江戸初期、幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す一事件。紫衣は紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、もともと宗派を問わず高徳の僧尼が朝廷から賜ったもので、早くから行われ、その尊さを表すと同時に朝廷にとっては収入源の一つでもあった。幕府は寺院・僧侶(そうりょ)圧迫の手段として1613年(慶長18)「勅許紫衣竝(ならび)に山城(やましろ)大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度(はっと)」を定め、さらに2年後には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)を定めて紫衣や上人(しょうにん)号をやたらに授けることを戒めているが、後水尾(ごみずのお)天皇は、これまでの慣例どおり、幕府に相談なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてきた。これを知った幕府は、事前に勅許の相談のなかったことを法度違反とばかり多くの勅許状の無効を宣言し、朝廷をも抑えて実力を示そうとした。この紛争が紫衣勅許事件である。大徳寺の宗彭(そうほう)(沢庵(たくあん))らは抗議して服従せず、1629年(寛永6)配流の刑に処された。これは江戸初期の朝廷と幕府の不和確執の最大のものといわれる。これによって後水尾天皇に退位を決意させることになったと考えられてきたほどの深刻な打撃を与えた朝幕間の大きな対立であった。
[小野信二]
『小野信二著「幕府と天皇」(『岩波講座 日本歴史 近世2』所収・1963・岩波書店)』
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1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。以上の一連の事件を紫衣事件という。沢庵らは当時茶の湯を通して朝廷,幕府と親交があったにもかかわらず,幕府があえて紫衣勅許を問題にした背景には,ひとつには,禁中並公家諸法度などの幕府法度と天皇綸旨とが抵触している状態を打開し,幕府法度の上位を明確に示す必要があったことである。ふたつには,朝廷に住持職のあった寺院のうち,浄土宗寺院の統制を終えた幕府が,残りの臨済宗大徳寺,妙心寺に統制を加える必要があったことが考えられる。
執筆者:高埜 利彦
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江戸前期,幕府の宗教統制に抵抗した京都の禅僧が配流された事件。1613年(慶長18)の勅許紫衣法度以来,幕府は宗教統制を本格化したが,朝廷がなお幕府に許可なく紫衣着用の勅許を続行したため,27年(寛永4)紫衣勅許の取消しを含む5カ条の制禁を発布。大徳・妙心両寺で強硬な反対がおこり,翌年沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが京都所司代に抗議書を提出。その後幕府が妥協策をとって大勢は収まったが,沢庵らは承服せず,29年抗議のため江戸へ下向。幕府は妙心寺の東源慧等・単伝士印(たんでんしいん),大徳寺の沢庵・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を陸奥・出羽の両国へ配流した。この事件は後水尾(ごみずのお)天皇の譲位に多大の影響を与えた。なお41年幕府は紫衣勅許の制限を緩和した。
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