具平親王(読み)トモヒラシンノウ

デジタル大辞泉 「具平親王」の意味・読み・例文・類語

ともひら‐しんのう〔‐シンワウ〕【具平親王】

[964~1009]平安中期の文人歌人村上天皇の第7皇子。中務なかつかさ卿。六条宮千種ちぐさ殿・のちの中書王とよばれる。文才豊かで、和歌漢詩文に長じ、音楽陰陽おんよう医術などにも通じた。著「弘決外典抄ぐけつげてんしょう」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「具平親王」の意味・読み・例文・類語

ともひら‐しんのう ‥シンワウ【具平親王】

平安中期の文人、歌人。村上天皇の第七皇子。母は代明親王王女、女御荘子。六条宮・千種殿・後中書王という。二品中務卿に至った。才芸にひいで、前中書王兼明親王と並称された。和歌は「拾遺集」以下の勅撰集に収められ、家集の断簡も伝わる。詩文は「本朝文粋」などに見える。「弘決外典鈔」などの著がある。応和四~寛弘六年(九六四‐一〇〇九

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「具平親王」の意味・わかりやすい解説

具平親王 (ともひらしんのう)
生没年:964-1009(康保1-寛弘6)

平安時代の漢詩人,歌人。村上天皇の第7皇子で六条宮,前中書王(兼明親王)に対して後中書王(ごちゆうしよおう)と称される。幼少より慶滋保胤(よししげのやすたね)に師事して学問詩文を学び,その思想的影響を受け,991年(正暦2)には天台宗の重要典籍である湛然の《止観輔行伝弘決(しかんぶぎようでんぐけつ)》に引用された漢籍の出典を明らかにし,これに注解を付けた《弘決外典鈔(ぐけつげてんしよう)》を選述した。本書にあげられた漢籍には現在伝わらないものも多い。博学多識をもって知られ,詩歌のみならず書道,音楽,医術にも通暁していた。自邸に詩人を召して詩会を開き,大江匡衡(まさひら)など当時の文人の庇護者であり,文壇の中心的存在であった。また,藤原公任との間で人麻呂と貫之の歌人としての優劣を論争したことが藤原清輔の《袋草紙》に伝えられている。〈花もみな散りなんのちはわがやどになににつけてか人を待つべき〉(《後拾遺集》巻一)。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「具平親王」の解説

具平親王

没年:寛弘6.7.28(1009.8.21)
生年:康保1.6.19(964.7.30)
平安中期の皇族で文人。後中書王,六条宮,千種殿と称される。二品。村上天皇の第7皇子で母は女御荘子女王(代明親王の娘)。藤原頼通の妻隆姫の父。2歳で親王宣下。幼くして才智にすぐれ,慶滋保胤 らに師事して漢詩文を学ぶ一方,和歌にも秀で,陰陽,医術にも通じ,能書家でもあった。個人の詩集,歌集は今に伝わらないが漢詩集や勅選集に作品が残る。一条天皇朝(986~1011)の才人として親王では彼のみが挙げられている。逸話も多く,柿本人麻呂と紀貫之の優劣を藤原公任と論争した際,人麻呂が優れていると主張して勝った話は有名(『古事談』)。永延1(987)年中務卿となり4年後,『弘決外典抄』を選述。源信,保胤らとの交流から仏教にも深い結びつきを持った。左京の六条に豪邸千種殿を営んだ。<参考文献>大曾根章介「具平親王考」(『国語と国文学』1958年12月号)

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「具平親王」の意味・わかりやすい解説

具平親王
ともひらしんのう
(964―1009)

平安時代の漢詩人、歌人。また管絃(かんげん)、書道、陰陽道(おんみょうどう)、医術に通じた幅広い趣味教養で知られる。村上(むらかみ)天皇第七皇子で、二品(にほん)中務卿(なかつかさきょう)に進み、六条宮、後中書王(のちのちゅうしょおう)とよばれ、子孫は村上源氏として栄えた。慶滋保胤(よししげのやすたね)に学び、『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』を代表する作者であり、しばしば詩会を催す文人たちの庇護(ひご)者であった。歌は勅撰(ちょくせん)集に約40首入る。藤原公任(きんとう)は、貫之(つらゆき)より人麻呂(ひとまろ)を上とする親王との論争を機縁に『三十六人撰』を選んだという。なお、仏教にも関心が深く『弘決外典鈔(ぐけつげてんしょう)』を撰述している。

[柳井 滋]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「具平親王」の意味・わかりやすい解説

具平親王
ともひらしんのう

[生]康保1(964).6.19. 京都
[没]寛弘6(1009).7.28. 京都
村上天皇の第7皇子。六条宮,千種殿,のち中書王ともいう。母は代明親王の娘,女御荘子女王。康保2 (965) 年親王宣下,のち中務卿に任じられた。文才が豊かで和歌や漢詩文に優れ,また書をよくし,音律や陰陽,医術,諸技芸などにも通じ一代の文宗であった。出家の志があったが果たさなかった。和歌は『拾遺和歌集』以下の勅撰集に数多く収められ,詩文は『本朝麗藻』『本朝文粋』などに伝えられている。主著『六帖』『真字伊勢物語』。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「具平親王」の解説

具平親王 ともひらしんのう

964-1009 平安時代中期の漢詩人,歌人。
応和4年6月19日生まれ。村上天皇の第7皇子。母は荘子女王。永延(えいえん)元年中務(なかつかさ)卿となり後中書(のちのちゅうしょ)王とよばれる。慶滋保胤(よししげの-やすたね)にまなび,一条天皇朝の文壇の中心的存在で,書家としても著名。寛弘(かんこう)6年7月28日死去。46歳。著作に「弘決外典抄(ぐけつげてんしょう)」「後中書王集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「具平親王」の解説

具平親王 (ともひらしんのう)

生年月日:964年6月19日
平安時代中期の文人
1009年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android