安土(あづち)桃山時代の武将。「のぶお」とも読む。信長の第2子。幼名茶筅(筌)(ちゃせん)、通称三介(さんすけ)、入道して常真。1569年(永禄12)信長は伊勢(いせ)(三重県)国司北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)父子を攻め、信雄を具房の養子とした。75年(天正3)相続、御本所(ごほんじょ)と称し、北畠具豊(ともとよ)、のち信雄と名のる。長島一向一揆(いっこういっき)との戦闘、雑賀衆(さいかしゅう)攻めなどに参加、信長に無断で伊賀を攻め叱責(しっせき)を受けたが、81年改めて伊賀攻めに参加し三郡を得る。82年本能寺の変後、兄信忠(のぶただ)の遺領尾張(おわり)(愛知県)を領し、83年滝川一益(かずます)、織田信孝(のぶたか)の旧領を得て、尾張、伊勢5郡、伊賀3郡を領す。84年、徳川家康の援助を得て羽柴秀吉と小牧(こまき)・長久手(ながくて)などに戦うが、全般的に圧迫され、伊賀、南伊勢の割譲などをして和睦(わぼく)。小田原の陣後、徳川家旧領への転封を拒否し改易。のち秀吉の相伴衆(しょうばんしゅう)。嫡子秀雄が越前(えちぜん)(福井県)大野を領したが、関ヶ原の戦いで所領没収。信雄は関ヶ原の戦い、大坂の陣ではひそかに家康に与(くみ)し、陣後、1615年(元和1)大和(やまと)、上野(こうずけ)で5万石を与えられた。子孫は出羽(でわ)天童(てんどう)藩、丹波(たんば)柏原(かいばら)藩で明治に及ぶ。1585年(天正13)権大納言(ごんだいなごん)、87年正二位内大臣。法名徳源院実厳真公。大徳寺総見院に葬る。叔父有楽(うらく)に茶を学び、茶道、和歌、歌舞に巧みな風流人でもあった。
[脇田 修]
(小和田哲男)
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安土桃山・江戸初期の武将。〈のぶお〉とも読む。信長の次子。幼名茶箋丸,のち三介。法名常真。伊勢国司北畠具房の養子となり名を具豊,さらに信意,信雄と改めた。本能寺の変後,清須城を中心に尾張,伊賀,南伊勢を領した。1583年(天正11)羽柴(豊臣)秀吉と絶ち徳川家康と結んで小牧・長久手に戦うが,講和する。小田原征伐後,領地のことで秀吉の怒りに触れ下野烏山に配流されるが,のちにゆるされる。関ヶ原の戦,大坂の陣では家康につき,戦後,大和国宇陀郡ほかで5万石を与えられた。
執筆者:久留島 典子
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1558~1630.4.30
「のぶかつ」とも。織豊期の武将。信長の次男。父の政略で伊勢国司の北畠家を継ぐ。本能寺の変後,伊勢・伊賀・尾張を領有。のち豊臣秀吉と対立し,徳川家康と結んで1584年(天正12)小牧・長久手(現,愛知県小牧市・長久手市付近)に戦ったが,同年中に講和。秀吉に従い,官位は正二位内大臣にのぼった。90年小田原攻め後に転封を拒否して失脚。出家し常真(じょうしん)と号する。大坂の陣後,家康から大和国松山藩5万石余を与えられた。
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…旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。
【古代】
東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。…
…鎌倉・室町時代の公家。三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇の信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能の兄にあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。…
…伊勢国度会(わたらい)郡にあった中・近世の城。田丸城とも書き,現,三重県度会郡玉城町田丸に城跡がある。1336年(延元1∥建武3)10月に伊勢の南軍である度会家行らが北畠親房・顕信とともに城に入り,以後42年(興国3∥康永1)に落城するまで南軍の拠点であった。その後北畠氏は多気(たけ)城に移るが,玉丸城も同氏の支配下にあり,北畠氏の家臣愛洲(あいす)氏,さらに北畠氏の庶流田丸氏の居城となる。田丸氏は田丸御所とも呼ばれ,その居城は大河内氏の拠る大河内(おかわち)城とともに,北畠氏の南勢支配の最重要拠点であった。…
…江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。…
…71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。80年(天正8)織田信雄(のぶかつ)は新たに築城するとともに細汲を松ヶ島と改名したと伝えるが,《御湯殿上日記》同年9月16日条にはすでに〈松かしま〉とみえている。のち蒲生氏郷の松坂築城まで,松ヶ島は南伊勢の政治・経済・軍事の拠点であった。…
※「織田信雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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