宅磨勝賀(読み)たくましょうが

精選版 日本国語大辞典 「宅磨勝賀」の意味・読み・例文・類語

たくま‐しょうが【宅磨勝賀】

平安末期から鎌倉初期の絵仏師。為遠(ためとお)長男俗名為基(ためもと)法橋から法眼となる。公家寺院のための画作が多い。宋朝絵画の要素を取り入れた写実的要素の濃い新様式確立遺作に教王護国寺蔵「十二天図屏風」がある。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「宅磨勝賀」の意味・わかりやすい解説

宅磨勝賀 (たくましょうが)

12世紀末から13世紀初頭に活躍した宅磨派絵仏師の始祖。生没年不詳。宅磨為遠の子。俗名を為基といい,1176年(安元2)出家,84年(元暦1)法橋に叙せられた。《神護寺略記》が伝えるところによれば仁安年間(1166-69)《十二天屛風》を,また同寺灌頂院の《両界曼荼羅》を新模するなど,文覚の高雄復興に寄与し,次いで教王護国寺(東寺)修造事業では1191年(建久2)同寺灌頂院の《十二天屛風》および《両部大曼荼羅》(甲本)を図絵した。前者では,立姿の十二天像を宋画風の肥瘦に富んだ墨描線を駆使して動勢豊かに描き,その斬新な色調文様などとともに清新の気風を持つ仏画の新様をひらいた。一方後者ではかなり伝統的な技法をもって図写しており,こうした新旧両様の表現力を持って新時代に臨んだ宅磨派の性格をよく示している。次いで文献で知られる画業として,公家の修法に際して《本尊曼荼羅》や《天幡像》などを制作,1209年(承元3)押小路殿における仁王講,最勝講のために《五大力絵像》や《釈迦三尊弁才天》を描いたが,この記録を最後とすることから彼の活躍の末年代が推定される。
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百科事典マイペディア 「宅磨勝賀」の意味・わかりやすい解説

宅磨勝賀【たくましょうが】

平安末期〜鎌倉初期の宅磨派の代表的絵仏師。生没年不詳。俗名為基。1168年ころ神護寺に《十二天屏風》を描き,1176年出家して勝賀と称した。のちに法橋法印となり,1209年ころまで神護寺や東寺などで仏画を制作。伝称作品の東寺蔵《十二天屏風》は1191年に描かれたといわれ,筆意のある宋画風の描線を用いた名品。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宅磨勝賀」の意味・わかりやすい解説

宅磨勝賀
たくましょうが

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した絵仏師。宅磨為遠 (ためとお) の子で俗名を為基,出家して寿永3 (1184) 年法橋に叙せられた。時代にさきがけて宋画様式を積極的に取り入れ,肥痩の強い描線と寒冷な色感に宅磨派の特色を発揮した。建久2 (1191) 年に描いた教王護国寺蔵『十二天屏風』 (国宝) がその典型的な作品として著名である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宅磨勝賀」の解説

宅磨勝賀 たくま-しょうが

?-? 平安後期-鎌倉時代の画家。
宅磨為遠(ためとお)の長男。宅磨派の絵仏師。安元-元久(1175-1206)のころ京都で活躍。作品には中国宋(そう)代の様式をとりいれた神護寺の「十二天屏風(びょうぶ)」,伝統的な技法による東寺の「両界曼荼羅(まんだら)」などがある。法眼。俗名は為基。通称は真乗房。

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