生没年不詳。平安末期から鎌倉初期にかけての歌人、歌学者。正三位(しょうさんみ)左京大夫藤原顕輔(あきすけ)の猶子(ゆうし)、実父母は不詳。生年は1130年(大治5)ころと推定され、最終事蹟(じせき)は1209年(承元3)「長尾社歌合(うたあわせ)」への出詠である。幼くして叡山(えいざん)に修学、のち仁和寺(にんなじ)に移り、法橋(ほっきょう)に至る。早く1165年(永万1)ころ『今撰(こんせん)集』を撰(えら)んだが、仁和寺の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)に近づいてからは、親王のため多くの注釈書、歌学書を奉った。その考証の詳密さ、博覧強記は類をみない。77年(治承1)兄清輔(きよすけ)の没後は衰退する六条藤家を支え、93年(建久4)の『六百番歌合』では御子左(みこひだり)家と激しく対立し、『六百番陳状(ちんじょう)』を著した。和歌は『万葉集』尊重の立場から古語を多用した生硬なものが多い。著書に『万葉集時代難事(じだいなんじ)』『柿本人麻呂勘文(かきのもとのひとまろかんもん)』、『古今集』より『詞花(しか)集』までの抄注(『後撰』『金葉』は散逸)、『古今秘注抄』『散木(さんぼく)集注』『袖中(しゅうちゅう)抄』等。『千載集』以下に入集(にっしゅう)。
[川上新一郎]
板びさしさすやかややの時雨(しぐれ)こそ音し音せぬ方はわくなれ
『久曽神昇著『顕昭・寂蓮』(1942・三省堂)』▽『久曽神昇編『日本歌学大系 別巻2・4・5』(1958、80、81・風間書房)』
平安末・鎌倉初期の歌人。藤原顕輔の猶子。清輔・重家・季経らの義兄弟。清輔とともに六条家の歌学を確立した。1149年(久安5)《山路歌合》に出詠してから1207年に《日本紀歌註》を著すまで59年の歌歴には,多くの歌合に参加し,50歳ころからは判者として重きをなした。藤原俊成の主宰する御子左家(みこひだりけ)の歌学と対抗して,六条家歌学の代表的な論客であったが,顕輔・清輔の死後,《六百番歌合》における俊成の判定に対して抗議した《顕昭陳状》はとくに有名。歌学者としての顕昭には《万葉集時代難事》《詞花集註》《散木集註》《柿本人麿勘文》《拾遺抄註》《袖中抄》《古今集註》《今撰和歌集》など多数の著述があるが,これらの大部分は,顕昭が恩顧をうけた仁和寺の守覚法親王のために撰進したものである。顕昭の歌で勅撰集に入ったものは,《千載集》《玉葉集》その他で計39首に及んでいる。
執筆者:萩谷 朴
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(加藤睦)
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…別名《古今秘註抄》ほか。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存の顕昭《古今集註》とは別)に,1221年(承久3),藤原定家が自説を〈密勘(内密の考え)〉として書き加えたもの。定家は顕昭の注説におおむね肯定的だが,両者の学風が対照的に異なる例もみえる。…
…注釈書は藤原教長の《古今集註》が最も古く,治承(1177‐81)ころの作である。ついで顕昭の《古今集註》がある。これは1191年(建久2)に完成し12巻と大きく,現在散逸した資料も多く用いた詳細なもので研究上重要である。…
…《顕秘抄》と題する3巻本もあるが,一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた。《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び,百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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