オランダ美術(読み)オランダびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「オランダ美術」の意味・わかりやすい解説

オランダ美術 (オランダびじゅつ)

オランダ美術の特質と歴史展開を概観するにあたっては,この国の美術がもっぱらレンブラントフェルメールを代表とする17世紀の絵画によって人々に知られ,評価されているという独特の事情についてまず最初に触れておかねばならない。こうした現状は決して日本に限られたものではなく,むしろオランダ美術に備わった二つの特殊な性格を端的な形で示している。その第1は,オランダの歴史において17世紀がもつ,他の時代に対して不均衡なまでに圧倒的な重要さである。16世紀末に独立を果たすまでのオランダ(北部ネーデルラント)は,経済・文化の両面で常により先進的な発展を遂げていた南部ネーデルラントのフランドル地方の,また建築に関してはドイツのラインラント地方の影響を深く受け続けてきており,決して文化の興隆と無縁だったわけではないが,周囲の各地域に対して自己を主張しうるほどの顕著な個性を確立するにはいたらなかった。他国の優れた文化に対する受動性は,イタリア・ルネサンスに対する傾斜や17世紀末から19世紀に至るフランス美術の強い影響のうちにもうかがうことができる。しかるに17世紀だけは偉大な例外であり,独立直後のオランダは,当時ヨーロッパで全盛を誇ったバロック芸術とは根本を違えた写実主義に基づく独自の国民的絵画様式を発展させるとともに,以後の西欧絵画に不可欠のものとなる風景画,風俗画,静物画という新たなジャンルを確立して,後世他国に永続的で多大な影響を及ぼしたのであった。それゆえ17世紀がオランダの〈黄金の世紀〉と呼ばれて他の時代とは異なった特別の扱いを受けるのは美術に関してもきわめて正当なことであると言えよう。

 オランダ美術に特有の第2の性格は,彫刻に対する絵画の明白な優位である。この国における彫刻芸術の全般的な不振については,良質の石材の欠如,16世紀後半のカルバン派の聖像破壊運動(イコノクラスム)による甚大な痛手,17世紀以降の共和国体制下における大規模な公共注文の不足など,さまざまな原因が挙げうる。しかし,絵画性の強い浮彫に比して独立彫像の作例が乏しいこと,絵画においても本来すぐれて絵画的,すなわち非彫刻的な性質をもつ風景表現が早くから発達を見せたのに対し,人体表現が目覚ましい成果をあげなかったことを考えると,オランダの国民性そのもののうちに,彫刻よりも絵画の方にはるかに適した特性を認めることも十分可能であろう。

 次に,オランダ美術に遍在するいくつかの美的特質を考察してみよう。まず挙げられるのは,人間を取り巻く環境や身近な事物に対する深い関心と細やかな観察の精神に支えられた写実性である。同じく写実的といっても,イタリア・ルネサンスが高い理念に基づく現実の理想的再構成を目指したのとは異なり,オランダ美術は本質的により受動的で,目に見える世界をありのままに受け入れてこれを精緻に描写する傾向を有している。細部に対する強い執着はまた,モニュメンタルな雄大さよりも,こぢんまりとまとまった親密な美しさを尊重する〈小ささ〉への志向と表裏一体の関係にある。小画面絵画や版画の隆盛や,それと好対照をなす大規模な記念碑的芸術の乏しさは,この志向を明瞭に物語っている。また建築においても,小規模な住宅などに独自の個性を示したものが多い。こうした細部への執着や〈小ささ〉への志向はいずれも,オランダ絵画の源泉である初期フランドル絵画においてすでに顕著であったが,オランダにおいてはさまざまな事情からこれらの特色がより純粋な形で発展を遂げることになったのである。次に挙げるべき美的特質は〈清潔さ〉である。オランダの街路や家庭の清潔さは古来旅行者をしばしば瞠目(どうもく)させているが,実際この国においては〈スホーンschoon〉という形容詞が〈清潔な〉と〈美しい〉の両義を備えているという事実が端的に示すとおり,美と清潔さは切り離せぬ関係にあった。オランダ美術の優れた作例に広く見いだされる質素,簡潔,静謐(せいひつ)といった特徴,とりわけ建築に明らかな過剰な装飾を排して簡潔な秩序を求める傾向は,この清潔さを尊重し追求する精神と無縁ではない。これは,同一の文化圏から出発したフランドルおよびのちのベルギーが旺盛な生命力にあふれた豊麗なバロック芸術やきわめて装飾的なアール・ヌーボーを開花させたのとは対照的である。
フランドル美術

地理的・経済的な条件から必然的にオランダ(北部ネーデルラント)の中世美術は,隣接するドイツのラインラント地方と南部ネーデルラントのムーズ,スヘルデ両川流域からの強い影響を受け続け,その結果,移入された新様式は南東部から北西部へと伝播するのが通例であった。プレ・ロマネスクおよびロマネスク期に先導的な役割を果たしたのは,共にローマ時代にさかのぼる歴史を有する司教座所在地のユトレヒトとマーストリヒトである。ユトレヒトの聖ピーテル教会(11世紀)と聖母教会(12世紀。現存せず)はおのおの初期および盛期ロマネスクの代表的バシリカ式教会堂であり,またマーストリヒトの聖母教会(11世紀。12世紀に改築)と聖セルファース教会(12世紀)は双塔を備えたいかめしい西構え(ウェストウェルク)の採用においてラインラント地方の影響を如実に示している。ゴシック建築は13世紀中ごろに導入された。その初期の代表例はケルンやソアソンの流れをくむ典型的な3層構成の内陣を備えたユトレヒトの大聖堂(1254着工)である。西正面に接して単独で高くそびえ立つ同大聖堂の塔(1382完成)は多くの追随を生み,以後,塔はオランダ建築の特徴の一つとなった。14世紀にはハレンキルヘがドイツから伝わり,また煉瓦を主建材とし木造円筒ボールトを備えたフランドル・ゴシック式教会堂が北海沿岸地域に広く普及した(デルフトの旧教会など)が,同世紀後半からは石材を用いたより大規模なブラバント・ゴシック建築が優位を占め,15世紀にはいっていっそうの発展を見せる(ス・ヘルトーヘンボスの聖ヤン教会ほか)。ゴシックの伝統は教会堂建築において以後も長らく保たれ,その超克には17世紀の到来を待たねばならなかった。世俗建築の領域ではルネサンス様式がおもにイタリアの建築家によって16世紀前半に移植されたのち,末期ゴシックの装飾的傾向と融合して,快活で絵画的な趣をもった独特なオランダ・ルネサンス建築を生み出している(フラーネケル市庁舎,1591-94)。

 ネーデルラントはブルゴーニュ公国時代に一大発展を遂げて経済的・文化的隆盛を極めるが,北部は後進的な地位にとどまっていたため,優れた芸術家はしばしば国外に活躍の場を求めた。ハールレムが生んだオランダ最大の彫刻家C.スリューテル国際ゴシック様式にくみせず堂々たる量感に富んだ石彫像を制作して新たな写実主義への道を開いたが,もっぱらフランスのディジョンで活動したため出身地にはほとんど影響を残していない。絵画においてもミニアチュール画家としてフランスの宮廷で活躍したマルーエルJan Malouel(?-1415)とランブール兄弟,ルーバンで市の画家を務めたバウツなどは,北部の出身であるにもかかわらず,通常はそれぞれフランスおよびフランドル美術史の中に位置づけられている。北部内での美術活動としてはユトレヒトのアドリアーン・ファン・ウェーセルAdriaen van Wesel(1420ころ-89ころ)による木彫像制作や同市における伝統あるミニアチュール制作が挙げられる。しかし世紀の半ばを過ぎてようやく,今日確実作をわずか1点残すのみの始祖ファン・アウワーテルAlbert van Ouwaterとその弟子ヘールトヘン・トート・シント・ヤンスによって,真にオランダ的と呼びうる最初の画派がハールレムに勃興した。後者の作品は清新で繊細な風景描写と静謐な画面に宿る一抹のメランコリーを特徴としている。やや遅れてス・ヘルトーヘンボスでは異色の画家H.ボスが罪と終末の主題を追求しつつ地獄や怪物の表現によって容易にはオランダ美術史の枠内に収まりきらない特異な幻想的世界を繰り広げた。

 16世紀にはいるとイタリア・ルネサンスの波が北方に及ぶが,当初その影響は断片的で末期ゴシックの過剰な装飾的傾向と結びついて錯綜した宗教画を流行させる。そうした中にあってファン・レイデンはデューラーの影響をみごとに消化しつつ精緻な技巧を駆使して線刻銅版画の分野で大きな成果をあげた。真の意味でのルネサンスは,オランダ人教皇ハドリアヌス6世の下でバチカンの美術管理にあたったファン・スコレルの帰国(1524)とともに到来したといってよい。こののち同じようにイタリア,特にローマに遊学して古代とルネサンスの成果を吸収しようとした〈ロマニスト〉と呼ばれる画家たちが続出するが,一般的に言って彼らを中心とする16世紀のオランダ美術はイタリアの理想性とネーデルラント本来の写実性のいずれをも十分に発揮できず,両者の統合という重要な課題は達成できなかった。そうした情勢の中で自己の個性を確立しえた画家としては,スペインを中心に各国の宮廷で活躍し公的肖像画の一範例を形成したモル・ファン・ダスホルストAnthonie Mor(o) van Dashorst(1512-76),宗教主題を扱いつつも風俗的要素のなまなましい描写によって17世紀フランドルへの道を開いたアールツェンの名が挙げられる。16世紀後半は宗教的・政治的動揺のため美術活動は全般的に不振で,聖像破壊運動によってこの時期に失われた作品も数多い。ようやく16世紀末になってハールレムがコルネリス・コルネリスゾーンCornelis Cornelisz.(1562-1638),ホルツィウスらの優美で洗練された芸術によって北方マニエリスム最後の花を咲かせた。

スペインに対する長い戦いに耐えて独立を果たしたオランダは,政治的には共和制をとり,宗教的には聖像崇拝を否定するカルバン派の支配下にあったため,芸術は宮廷と教会という重要な注文者(パトロン)を失うことになった。しかし芸術活動は少しも沈滞せず,特に絵画は,代わって主たる顧客となった新興市民階級の豊かな経済力と生活環境の美化に対する強い欲求に支えられて,質量の双方において未曾有の興隆を迎える。

 こうした特殊な社会的基盤の上に立つオランダ絵画が,他国と異なる独自の道を歩むことになったのは当然の結果であった。もちろんだからといってオランダが国際的な潮流とまったく無縁だったわけではない。ユトレヒトでは1610-20年代にテルブリュッヘン,ファン・ホントルストらのイタリア帰りの画家がカラバッジョ様式を移植して大胆な明暗法によって広範な影響を残し,アムステルダムではエルスハイマーの影響から出発したラストマン一派が物語性を重視した聖書や神話の主題の明快な表現によってレンブラントをはぐくむ土壌を準備した。しかし大多数の市民たちは,特別の知識がなくても素直に享受できる親しみやすい画題を好んだため,15世紀以来ネーデルラント絵画の中で副次的な部分ながら魅力ある役割を演じてきた風景,静物,建築,風俗がそれぞれ自立して分野を形成し,肖像と並んで絵画制作の主流の位置を占めるにいたる。さらに不特定の顧客を得るための過酷な自由競争は必然的に画題のいっそうの細分化を招き,きわめて限定された特定の主題を熟練した写実の技巧で繰り返し描く幾多の〈専門画家〉を生み出した。各分野の代表的画家としては,風景画では冬景色のアーフェルカンプ,川岸風景のファン・ホイエン,平原眺望のコーニンクPhilips Koninck(1619-88),夜景のファン・デル・ネールAert van der Neer(1603ころ-77),牧畜風景のカイプとポッテル,イタリア風景のボトJan Both(1618ころ-52)とベルヘムNicolaes Berchem(1620-83),海景のファン・デ・カペレJan van de Cappelle(1626-79)およびファン・デ・フェルデ,風俗画では農民画のファン・オスターデAdriaen van Ostade(1610-85),中流家庭の生活を扱ったデ・ホーホ,メツーGabriel Metsu(1629-67),テルボルフ,愉快な教訓画のステーン,静物画では軽食画のヘーダWillem Claesz.Heda(1594-1680),果物や豪奢な食器を得意としたカルフ,動物画ではドンデクーテルMelchior d'Hondecoeter(1636-95),建築画では教会内部のサーンレダム,デ・ウィッテEmanuel de Witte(1618ころ-92),街景のファン・デル・ヘイデンなどの名が挙げられる。16世紀以来オランダに特有の集団肖像画の課題にみごとな解決を与え,瞬間性の強調によってモデルの実在感を飛躍的に高めた肖像画家ハルス,観察と明晰な秩序に稀有の調和をもたらし,静謐な室内の女性の姿を永遠の相の下に描いたフェルメール,自然の本質を損ねることなくパトスと詩情を宿した壮大な風景画を創造したヤコプ・ファン・ロイスダールの3人は特に傑出した存在であるが,彼らにしてもその主題の範囲は決して広くはない。こうした風潮の中でレンブラントはただひとり各種の分野に取り組み,とりわけ宗教画と肖像画において鋭い人間性の洞察に基づく内面的表現を展開した。彼の存在はエッチングの歴史においても,線刻銅版画におけるデューラーのそれに比較しうるほどに重要である。オランダ経済がアムステルダムに集中したのとは対照的に,絵画においては首都以外のホラント州諸都市も貴重な貢献をなした。17世紀前半の写実主義の台頭に際してはハールレムが主導的な役を果たしたし,またのちのデルフト(フェルメールら)やライデン(ダウらの細密画派)もおのおの独自の特色を備えた画派を形成している。

 こうした〈黄金時代〉の絵画は国境を越えて,とりわけ各国で市民社会が成熟する19世紀の絵画に根本的な影響を与えた(イギリスのノリッジ派,フランスのバルビゾン派など)。しかし,近代絵画の先駆と目される17世紀のオランダ絵画は,19世紀の写実主義や印象派とは二つの点で異なっている。第1は,風俗画における特定の類型的主題への固執や風景画,建築画におけるモティーフの選択と合成に示されるように,必ずしも目に見える外界の直截で忠実な再現が目ざされていたわけではないという点,第2は,技巧の上では極度に写実的に描かれた作品においても,とりわけ風俗画と静物画においてはしばしば種々の美徳や悪徳,愛やはかなさなどの寓意が秘められている点である。この後者の見地から見れば,17世紀のオランダ絵画は中世末期以来の〈擬装象徴主義〉の伝統の終着点ともみなせるのである。

 建築の領域では17世紀の初頭には前世紀以来のオランダ・ルネサンス様式が円熟した最終段階を迎えていた。階段状切妻を基本形とするデ・ケイLieven de Key(1560ころ-1627)のライデン市庁舎正面(1597)およびハールレム食肉組合会館(1603),デ・ケイセルによるアーケードを備えたアムステルダム取引所(1611。現存せず)などがその例として挙げられる。職人的建築家の最後の代表者デ・ケイセルは教会をはじめとする公共建築と住宅の設計によってアムステルダムの先進的都市計画に多大な貢献をする一方,彫刻家としても17世紀を代表する傑作〈ウィレム沈黙公墓廟〉(1618ころ)を残した。1630年代にはいると,ファン・カンペンの登場によって古典主義が一挙に主導権を獲得する。彼の代表作はマウリッツハイス(1633ころ設計。現,美術館)およびアムステルダム市庁舎(1648着工。現,王宮)で,とりわけ異例の規模を誇るところから〈世界第八の奇跡〉とうたわれた後者は繁栄を謳歌したオランダ市民社会の象徴とみなすことができる。古典主義の建築家には,ほかにフィングボーンスVingboons兄弟,フェンネコールSteven Vennecool(1657-1719)がおり,この傾向はユグノー亡命者(1686亡命)マローDaniel Marot(1663-1752)の精力的な活動によって,フランスの影響の下に18世紀にはいってからも長く保たれることになった。

フランス王ルイ14世の侵攻と第3次英蘭戦争(1672-74)によってオランダの国力のかげりが色濃くなった1670年代以降,全盛を誇った絵画も徐々に,しかし確実に衰退の道を歩み始める。富裕な市民の間には華美なフランス風の衣装や髪形が流行し,それと呼応してオランダ絵画からはその根本をなす質実で直截なアプローチや外界に対するみずみずしい感受性が失われ,形式化と惰性化が顕著になっていった。この沈滞は以後19世紀に至るまで長く続くことになる。18世紀の代表的画家としては機知に富んだ風俗画家でオランダのホガースと呼ばれるトローストCornelis Troost(1697-1750)が挙げられるにすぎず,この世紀にはむしろデルフト陶器,銀器,ガラスなどの工芸品が17世紀の伝統を継承発展させて注目すべき成果をあげている。フランスで写実主義的絵画が台頭する19世紀半ばになって,ようやくオランダでも17世紀絵画の伝統を新しい感性と技巧によってとらえ直す試みが芽生えはじめる。印象主義の先駆者ヨンキントはフランスにとどまりつつ故郷の風景を好んで描き,オランダ国内でもマーリスMaris兄弟,ウェイセンブルッフHendrick Johannes Weissenbruch(1824-1903),イスラエルスJozef Israels(1824-1911)ら〈ハーグ派〉の画家が,バルビゾン派の影響を消化しつつ灰色系の色調を主体とした清潔で抒情的な風景画を残した。しかし19世紀最大の画家としては,短い劇的な生涯をフランスで閉じたファン・ゴッホを挙げねばならない。強烈な原色と荒い筆触を特色とする彼の絵画は,フォービスムや表現主義などの20世紀芸術に重要な指針を授けた。世紀の転換期の画家としては象徴派のトーロップ,街景と都会風俗を描いたブレイトネルがいる。19世紀の建築は復古様式の時代が長く続いた(カイペルスによるネオ・ルネサンス様式のアムステルダム国立美術館等)が,ベルラーヘのアムステルダム株式取引所(1903)によって近代建築の基礎が築かれた。明快な合理性に支配されたこの建築はゼイルLambertus Zijl(1866-1947)の彫刻によっても名高い。20世紀美術は本質的に国境のない美術であり,オランダにおいても各国の影響の下にさまざまな傾向の流派が成立したが,なかではオランダ的美意識と普遍性の稀有の結合とも評すべき純粋幾何学的抽象絵画を創始したモンドリアン,およびその同僚ファン・ドゥースブルフら〈デ・ステイル〉グループの意義が際だって大きい。同グループのリートフェルトやアウトはベルラーヘの路線を継いで機能主義建築を発展させた。建築の分野では居住性を重視した集合住宅に新局面を開いたデ・クレルクMichel de Klerk(1884-1923)ら〈アムステルダム派〉の活動も注目に値する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オランダ美術」の意味・わかりやすい解説

オランダ美術
おらんだびじゅつ

現在のオランダの地域は、中世は9世紀以来種々の絵画が始まり、15~16世紀になるとヨーロッパ近世絵画の一大中心地を形づくるに至っていた。しかし、一般にオランダ独立以前はフランドル美術の名で総括しているので、ここでは17世紀初頭の独立以降の動きに限って述べる。

[嘉門安雄]

17~19世紀

1609年、事実上の独立を達成したオランダは、17世紀中期には商業・貿易の面で世界に君臨するに至った。そして、これと同時に美術の面でも独自の展開が始まった。建築では、前代のイタリア、スペインから移入されたルネサンス様式を一変させて古典主義になり、1630年以降にはオランダの古典主義様式が確立されて、ヤーコプ・ファン・カンペンJacob van Kampen(Campen)(1595―1657)設計のハーグのマウリッツ公邸宅マウリッツハイスMauritshuis(現在は同名の美術館)やアムステルダム市庁舎(現在の王宮)をはじめ多くの市庁舎が次々につくられている。

 しかし、もっとも注目すべきは絵画の世界で、15世紀のファン・アイク兄弟による北方ルネサンスの開花以来、独自の素朴清新な写実絵画を生み出し、その伝統は絶えず受け継がれて、それが17世紀の国家的発展に際して、他の西欧諸国にはみられない風俗画、風景画を生み出す基になった。元来、人間中心主義であり、またモニュメンタルな意義を強調してきたヨーロッパ絵画では、市民の日常生活をありのままに描いた純粋な風俗画、あるいは自然そのものを描く純粋な風景画の発展する余地はほとんどなかった。しかし、活動的な市民階級の発生と商業力の発展による市民社会の充実は、写実主義の伝統をもつオランダに、日常生活や実際の風景を写した親しみやすい絵画を生み出した。風俗画にフランス・ハルス、ヤン・フェルメール、ヤン・ステーン、アドリエン・ブロウエル、ヘラルト・テルボルフ、ペーテル・ド・ホーホ、風景画にヤーコプ・ファン・ロイスダール、マインデルト・ホッベマ、パウルス・ポッター、ヤン・ファン・ホーイイエンらの名手が輩出したが、これらを超えてオランダ絵画史にそびえるのはレンブラントである。彼は光の画家、魂の画家として、ヨーロッパ絵画史上最大の巨匠の一人である。

 こうして、17世紀のオランダ絵画は以後のヨーロッパ絵画に大きな影響を与え、19世紀フランスの自然主義、印象主義(印象派)の土台を形づくった。しかし、当のオランダの絵画自体は17世紀末から職人的技巧に堕して生気を失い、19世紀後半まで、逆にフランス絵画の亜流を呈していた。それがふたたび生気を取り戻すのは、初期印象派のヨーハン・バルトルト・ヨンキントやヨセフ・イスラエルスの出現によってであり、さらに炎の画家ゴッホ(フィンセント・ファン・ホッホ)の登場によって、近代オランダ絵画は世界的に大きな脚光を浴びた。

[嘉門安雄]

20世紀

第二次世界大戦まで

20世紀初頭、フランスに移住したキース・バン・ドンゲンや、表現主義的画家のヤン・スリューテルJan Sluijters(1881―1957)が祖国に紹介した同時代フランス美術は、若い作家に熱狂的に迎えられた。1910年前後には、スリューテルやレオ・ゲシュテルLeo Gestel(1881―1941)、ピエト・モンドリアンらがキュビスムや点描主義など同時代の芸術動向を吸収しながら「ルミニズムluminism」とよばれる光を重視した作品を制作していた。一方、ドイツ表現主義を広めたグループ「デ・プローグDe Ploeg」(鋤(すき))のフローニンゲンを本拠地とした活動もあった。しかしオランダの20世紀芸術が国際的な重要性を獲得するのは、普遍性と総合性を求める芸術運動の先駆的、代表的な存在であるデ・ステイルの登場を待たなければならない。1917年の春ライデンで発刊された「様式」を意味する雑誌『デ・ステイル』は、同名をもってよばれるグループの機関誌的役割を担っていた(1932終刊)。発足時のメンバーには、テオ・ファン・ドースブルフ、バルト・ファン・デル・レックBart van der Leck(1876―1958)、ジョルジュ・ファントンゲルローGeorges Vantongerloo(1886―1965)、そしてモンドリアンなどがいた。基本的にモンドリアンが唱える「新造形主義」を原理としていたデ・ステイルは、幾何学的抽象絵画のその後のあり方を決定づけたといえる。またデザインの領域においても、1920年ごろから1930年代までのオランダにおいて支配的傾向であった新即物主義やハーグ派を準備する役割を担った。しかし、やがて新造形主義を教条的だとする批判も生じ、1925年、モンドリアンはこの運動から身を引き、一方翌1926年、批判者ドースブルフは「エレメンタリズム」を提唱することになる。

 デ・ステイルのメンバーでもあったヘリット・トーマス・リートフェルトによるユトレヒトのシュレーダー邸(1924)は、空間の自由で豊かな相互関与が新造形主義的なディテールの可動性によって可能となっており、20世紀住宅建築の代表作と目されている。建築ではほかに、ロマネスク建築の重量感とれんがの素材感を近代的合理主義によって翻案した、近代建築の先駆者ヘンドリック・ペトルス・ベルラーヘや、国際様式、機能主義の泰斗であると同時にベルラーヘの信奉者でもあったヤコブス・ヨハネス・ピーテル・アウトの存在が近代建築史を語るうえで欠かせない。またオランダ国内に多くの模倣者を生み出したビレム・マリナス・デュドックWillem Marinus Dudok(1884―1974)や、ベルラーヘを批判し表現主義的建築をつくったアムステルダム派、伝統主義的なデルフト派など見るべきものは多い。

[保坂健二朗]

第二次世界大戦以降

二度にわたる世界大戦の間は魔術的リアリズムやネオ・リアリズムが大勢であったが、第二次世界大戦後すぐにピエト・アウボルフPiet Ouborg(1893―1956)をメンバーの一人とするグループ「自由なイメージVrij Beelden」などが、実験性の強い芸術運動の流れを再興した。こうした動向のなかで1948年結成されたのが、デ・ステイルとは対極的な、感情を無媒介的に表出する芸術家のグループ「コブラ」である。結成自体はパリであるこのグループの名は、カレル・アペルやコルネイユCorneille(1922―2010)など、参加した各作家の生国の首都であるコペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字(Co、Br、A)から名づけられている。活動は約3年間と短命であったものの、第二次世界大戦後の抽象的かつ表現主義的な絵画や彫刻の先駆的役割を担った。

 1960年代以降、ポップ・アート、コンセプチュアル・アート、ネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義)など多様化をきわめる芸術の動向がみられたが、オランダもまたその例外ではなかった。そのなかで、第二次世界大戦の記憶を風景表現に表出するアルマンドArmando(1929―2018)や、身体のジェンダー性を描き問うマルレーネ・デュマスMarlene Dumas(1953― )の絵画が注目される。また写真では、ドキュメンタリー的なエド・ファン・エルスケン、巧みな配置で錯視をおこさせるヤン・ディベッツJan Dibbets(1941― )、身体・家族の社会性を顕示させるリネケ・ダイクストラRineke Dijkstra(1959― )など、立体表現ではカレル・フィッサーCarel Visser(1928―2015)やヘンク・フィッシュHenk Visch(1950― )などの評価が高い。またOMA(Office for Metropolitan Architecture)を主宰する建築家・都市計画家のレム・コールハースによるさまざまな提案、発言、実践は、建築の再定義を促し、国内外に多くの追随者を生み出した。

[保坂健二朗]

公的機関によるサポート

こうした創意的な芸術活動を支えているのが、人口約1500万人のこの国の各都市に存在する、けっして大規模ではない展示施設である。たとえばセントラル美術館(ユトレヒト)は、ウサギのキャラクター、ミッフィーのデザイナーであるディック・ブルーナDick Bruna(1927―2017)や、1990年代後半、ノーデザインを提唱し注目を集めたデザイナー組織「ドローク・デザインDroog Design」といった同時代のデザイン作品を積極的に収蔵している。また、1975年に設立された「デ・アペルDe Appel」(アムステルダム)のような組織などは、コレクションをもたず、展覧会を同時代作家の芸術活動のサポートの一環として行っている。オランダ建築研究所(NAi)があるロッテルダムや、視覚芸術センター「シュトゥルームStroom」があるハーグでは、現代建築や現代音楽、あるいはメディア・アートなど、最先端の動向を打ち出す展覧会が数多く行われている。公的機関が自由と創意を認め、それをサポートするこのような姿勢を、いかにもオランダ的だといったとしても間違いではないだろう。

[保坂健二朗]

『『原色世界の美術7 ベルギー・オランダ』(1983・小学館)』『『世界美術の旅7 ベルギー・オランダ物語』(1988・世界文化社)』『田島恭子・上田雅子・星和彦著『ヨーロッパの建築・インテリアガイド――歴史的建築物から美術館、ショップまで 上』(1991・ニューハウス出版)』『ウジェーヌ・フロマンタン著、鈴木祥史訳『昔日の巨匠たち ベルギーとオランダの絵画』(1993・法政大学出版局)』『J・J・P・アウト著、貞包博幸訳『オランダ建築』(1994・中央公論美術出版)』『『美術画報21 特集オランダ美術の400年』(1999・朝日アートコミュニケーション)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オランダ美術」の意味・わかりやすい解説

オランダ美術
オランダびじゅつ
Dutch art

オランダの独立以後の美術をいう。スペインのハプスブルク家の支配下にあったネーデルラントでは,ホラント州をリーダーとする北部7州が 1609年に独立し,48年にウェストファリアの講和 (ミュンスターの和約) で正式に独立を承認されたが,17世紀の絵画はこうした政治的自由と経済力の充実,それに国民精神の高揚などを背景として輝かしい黄金時代を現出した。特権階級の存在しなかったオランダの絵画は,市民による市民のための絵画といってよく,カトリックを奉じたフランドルのように教会が美術のパトロンとなることはなかった。ほとんどの市民が絵画を自宅に飾り,またこうした需要にこたえるべくおびただしい作品が生れたが,これらに共通する特色は当時のオランダ人の生活や彼らの国土に根ざしたその平明なリアリズムにあり,バロック的な傾向は弱い。風景,静物,人物,風俗など,各ジャンルの専門化が進んだのもこの時代であるが,宗教的な理由から宗教絵画は奨励されなかった。したがって宗教画をはじめ,あらゆるジャンルにその天才を発揮したレンブラントは当時のオランダにあっては例外的な存在であった。肖像画では F.ハルスが傑出し,風景画では J.ロイスダール,J.ホイエン,M.ホッベマ,A.コイプらがあげられ,また J.ヘイデンは都市の景観をもっぱら描いた。風俗画では農民の生活を主題とした A.オスターデやフランドル出身の A.ブラウェル,都市の生活を描いた P.ホーホや J.フェルメール,J.ステーンがあげられる。静物画家としては J.D.ド・ヘーム,W.ヘダ,A.バイエレン,W.カルフらがいた。また「バニタス」と呼ばれる教訓的,寓意的な静物画もライデンを中心にしばしば描かれた。こうしたオランダ絵画の黄金時代も 17世紀後半から停滞に向った。 19世紀では J.ヨンキントがその清新な海景によりフランス印象主義の先駆者の一人となり,ゴッホはレンブラント以後のオランダで最もすぐれた画家の一人となった。 20世紀の画家としては「デ・ステイル」のモンドリアン,抽象表現主義の K.アペル,肖像画家 K.ドンゲンらがあげられる。

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世界大百科事典(旧版)内のオランダ美術の言及

【バロック美術】より

…一般には,17世紀初頭にイタリアのローマで誕生しヨーロッパ,ラテン・アメリカ諸国に伝播した,反古典主義的な芸術様式をいう。 バロック(フランス語でbaroque,イタリア語でbarocco,ドイツ語でBarock,英語でbaroque)という語の由来については2説ある。一つはイタリア語起源説で,B.クローチェによると,中世の三段論法の型の一つにバロコbarocoと呼ぶものがあり,転じて16世紀には不合理な論法や思考をバロッコbaroccoと呼ぶようになった。…

※「オランダ美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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