ペーロン
長崎で6月15日前後の日曜日(以前は旧5月5日の端午(たんご)節)に行われる船競漕の行事。船の長さは約10mで36人が乗り込む。指揮者,舵取り,銅鑼打ち,太鼓打ち,アカ取りが各1名ずつ,漕手が31名という構成になっている。船の中央の柱には御幣や長刀(なぎなた)が取りつけてある。競漕には青少年組と壮年組の2組があり,各組ともに順番を定めて熱狂的に競漕する。勝った組は旗を先頭に,銅鑼や太鼓の音も勇ましく町内を練り歩く。この船競漕を呼ぶペーロンという言葉は,爬竜という中国語がなまったものと思われる。船競漕のさまが,あたかも竜がはうような形に見えるところからの呼称であろう。江戸時代長崎に居住した中国人が,故郷での端午節の行事として行ったものを,長崎の人たちが引き継いだもので,今日では長崎名物の一つに数えられるに至っている。
沖縄でも各地で同種の船競漕をハーリーと呼び,旧5月4日に挙行している。那覇に近い糸満という港町の例を挙げると,港を見下ろす丘の上に,早朝から南山ノロ,糸満ノロをはじめ神に仕える神女(祝女(のろ))たちが集まり,東・西(海)・南・北の順に線香をたいて拝み,〈今から糸満のハーリーを始めますから,3村の若者たちに神が力を授け,走る船に神がのり移られ,勝たせたまえ〉と祈る。糸満の北・中村・南の3組で競われるこのハーリーは,大漁祈願,年占神事としての信仰に支えられている。競漕がすむと,勝った順に漕手が,白銀堂(はくぎんどう)という聖地で待機している神女たちのところに繰り込んで,祝福を受ける。ハーリーとは,爬竜を音読したものであろう。この種のハーリーは,沖縄全域にわたって100ヵ所以上もの土地で現に行われている。
日本のペーロンやハーリーという呼称や様式は,中国大陸の華中・華南に広く分布している竜船競渡(きようと)行事の伝播,受容とみてよい。中国では,端午節の催しとして競渡すなわち船競漕が盛んに行われている。ただしその期日には地方差があって,端午節のほかに2月2日,3月3日,8月15日,9月9日などに結びついた事例もある。端午節の場合,汨羅(べきら)に身を投じた屈原(くつげん)の霊を弔うためとの説明が行われているが,これは後世の付会の説であろう。竜を形どった船の競漕は,中国では長江(揚子江)流域から華南にかけての地域に分布するが,その中には漢族だけでなく,少数民族も幾つか含まれている。さらにタイ,ラオス,カンボジアなど東南アジアの諸地域にも分布している。このように広範な分布を示す竜船競渡の意義については,内外の研究者から多くの説が提出されているが,まだ結論が出る段階には至っていない。おもな仮説としては,(1)人身供犠説,(2)水死者の鎮撫・除疫説,(3)水神祭祀説,(4)稲作儀礼説,(5)雨乞い説,などが提出されている。長崎や沖縄の場合は,中国からの伝播,受容として説明がつくが,とくに沖縄は受容の素地が強かったように思われる。また,対馬の海神(わたつみ)神社や島根県の美保神社(諸手船(もろたぶね)神事)その他に神社祭祀の一部としての船競漕が認められ,船駈(ふながけ)・船ぐろ(対馬,壱岐),櫂練(かいねり)・漕(こぎ)ぬき(愛媛県),押船(おしぶね)(山口県)などと呼ばれている。期日としては,端午節以外の日取りが選ばれており,この種の船競漕は,日本在来のものと考えられる。日本での船競漕の原型は,祭りに際して海のかなたから神を迎える,また神が船に乗って氏子区域を巡回する,あるいは陸でいえば御旅所(おたびしよ)にあたる場所まで神幸する,という〈御船祭(おふねまつり)〉の形態に求められよう。そうした競漕を伴わない静かな祭りは,今でも各地に残っている。ところが,氏子区域の関係で,御座船の数が増えてくると,それらの間で競漕が行われることになる。御船祭から競舟へ移ると,神の御前で日ごろ鍛えた力を競うとともに,その勝敗によって生産の多少を占うということになったものと思われる。この競漕の問題は,東南アジアの諸民族にわたってのさらに豊富な資料に基づいて,多角的に考慮することが必要であろう。
執筆者:直江 広治
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ペーロン
長崎地方で行われる(竜)舟競争の年中行事。17世紀の中ごろにはすでに行われていたようであるが,その起源は,当時長崎に居住していた中国人の行う端午節の行事を見習ったものといわれる。18世紀末には長崎近辺の36の町が,それぞれの旗印を舟に立てて競い合うほど盛んに行われた。熱狂のあまりのいさかいも多かったようで,死者が出たことによって禁止令が出されたことさえあった。かつては旧暦の端午節前後に開催されていたが,近年は開催時期にそうしたこだわりはなく,長崎では7月の第4日曜日(ながさきみなとまつり最終日),西彼杵(にしそのぎ)町の島々では7月上旬や旧盆の時期に行われている。とりわけ長崎港内で行われるペーロンは,1977年から一般,職域,中学生の3部門にわけられた県内各地区の選抜チームと県外の特別参加チームが,港内約1300mのコースでその速さを競う選手権大会とされており,優勝チームは香港などで行われる国際大会にも出場している。 ペーロンというこの舟競争の呼び名が,福建語の爬竜の発音pe-lingに近いことや,沖縄各地で行われているこれと同種の舟競争が,爬竜を音読したと思われるハーリーと呼ばれていることからも,中国の華中,華南一帯で行われていた端午節の竜舟競渡(きょうと)(ドラゴンボート・レース)が受容されたものとみなされている。 ペーロンに使われる舟は水の抵抗が少ない細身の約14mの和船で,これに1mほどの櫂(かい)を持った漕(こ)ぎ手の30名前後に加えて,指揮者,舵(かじ)取り,太鼓・銅鑼(どら)打ち,アカ(舟内の水)とりなどが乗り込む。漕法は漕ぎ手が進行方向を向き,前から後ろに水を掻(か)くというもので,銅鑼と太鼓の音によって櫂を操るタイミングやピッチが調整される。舟にはこうした銅鑼や太鼓が積み込まれるほか,中央の柱には御幣や旗,長刀などが取り付けられることもある。
→関連項目長崎[市]
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ぺーろん
汨羅(べきら)の川(→ミールオ〈汨羅〉江)に身を投じた中国の詩人屈原の霊を慰める行事として,中国の端午節(旧暦 5月5日。→五月節供)に行なわれる,龍船競漕を起源とする競漕行事。白竜,爬竜などの字があてられ,ハーリーなどとも呼ばれる。地域により人数は異なるが,長さ 10m余のへさきの突き出た船に漕ぎ手と銅鑼叩きなどが総勢 30人ほど乗り込み,銅鑼や太鼓に囃されて速さを競い合う。沖縄県や長崎県を中心に各地で行なわれている。沖縄県のハーリーは,航海安全と豊漁を祈る行事として旧暦 5月4日に行なわれるが,那覇市では観光行事化してゴールデンウィークの 5月3~5日に開催されている。長崎県のペーロンは,明暦1(1655)年に長崎港で嵐により唐船が難破したことから,海神をしずめるために唐人たちが始めたとも伝えられ,本来は旧暦 5月5日の行事であった。今日では 6~8月の日曜日に県内の西彼杵半島や大村湾,長崎半島の各地で行なわれ,7月最終日曜日には長崎市で長崎ペーロン選手権大会が開催されている。
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ペーロン
ぺーろん
長崎県の浦々で行われる競漕(きょうそう)行事。ペーロンの語は、「白竜(パイロン)」「飛竜(フェイロン)」「剗竜(チャンロン)」などの中国語の訛(なま)り。端午(たんご)の節に屈原(くつげん)の霊を慰めるために行ったという中国の競漕が伝えられたもので、江戸時代初期の長崎開港後まもなく始められた。船の大きさ・形態、漕(こ)ぎ手の人数、競技距離は浦々や時代によって一定ではない。現在長崎市で行われているものは、舷側(げんそく)に太陽、竜(りゅう)、波形などを描いた長さ13.5メートルの和船に、33名以内(漕ぎ手28名のほかに舵(かじ)取り、太鼓打ち、銅鑼(どら)たたき、閼伽汲(あかく)みなどが加わる)が乗り組むもので、6月第1日曜日から市内の各町内で予選が始まり、7月第4日曜日に長崎港内のグラバー邸の下あたりで、1950メートル(往路1200、復路750)の距離で決勝が行われる。熊本県水俣(みなまた)・津奈木(つなぎ)や兵庫県相生(あいおい)などでも行われている。西日本では船競技が盛んであるが、ペーロンの漕法上の特徴は、櫓(ろ)ではなく、漕ぎ手が前向きになって櫂(かい)を操作する点にあり、その点、沖縄県のハーリー、島根県美保や和歌山県熊野の諸手船(もろたぶね)神事や御船祭のものと似ている。現在では単なる熱狂的な競技となっているペーロンも、元来は竜神信仰などを基底とする農耕儀礼とかかわるものがあったのではないかといわれる。
[田中宣一]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内のペーロンの言及
【海神】より
…付随して爬竜(ハーリー)と呼ぶ舟漕ぎ競争が催される。ハーリーは中国から伝来したといわれ,長崎のペーロンも同系統のものと思われる。海民の海上での禁忌は厳しく,[沖言葉]という忌詞(いみことば)がある。…
※「ペーロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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