石村(読み)いしむら

日本歴史地名大系 「石村」の解説

石村
いしむら

[現在地名]豊野町大字石

豊野とよの村の西部。東は中尾なかお村、東南は浅川あさかわ中央をもって赤沼あかぬま(現長野市)、南は南郷みなみごう村、西はよし(現長野市)、西北隅は平出ひらいで村(現牟礼むれ村)、北は神代かじろ村に接する。西北は丘陵性の山地で、東南に平地が開ける。その山麓を南郷村境から東北に村の中央を北国谷街道(飯山道)が通じ、これに吉村で北国脇往還から分岐した山道が東へ延びて谷街道に合する。集落は谷街道に沿い、その山際に散在する。なお、西北の村境に沿って北国脇往還が通じ、平出地籍から分岐したその脇道(神代道・松代まつしろ道)が神代村境を東南に通じている。

この地方は中世、太田庄の一郷。嘉禄三年(一二二七)一〇月、島津忠時(忠義)に対する地頭職安堵の将軍家下文に「信濃国太田庄内小島・神代・石村南・津乃已上四箇郷地頭職事」(島津家文書)とみえるのが初見である。



いしずむら

[現在地名]遊佐町豊岡とよおか

大淵おおぶち村の南にあり、南側は日向につこう川に面し、川を境に芹田せつだ(現八幡町)四ッ興野よっこうや船橋ふなばしの小字がある。日向川の洪水から村を守るため石築土をつくったことから石辻と称したとか、伏流水井清水いすじとなって湧くところから石辻と称したといわれている。楯畑たてはたには古代―室町期の集落跡がある。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二七九石余。寛永元年庄内高辻帳では高四一五石余。寛文九年(一六六九)検地帳(石辻区有文書)では高三五〇石余、反畝合計二八町三反余。名請人は一六で保有地の最も多いのは新左衛門の四町六反余、次いで五兵衛四町余、源助二町五反余、重助二町三反余、弥兵衛と三蔵が各二町余、以下一町以上二町未満六、五反以上一町未満三、五反未満一。


石村
いしむら

[現在地名]一宮町石

京戸きようど川の扇状地に位置し、東は京戸山、北は千米寺せんべいじ村・地蔵堂じぞうどう村。東から貫流する京戸川で村は北組と南組に分れる(「甲斐国志」など)。慶長古高帳に村名がみえ高四三八石余、幕府領。ほかに比津之ひつの宮領七斗余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本仙波・山上・布施・松平の四家がみえる。貞享―元禄期(一六八四―一七〇四)の川東領分並給人付帳(渡辺一若家文書)でも同じ四家領で、元禄郷帳では戸田・布施・松平の三家領と幕府領・櫃飯ひついい領。宝永二年(一七〇五)甲府藩領となり、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配。


石村
たるいしむら

[現在地名]村山市樽石

山の東山麓、樽石川中流の平野部出口に形成された集落。縄文時代の黒木沢くろきざわ遺跡がある。中世には小田島おだしま庄に属し、垂石たるいし郷と称した。延文五年(一三六〇)仲秋上旬に尼衆貞本元位・比丘尼正悟・尼衆貞平元位がそれぞれ「羽州村山郡小田嶋庄垂石郷 羽黒堂」に大般若経写経を奉納している(羽黒堂文書・瑞龍院所蔵文書)。羽黒堂文書には貞治三年(一三六四)孟夏中旬・同年初秋中旬の奥書のある写経もある。


石村
いしむら

[現在地名]山鹿市石

岩野いわの川左岸に位置し、東は熊入くまいり村、北はすぎ村、南は湯町と接する。文和二年(一三五三)一〇月二一日の早岐六郎英政本知行分を安堵した足利尊氏御教書案(詫摩文書)に「藤崎庄内石村地頭職」とあり、藤崎ふじさき八旛宮(現熊本市)領であったことが知られ、近世に至るまで同宮と深いかかわりを有する。その後も早岐氏の本領として相伝され、文明九年(一四七七)二月二九日の早岐和政願文(藤崎八幡宮文書)では当村のうち四町を神領として安堵している。


石村
いしむら

[現在地名]吉井町石

塩木しおぎ村の南にある。宇根うね山の東麓の谷間を北軒ほつけん川が北東に流れ、川沿いに細長い平地があり、倉敷往来が通る。標高約二五〇メートルの高地に集落が点在する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)佐井木さいき庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高二五四石余。貞享元年(一六八四)の磐梨郡高目録(池田家文庫)には枝村谷村(勘定場帳にはなし)の貼紙がある。「備陽記」によれば田畠二七町二反余、家数六〇・人数三八一、池四、四ッ堂、八幡宮(現石村神社)がある。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高三九四石余、家老土倉四郎兵衛給地。


石村
いしむら

[現在地名]会津若松市大戸町おおとまち雨屋あまや

阿賀川東岸にあり、北は面川おもがわ村、南は下雨屋しもあまや村。村内に長さ三尺ほどの石仏とよばれる自然石があったため石仏いしぼとけ村とよんだが、寛永年中(一六二四―四四)に仏の字を省いたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に石仏とあり、高六七石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高八四石余。化政期の家数一二(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一〇・人数七二(人員録)


石村
いしむら

[現在地名]木城町石河内いしがわち

川原かわばる村の北、小丸おまる川流域に位置する。石河内村とも称した。小丸川には城渡があり、渡船が一艘あった(日向地誌)。高鍋藩領で、石河内郷に属した。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高一二五石余。村高は幕末まで変わらない。旧高旧領取調帳では鹿遊かなすみ村・板屋いたや村を含み高二五二石余。明治五年(一八七二)鹿遊村・板屋村と合併して石河内村となる。


石村
さばいしむら

[現在地名]弘前市鯖石、南津軽郡大鰐おおわに町鯖石

ひら川東岸にあり、北は八幡館はちまんだて村・小金崎こがねざき村、南は宿川原しゆくがわら(現大鰐町)、西は平川を隔てて森山もりやま(現大鰐町)に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳には、八幡館村の支村とあり、村高九五・六四七石、うち田方八八・五五二石、畑方七・〇九五石、田位は上田から下々田まである。斗代は上田が一・三石で高い。屋敷地は二・二〇五石で、屋敷持は六名である。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、本村へ改められた。


石村
いしむら

[現在地名]木次町平田ひらた

斐伊川上流左岸にあり、対岸は平田村、北は尾原おばら村。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)の三沢之内石村検地帳によると、田方四町余・分米五八石余、畑方一町七反余・分米一〇石余、屋敷数六(うち御蔵・庄屋屋敷二)


石村
さばいしむら

[現在地名]大鰐町鯖石、弘前市鯖石

鯖石村(弘前市)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android