幕末の長州藩主。はじめ教明,慶親と名のり,のち敬親と改める。大膳大夫と称した。諡(おくりな)は忠正公。1837年(天保8)家督を継ぎ,村田清風を登用して天保藩政改革を推進した。61年(文久1)佐幕的開国策の航海遠略策を採用してみずからも運動したが,翌年,島津久光の率兵上京や幕政改革によって藩論を転換させざるをえなくなった。ただちに入京し,敬親臨席のもと木戸孝允や周布(すふ)政之助らの家臣と会議を開き,尊王攘夷の藩論と単独攘夷実行を決定した。63年下関でアメリカ商船などを砲撃して攘夷を実行したが,8月18日の政変で京都に勢力を失い,再起を期した禁門の変に敗れて官位・称号を奪われた。67年(慶応3)大政奉還後,官位を復し,69年(明治2)薩摩,土佐,佐賀藩と版籍奉還を奏請し,権大納言に任ぜられた。同年中に隠退して山口藩知事の職を子元徳に譲った。
執筆者:井上 勝生
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幕末維新期の大名。長州藩13代藩主。幼名猷之進(みちのしん)、名は初め慶親(よしちか)。11代藩主斉元(なりもと)の嫡子として出生。12代藩主斉広(なりとお)(10代斉煕(なりひろ)の子)が若年で死去したため、1837年(天保8)藩主となる。敬親は村田清風(せいふう)を抜擢(ばってき)し、38年から天保(てんぽう)の改革を実施する。これは31年の防長大一揆(いっき)の後を受け、藩政全般にわたる改革を実施し、富国強兵策を実現しようとするものであった。この改革は成果をあげ、藩財政は立ち直り、藩府要員のなかにも周布政之助(すふまさのすけ)などの人材が育った。63年(文久3)他藩に先駆けて攘夷(じょうい)を決行し、下関(しものせき)で外国船を砲撃する。しかし、64年(元治1)京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗退し、幕府の征長令を受け、官位・称号を奪われる。そこで諸隊を解散し、家老を処罰して恭順の意を表す。しかしながら藩内では討幕派が主導権を握り、65年(慶応1)には幕府軍を藩の四境(しきょう)で打ち破り、討幕派の先鋒(せんぽう)となる。69年(明治2)山口藩知事となるが、71年病死。
[広田暢久]
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1819.2.10~71.3.28
幕末期の大名。長門国萩藩主。父は11代斉元。1837年(天保8)12代斉広の養子となり,家督相続。村田清風を登用して,天保改革を推進させたが,のち坪井九右衛門を登用。両派の交替のなかで藩政を運営。61年(文久元)長井雅楽(うた)の航海遠略策を採用。公武合体を推進するが,松下村塾出身者の発言が強まり尊王攘夷論に転換。63年山口に藩庁を移した。同年8月18日の政変,禁門の変,四国連合艦隊の下関砲撃,長州戦争などの難局を適切な人材の登用で切り抜け,明治維新に一定の役割をはたす。
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…長州藩が天保改革を推進するため,領内の実態の把握を試み,全町村から差し出させた明細書。藩主毛利敬親(たかちか)は領内全域の町村に明細書の提出を求め,当職所に国郡志御用掛を置き,1842年(天保13)近藤芳樹にその編纂を命じた。本文395冊,古文書45冊。…
※「毛利敬親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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