されている。2代将軍徳川秀忠の側近を務めた本多正信が秀忠のために書いたとされてきたが,内容上は,通俗訓戒書《仮名性理》(藤原惺窩著といわれる)に手を加え,正信著に仮託したものである。【高木 昭作】。…

※「本多正信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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