熊野灘で1886年10月に発生したイギリス船遭難にともない,領事裁判制度の弊害を国民に明らかにした事件。マダムソン・ベル汽船会社所有のイギリスの貨物船ノルマントンNormanton号(1533トン)が横浜から神戸に向かう途中,熊野灘で暴風にあい暗礁にふれて沈没した。船長ドレーク以下の乗組員26名はボートで脱出し,全員救助されたが,石炭艙に乗っていた日本人船客23名が全員救助されていないことが判明しただけでなく,その死体も発見されなかった。そのため船長以下の乗組員が日本人船客をすててかえりみなかったと非難する声があがった。しかし,神戸イギリス領事ツループによる海難審判は,船長の措置に過失を認めず責任なしと結論した。このため船長の厳罰を期待した世論は憤激の度を強め,義捐金募集の運動も起こった。日本政府は内海忠勝兵庫県知事にドレークを殺人罪で告訴させ,横浜領事裁判所のハンネン判事は12月8日,船長を有罪と判決し禁錮3ヵ月に処し,事件はいちおう落着した。元来,海難審判と刑事事件の裁判は別個のものだが,当時一般人には区別し難く,無過失判決は国民感情として許せなかった。そこでこの事件は外国人の治外法権享有に対する批判を強め,条約反対運動が広範に広がるのに,重要な契機となった。
→条約改正
執筆者:藤村 道生
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1886年(明治19)10月24日、横浜から神戸へ向け熊野灘(なだ)を航行中の英国貨物船ノルマントン号が暴風のため航路を誤り勝浦沖で座礁沈没、日本人乗客全員が水死した事件。遭難当時ノルマントン号には乗組員のほか25名の日本人乗客がいたが、ボートで脱出したのは船長ドレーク以下乗組員だけで、日本人乗客は全員取り残され船と運命をともにした。船長の乗客に対する措置は明らかに不当であり、また人種的偏見に基づいていた。神戸駐在英国領事ツループの下で行われた海難審判では船長は無罪とされたが、国内世論はこれを不服として硬化し、日本政府もまた急遽(きゅうきょ)、兵庫県知事内海忠勝にドレーク船長を殺人罪で告訴するよう指令した。神戸での予審の後を受けて横浜駐在英国領事館ハンネン判事は12月8日ドレークを有罪、禁錮3か月とする判決を下した。この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派に取り上げられ、これを契機に外交の刷新、条約改正を要求する声が盛んになった。
[酒田正敏]
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イギリス船沈没に関する領事裁判事件。1886年(明治19)10月24日,横浜から神戸へ向かうイギリス貨物船ノルマントン号が熊野灘で難破し翌日沈没。西洋人船員らはボートで脱出したが,日本人乗客25人は全員水死。11月5日,イギリス神戸領事の海難審判は船長ドレイクに無罪を判決。国民の激高に,政府は兵庫県知事内海忠勝に船長を殺人罪で告発させ,12月8日横浜領事による刑事裁判は船長を有罪,禁錮3カ月に処した(賠償はなし)。この事件に内外人の義捐(ぎえん)金が寄せられ,脚色上演の動きもあるなど,井上馨(かおる)外相の条約改正交渉中に領事裁判権撤廃の世論をよびおこした。
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…日本はこの条件を承認して本案を議了にし,各国の同意を待つことにした。しかし,この交渉中にノルマントン号事件が発生し,日本国民の対英感情は極度に悪化し,政府の欧化政策に対する国権論者の批判も台頭してきた。また極秘裡に進められていた改正案を法律顧問ボアソナードが知り,新条約案は従来の不平等条約より国権を毀損するものだ,という意見書を秘密出版で流布させた。…
※「ノルマントン号事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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