細川忠興(読み)ホソカワタダオキ

デジタル大辞泉 「細川忠興」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐ただおき〔ほそかは‐〕【細川忠興】

[1563~1646]安土桃山・江戸初期の武将。幽斎の長男。織田信長豊臣秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦いでは徳川方につき、軍功によって豊前ぶぜん小倉城主。のち、剃髪して号を三斎、法名を宗立と称した。和歌をよくし、茶の湯千利休門下七哲の一人。

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精選版 日本国語大辞典 「細川忠興」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐ただおき【細川忠興】

  1. 安土桃山時代から江戸初期の武将。京都の人。通称与一郎。三斎と号した。細川藤孝(幽斎)の子。細川輝経の養子。丹後国宮津城主で、明智光秀の娘玉(ガラシャ)と結婚。本能寺の変後、秀吉、家康に仕え、関ケ原の戦いでは徳川方に属して軍功をあげ、豊前国小倉に移封。文芸に通じ、茶の湯を好んだことでも知られる。永祿六~正保二年(一五六三‐一六四五

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朝日日本歴史人物事典 「細川忠興」の解説

細川忠興

没年:正保2.12.2(1646.1.18)
生年:永禄6.11.13(1563.11.28)
江戸前期の豊前国(福岡県)小倉藩主。藤孝(幽斎)の長男。母は沼田光兼の娘。足利義輝の命により細川輝経の養子となる。幼名熊千代のち与一郎。天正6(1578)年織田信長の嫡子信忠から1字を与えられ忠興と名乗る。6年明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)を妻に迎え,8年丹後(京都府)一国を与えられて宮津を居城とした。10年本能寺の変に際しては,父藤孝と共に剃髪して弔意を示し,ガラシア離別し味土野に幽閉した。豊臣秀吉政権のもとで丹後支配の実をあげ,許されて再びガラシアを迎える。13年従四位下侍従に任ぜられ羽柴姓を許された。17年9月秀吉は改めて幽斎と忠興に丹後一国11万700石を安堵した。文禄2(1593)年朝鮮に出陣,慶長1(1596)年越中守となる。3年秀吉の死後は徳川家康に接近,5年関ケ原の戦の際には忠興は家康に従って東下中であったが,父幽斎は丹後田辺城に籠城(勅命により開城),夫人ガラシアは人質として大坂城に入ることを拒否して自刃した。家康は細川氏の忠節に対し,関ケ原の戦の前に豊後(大分県)杵築6万石を加増したが,戦後功により豊前一国,豊後2郡39万石を与え,中津城に配した。忠興は間もなく小倉城を築いて本城とし藩政を確立した。 元和6(1620)年閏12月隠居を許され,3男忠利に家督を譲り,中津に移って三斎宗立と号した。嫡男忠隆は夫人(前田利家の娘)が姑ガラシアの悲劇の際に姑の許から去ったことで廃嫡となり,次男興秋は弟忠利の代わりに証人(人質)として下る途中出奔して大坂城に入ったため,幼少から証人として江戸に赴き,秀忠の身近く仕えた3男忠利に家督を譲ったのである。寛永9(1632)年12月忠利が肥後熊本に転封すると,三斎は4男立孝,6男興孝を伴って八代城に入り隠居領3万石を領した。三斎は天草島原の乱(1637)に際し,本藩とは別に八代領からの軍を立孝に率いさせて出陣させるなど,八代領の支領化をはかったが,立孝は父に先立って没し,三斎没後,立孝の子行孝は宇土支藩主になった。

(松本寿三郎)

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改訂新版 世界大百科事典 「細川忠興」の意味・わかりやすい解説

細川忠興 (ほそかわただおき)
生没年:1563-1645(永禄6-正保2)

安土桃山~江戸初期の大名。藤孝の長子で,初め長岡を称する。幼名熊千代,通称与一郎。藤孝について織田信長に仕え,1577年(天正5)の雑賀(さいか)攻めで初陣。信長に近侍し,その子信忠より1字を与えられ忠興を名のる。歴戦の武功により丹後12万石余を与えられ,宮津に築城して八幡山城から移った。82年義父(妻のたま=ガラシャは光秀の娘)明智光秀が信長を殺して(本能寺の変),味方に招いたが,豊臣秀吉に荷担し,藤孝が入道ののち,家督を継ぎ,一色昭秀を誘殺して,丹後を手中にした。85年従四位下侍従,羽柴の姓を許され,88年左少将。95年(文禄4)関白秀次の謀反に荷担したとの疑いをうけたが,松井康之の働きで無事であった。96年(慶長1)明使の奏者を務め従三位参議越中守に叙任。秀吉死後は徳川家康に荷担,豊後杵築(きつき)城6万石を与えられ,関ヶ原の戦の功により豊前,豊後にて39万9000石余に加増転封,中津城ついで小倉城に移る。1615年(元和1)12月家康の命により,羽柴を改め細川を称する。20年閏12月病によって致仕,入道して三斎宗立と号し,中津城に住した。32年(寛永9)忠利の肥後加増転封には八代(やつしろ)城に移った。忠興は戦国激動の世に畿内で成長し,時世にたくみに対処し,大大名となったが,名族大名としての誇りをもち,芸術的感性にすぐれ,故実に長じ,江戸幕府の形成に資するところがあり,また茶の湯を好んで,利休と親交あり,後に三斎流の祖と仰がれている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川忠興」の意味・わかりやすい解説

細川忠興
ほそかわただおき
(1563―1645)

近世初期の武将。幽斎(ゆうさい)(藤孝(ふじたか))の長男。永禄(えいろく)6年11月13日生まれ。幼名熊千代(くまちよ)、与一郎(よいちろう)と称す。越中守(えっちゅうのかみ)。1577年(天正5)織田信長に従い雑賀一揆(さいかいっき)に初陣する。翌年信長の嫡子信忠(のぶただ)より一字をもらい忠興と名のる。1579年明智光秀(あけちみつひで)の娘、玉(たま)(ガラシャ)と婚す。1580年丹後(たんご)宮津12万石に封ぜらる。1582年本能寺の変で妻を離別、父幽斎とともに剃髪(ていはつ)して光秀の誘いを断る。のち豊臣(とよとみ)秀吉に許されて玉を迎え入れた。秀吉の没後、徳川家康へ三男忠利(ただとし)を人質に出し、関ヶ原の戦い(1600)では、妻玉は石田三成(みつなり)から大坂入城を求められたが応ぜず、大坂玉造(たまつくり)の邸で最期を遂げた。同年その戦功で豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)39万9000石の大守となり豊前中津城(大分県中津市)に入り、翌年小倉(こくら)城(福岡県北九州市)に移った。1620年(元和6)病気で中津城に引退、落飾(らくしょく)して三斎宗立(そうりゅう)と号した。1632年(寛永9)忠利の肥後(熊本県)入国に伴い八代(やつしろ)城に入り、正保(しょうほう)2年12月2日没す。熊本市泰勝寺(たいしょうじ)と京都市大徳寺高桐院(こうとういん)に葬られた。和歌、有職故実(ゆうそくこじつ)に明るく、茶は利休(りきゅう)七哲に数えられ、『細川三斎茶書』などの著述がある。

[森田誠一]


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百科事典マイペディア 「細川忠興」の意味・わかりやすい解説

細川忠興【ほそかわただおき】

安土桃山時代〜江戸初期の武将。藤孝(幽斎)の子。妻は細川ガラシャ。初め室町幕府に,その滅亡後は父とともに織田信長に仕えた。本能寺の変には明智光秀の女婿であるにもかかわらず豊臣秀吉に味方した。関ヶ原の戦で徳川方に属し豊前(ぶぜん)中津で39万石余を領した。茶人としても有名。→細川幽斎
→関連項目小倉藩田辺中津藩宮津

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川忠興」の意味・わかりやすい解説

細川忠興
ほそかわただおき

[生]永禄6(1563).京都
[没]正保2(1645).12.2. 肥後
安土桃山時代,江戸時代初期の武将。長岡藤孝 (細川幽斎) の長男で輝経の養子。母は沼田上野介光兼の娘。幼名,熊千代,のち與一郎。越中守となった。初め丹後宮津城にいて,12万石を領した。本能寺の変で,妻 (細川ガラシャ ) の父明智光秀に誘われたが羽柴 (豊臣) 秀吉に従った。その後,小田原征伐,文禄・慶長の役にも参戦。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に属し,戦後豊前小倉に移封され,元和5 (19) 年子の忠利に家を譲って三斎宗立を号した。和歌,絵画,蹴鞠 (けまり) ,乱舞,有職故実に通じ,茶の湯は千利休に学び門下七哲の一人。著書『細川三斎茶書』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川忠興」の解説

細川忠興 ほそかわ-ただおき

1563-1646* 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)6年11月13日生まれ。細川幽斎の長男。細川ガラシャの夫。父とともに織田信長,豊臣秀吉,徳川家康につかえた。関ケ原の戦いで功をたて豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩主(30万石)となり,慶長7年豊前小倉藩(福岡県)にうつる。和歌,有職(ゆうそく)故実に通じ,茶の湯は千利休(せんの-りきゅう)門下七哲のひとり。元和(げんな)6年隠居。正保(しょうほ)2年12月2日死去。83歳。通称は与一郎。号は三斎宗立(そうりゅう)。
【格言など】天下の御政(まつりごと)は,角(かく)なる物に丸き蓋をしたる様に遊ばされ,よく候わん(徳川秀忠への進言)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「細川忠興」の解説

細川忠興
ほそかわただおき

1563.11.13~1645.12.2

織豊期~江戸初期の武将。藤孝の長男。若年から父とともに織田信長に従い,松永久秀討伐をはじめ戦功をたてた。本能寺の変に際しては室のガラシャ(明智光秀の女)を一時離縁して光秀の誘いをしりぞけ,豊臣秀吉から丹後一国を安堵された。文禄の役では2年半朝鮮に滞陣。秀吉没後は親徳川派となり,関ケ原の戦功で豊前小倉39万石余に移封。1620年(元和6)病気により隠居し,剃髪して三斎宗立(さんさいそうりゅう)と号した。32年(寛永9)子忠利の国替えで肥後に移り,八代(やつしろ)を居城とした。引退後もつねに藩政や軍事について忠利を指導し,幕府有力者との関係保持に努めた。茶道は千利休の高弟で三斎流をおこした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「細川忠興」の解説

細川忠興
ほそかわただおき

1563〜1645
安土桃山〜江戸時代前期の武将・外様大名
幽斎の子。織田信長に従い,丹後(京都府)宮津12万石の城主となった。関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍に属し,豊前(福岡県)小倉39万石を領した。のち肥後(熊本県)に転封,隠居して三斎と号した。利休門下七哲の一人で,茶道・和歌・有職 (ゆうそく) にすぐれ,『三斎茶書』を著した。

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367日誕生日大事典 「細川忠興」の解説

細川忠興 (ほそかわただおき)

生年月日:1563年11月13日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将;歌人
1646年没

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世界大百科事典(旧版)内の細川忠興の言及

【家数人馬改帳】より

…また単独に行われた家数人馬改帳として,豊後国,肥後国での細川氏による人畜改帳(《小倉藩人畜改帳》《肥後藩人畜改帳》(以上《大日本近世史料》所収),《芦北郡人畜改帳》)が知られる。細川忠興は1601年(慶長6)豊後に入国すると直ちに速見郡由布院で人畜改めを行ったが,その後09年,11年豊後の人畜改めを行い,忠利は襲封の22年(元和8)領国全域の人畜改めを行ったが,32年(寛永9)12月肥後に入国すると翌年直ちに全領の人畜改帳を作成させ,家数人馬数の把握を行った。【松本 寿三郎】。…

【熊本藩】より

…肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。…

【高桐院】より

…京都市北区にある臨済宗大徳寺派の塔頭(たつちゆう)で,慶長年間(1596‐1615)細川忠興(号,三斎)が創建した細川家歴代の墓所。とりわけ忠興の墓碑は千利休が忠興に贈ったと伝える石灯籠で有名。…

【小倉】より

…九州の咽喉を扼(やく)する位置にあり,九州と上方,下関を結ぶ交通の要衝でもあった。戦国末期に高橋鑑種(あきたね)がここに端城小倉城を築き,その周辺に町場を作っていたが,小倉の本格的な城下町としての発展は関ヶ原の戦後に細川忠興が入部してからである。1602年(慶長7)忠興は紫川の西畔の小倉城の跡地に新しく城を築き,城下町の建設に当たった。…

【小倉藩】より

…豊前国(福岡県)企救(きく)郡小倉に居城を据えた藩。1587年(天正15)より毛利勝信が企救・田川2郡を領していたが関ヶ原の戦後改易され,代わって細川忠興が丹後国宮津より入部,豊前一国および豊後国国東(くにさき)・速見2郡をあわせ30万石(内高39万9000石)を領した。細川氏は1602年(慶長7)より小倉城を築き,領内の検地および戸口調査を実施,手永(てなが)制度を創設,また城下町を整備して藩制の基礎を定めた。…

【中津[市]】より

…しかし本格的な工事は1600年(慶長5)に始まる細川氏の時代からであった。初め細川忠興の本城であったが,小倉築城に伴い嫡子忠利の居城となり,一国一城令にも残置され,21年(元和7)からは隠居した忠興(三斎)が居城した。32年(寛永9)から小笠原氏,1717年(享保2)から奥平氏の城下となるが,町割りや山国川治水はほぼ細川氏の代に完成をみる。…

【中津藩】より

…1587年(天正15)九州統一に成功した豊臣秀吉は,黒田孝高(よしたか)に豊前国京都(みやこ),仲津,築城(ついき),上毛(こうげ)(以上,福岡県)と宇佐,下毛(以上,大分県)の6郡,12万5000石(一説には15万石)を与え,中津藩が成立。1600年(慶長5)関ヶ原の戦ののち,細川忠興が豊前一国と豊後のうち国東・速見両郡の30万石(01年の検地実施後,内高は39万5995石)の領主として中津へ入封。02年からは小倉が本城となり,中津は当初嗣子忠利,のち隠居三斎(忠興)の居城となる。…

【豊前国】より

…関ヶ原の戦の後,西軍に属した毛利勝信は改易された。黒田長政も筑前に移されて,代わって細川忠興(三斎)が豊前一国および豊後2郡,30万石を与えられて,丹後国宮津から入部した。細川氏は小倉・中津両城を築き城下町を拡張,他方,検地や人畜改めを行い,手永(てなが)制度を設けて農民を支配した。…

【細川氏】より

…(1)室町時代の守護大名(図1)。足利氏の祖である清和源氏源義康の次男義清から出た。義清の孫義季のとき,本家の三河守護足利義氏に従って下野から三河に移り,細川(現,岡崎市北部)の地を本拠とし,細川氏を称した。鎌倉期は所領も狭小で,足利氏の惣領的支配に従属する小領主にすぎなかった。元弘・建武の争乱に際し足利尊氏に従った細川一族は各地で戦功を挙げ,ことに1335年(建武2)の尊氏離反後は,俊氏の孫定禅らが四国,中国方面の軍勢催促に活躍,翌年尊氏の西下に当たり細川顕氏,和氏,定禅らは四国における足利方の再建をゆだねられ,以後同氏が四国に勢力を扶植する端緒となった。…

【細川ガラシャ】より

…母は妻木勘解由左衛門範凞女。1578年(天正6)織田信長の命令で細川忠興に嫁す。82年父光秀が本能寺で信長を殺し,細川藤孝・忠興父子は光秀の誘いを退け,たまは丹後国味土野(みとの)に幽閉させられた。…

【松井康之】より

…細川一門格で家老となる。藤孝の退隠後細川忠興に仕え,秀吉には関白秀次の謀反に忠興関与の疑いを解き,家康には石田三成への荷担が詐謀であることを説いて事なきを得た。関ヶ原の戦の際,杵築(きつき)の戦功により1601年(慶長6)2万5000石余で,杵築城を守った。…

【弥栄[町]】より

…山間部では離村による人口減少で廃村となった地区もあるが,町域東端の太鼓山(683m)には丹後縦貫林道が通じ,森林公園スイス村が開設されて観光開発も進む。須川の味土野(みどの)にある〈おさきの岡〉には,細川忠興夫人ガラシャが一時隠れ住んだという女城(めじろ)跡がある。【松原 宏】。…

※「細川忠興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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