立原道造(読み)たちはらみちぞう

精選版 日本国語大辞典 「立原道造」の意味・読み・例文・類語

たちはら‐みちぞう【立原道造】

詩人東京出身。立原翠軒・杏所の後裔。東京帝国大学建築学科卒。詩誌「四季同人として活躍。繊細・純粋な詩風で昭和初期の典型的な抒情詩人と目される。詩集萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」など。大正三~昭和一四年(一九一四‐三九

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デジタル大辞泉 「立原道造」の意味・読み・例文・類語

たちはら‐みちぞう〔‐みちザウ〕【立原道造】

[1914~1939]詩人。東京の生まれ。堀辰雄室生犀星むろうさいせい師事リルケを好み、「四季」の同人として音楽的な叙情詩を発表した。詩集「萱草わすれぐさに寄す」「暁と夕の詩」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立原道造」の意味・わかりやすい解説

立原道造
たちはらみちぞう
(1914―1939)

詩人。大正3年7月30日、東京生まれ。旧制一高を経て、1937年(昭和12)東京帝国大学建築科を卒業。初め前田夕暮主宰の『詩歌』に自由律短歌を発表したが、三好達治の四行詩に触発されて詩作に転じ、ついで堀辰雄(たつお)、室生犀星(むろうさいせい)に師事、津村信夫(のぶお)や丸山薫、リルケ、『新古今和歌集』などの詩風を摂取しながら、繊細な詩語を音楽的に構成した独自な十四行詩型(ソネット)を創出した。1934年、初めて信州追分に滞在、この地の風光を愛し、以後多くの詩の背景としている。堀辰雄らの『四季』の同人となり、『コギト』などにも作品を発表したが、昭和14年3月29日、結核性肋膜(ろくまく)炎のため24歳で夭折(ようせつ)した。丸山薫は「エスプリ清くして抒情(じょじょう)に典雅に新声あふれたるは、譬(たと)へば神がしばしこの竹の青きを吹いてその余韻を永(とこし)へに耳にのこし給うたかの感がある」と哀悼した。詩集に『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』(1937)があり、没後、堀辰雄により『優しき歌』(1947)が刊行された。全集は四度刊行されている。第1回中原中也賞受賞。

[飛高隆夫]

『『立原道造全集』全6巻(1971~73・角川書店)』『中村真一郎編『立原道造研究』(1971・思潮社)』『安藤靖彦編『鑑賞現代日本文学19 三好達治・立原道造』(1982・角川書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「立原道造」の意味・わかりやすい解説

立原道造 (たちはらみちぞう)
生没年:1914-39(大正3-昭和14)

詩人。東京生れ。東大建築科卒業後,設計技師として勤務。一高時代,前田夕暮の《詩歌》に属して口語自由律短歌を発表。のち,三好達治の《南窗(なんそう)集》に触発されて詩に転じ手書き詩集《日曜日》(1933),《散歩詩集》(1933)などを編んだ。1934年,堀辰雄,三好達治,丸山薫の第2次《四季》に津村信夫と参加。同年,江頭彦造,猪野謙二らと《偽画》を創刊。翌年には杉浦明平,寺田透らと《未成年》を創刊し,また《コギト》にも作品を発表するようになった。詩はリルケや《新古今集》に学び,また多く信濃追分の高原を舞台にとって典雅なうちにも青春特有の悲傷性を秘めている。詩形はほとんどがソネット形式で,極度に音楽性を意識している。39年,肺結核死去。詩集に《萱草(わすれぐさ)に寄す》(1937),《暁と夕の詩》(1937),没後堀辰雄によって編まれた《優しき歌》(1947)がある。その他,物語《鮎の歌》《花散る里》,評論《風立ちぬ》などがある。
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百科事典マイペディア 「立原道造」の意味・わかりやすい解説

立原道造【たちはらみちぞう】

詩人。東京日本橋生れ。東大建築科卒。室生犀星堀辰雄に師事し《四季》同人となった。1937年詩集《萱草(わすれぐさ)に寄す》《暁と夕の詩》を刊行,ソネット形式の中に優美繊細な音楽的響きのみなぎる詩を作った。四季派を代表する抒情詩人の一人
→関連項目四季(文学)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立原道造」の意味・わかりやすい解説

立原道造
たちはらみちぞう

[生]1914.7.30. 東京
[没]1939.3.29. 東京
詩人。第一高等学校在学中から堀辰雄に師事し,堀の主宰する『四季』同人となり,また堀の紹介で室生犀星に教えを乞うた。 1937年東京大学建築科を卒業,建築事務所に勤務し,同年詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』を出したが,肋膜炎のため夭折した。詩風は音楽的美感に貫かれた繊細な神経で青春の痛みをうたい,没後も第3詩集『優しき歌』 (1947) ,初期作品集『詩人の出発』 (61) などが発表された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立原道造」の解説

立原道造 たちはら-みちぞう

1914-1939 昭和時代前期の詩人。
大正3年7月30日生まれ。昭和9年東京帝大建築科に入学し,堀辰雄,三好達治らの同人誌「四季」(第2次)創刊に参加。12年信州追分での恋愛体験をソネット形式でうたった第1詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」を刊行。第1回中原中也賞受賞直後の14年3月29日結核のため死去した。26歳。東京出身。詩集はほかに「暁と夕の詩」。
【格言など】魂はよるべなくふるえている。しかし僕は僕の運命を愛する(死の数ヵ月前,友人にあてた手紙)

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世界大百科事典(旧版)内の立原道造の言及

【四季】より

…第2次は堀辰雄,三好達治,丸山薫の共同編集で出発,四季社刊,34年10月~44年6月,全81冊の月刊誌。とくに注目されるのは第2次《四季》で,共同編集者のほか,津村信夫と立原道造が参加して昭和10年代抒情詩の一方向を定めた。のち萩原朔太郎,室生犀星のほか,中原中也,竹中郁,神保光太郎,伊東静雄などの詩人,あるいは桑原武夫,河盛好蔵,大山定一,保田与重郎,芳賀檀なども参加して総合文化誌的側面もあった。…

※「立原道造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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