イタリア演劇(読み)イタリアえんげき

改訂新版 世界大百科事典 「イタリア演劇」の意味・わかりやすい解説

イタリア演劇 (イタリアえんげき)

イタリア演劇の発生的形態は,12世紀から13世紀にかけて中部イタリアを中心に歌われたり,演じられたラウダlauda(神をたたえる歌)であるとされているが,それはかならずしも演劇ばかりではなく,オラトリオやオペラの起源でもある。このラウダの作者や演じ手は,主として〈兄弟団〉といわれる宗教組織に属する聖職者たちであった。ラウダの作者はほとんどが無名であったが,現在なお名を残している者もあり,その1人がヤコポーネ・ダ・トディJacopone da Todi(1236ころ-1306)で,《マドンナの涙》や《天国に召される女》といったラウダを書き残している。また,この〈兄弟団〉は,ラウダを対話形式に発展させ,福音書や聖人伝を主題に多くの宗教劇を作っては演じた。15世紀になると,フィレンツェを中心に宗教劇を書く作家が現れた。〈アブラハムとイサク〉や〈最後の審判〉を主題に劇を書いたベルカーリFeo Belcari(1410-84)がその中でもよく知られている。

 ラウダ,宗教劇に加えて,遊行芸人や吟遊詩人たちの民衆的なパフォーマンスもイタリア演劇の起源を形成する重要な要素である。彼らの語り,歌,踊り,マイム,軽業などは16世紀に入って隆盛を見るコメディア・デラルテの母体となったのである。このように中世イタリアの劇的世界の中心にあったのは書かれざる演劇であって,より明確な演劇形式を備えた戯曲の誕生はルネサンスを待たなければならない。

1429年,古代ローマ時代の喜劇作家プラウトゥスの戯曲12編の手稿が発見された。これが契機となってローマ喜劇の研究や上演が始まった。とくにプラウトゥスの双生児の取違え喜劇《2人のメナエクムス》は数多く上演された。またもう1人の古代ローマ喜劇の作家テレンティウスの作品も翻訳,上演された。ルネサンス期の文人とローマ喜劇との出会いによって,イタリア演劇はその流れを大きく変えた。15世紀末から16世紀初頭にかけてフィレンツェを中心に喜劇やファルスを書く多くの作家が現れた。ドビツィBernardo Dovizi(1470-1520),通称ビビエナBibbienaという枢機卿(すうききよう)の書いた作品で,双子や変装による取違えを扱った《ラ・カランドリア》(1513ころ)は,そうしたルネサンス期の古典喜劇の再評価の風土から生まれてきた戯曲である。《狂えるオルランド》という長編の英雄物語詩を書いたL.アリオストは,本格的な形式を備えた戯曲を書いた最初の劇作家である。彼は《宝石箱》などあわせて5編の戯曲を書き,ルネサンス時代の喜劇に新風をもたらした。しかし,アリオスト以上に時代に対する風刺を表現した作品《マンドラゴラ》を書いた作家にN.マキアベリがいる。彼は《君主論》を書いた思想家として知られるが,1編の小説と2編の戯曲作品を残した。《マンドラゴラ》は,原題が《カリーマコとルクレーツィアの喜劇》であったことでもわかるように,カリーマコという青年が美貌の女性(ただし人妻)をあらゆる手段を使って手に入れようとする話であり,16世紀フィレンツェの世俗的生活を支配していた悪が描き出されている。1519年に書かれたとされているが,以来もっともよく上演されてきたルネサンス喜劇の一つである。

 思想家の書いた戯曲という意味では,ナポリのG.ブルーノの手になる《火を掲げる者》(1582)は,《マンドラゴラ》に比すべき作品である。ブルーノはコペルニクスパラケルススの理論を弁護し,ついに異端として処刑されるのであるが,この喜劇1編を残すことによって,反権力的なルネサンス精神の所在を示した。ナポリの市井の情事を扱いながら,錬金術師を登場させたりするブルーノのこの喜劇は,後年パリで出版されたために,イタリアでは長い間無視されていた。ナポリにはもう1人,29編の喜劇を書いたといわれるG.B.dellaポルタがいる。ポルタも戯曲は書いたが,ブルーノのように哲学者であり,科学者であり,また神秘学者であった。彼の喜劇は現在《オリンピア》《仇どうしの兄弟》など14編しか残っていないが,古代ローマ喜劇と同じような食客,召使,衒学(げんがく)者などが登場する類型的なイタリア喜劇であった。あえて卑わいさもいとわないような世俗精神の持主であった,P.アレティーノのいくつかの喜劇《宮廷喜劇》《偽善者》《哲学者》などもルネサンス演劇の中で重要な位置を占める。しかし,ここではベオルコAngelo Beolco(1502-42)の名を落とすことはできない。彼は,ルッツァンテ(〈子どものようにふざける人〉の意)と呼ばれ,《ピオーベの女》《アンコナの女》《モスケータ(フィレンツェ風喜劇)》などを書き,みずからも俳優として演じた。プラウトゥスの喜劇をなぞりながら,農村世界の悲惨さや戦争による荒廃をパドバ方言で描いた。

知識人によって書かれたルネサンス喜劇は,反宗教改革の進行とともに衰退の道をたどり,かわってコメディア・デラルテに代表されるような民衆喜劇が主流を占めるようになった。同時にラウダや宗教劇に始まったオペラ的なものは,A.ポリツィアーノの《オルフェオ》を経て,16世紀には牧歌劇が発展整備され,やがて文学と音楽の関係がいっそう密になって,17世紀にかけてカバリPietro Francesco Cavalli,G.カッチーニC.モンテベルディなどの〈メロドラマ〉(オペラ)を生んだ。イタリア演劇ではこの〈メロドラマ〉が悲劇の役割を果たした。

 18世紀を代表する劇作家といえば,ためらわずにC.ゴルドーニC.ゴッツィの名を挙げることができる。この2人のベネチア人は創作面では敵対を続け,ついにお互いを理解しようとしなかった。ゴルドーニは,青年時に法律を学び,弁護士業を営んでいたが,演劇への情熱を捨てることができず,喜劇役者A.サッキに戯曲《一度に2人の主人をもつと》を書いたのをきっかけに,メデバック一座という,主としてコメディア・デラルテを演ずる劇団の座付作者となる。彼は理のとおらないわい雑な即興喜劇に異をとなえ,人間の心理に根ざした現実的なドラマを作り上げようと努力し,この試みをみずから〈演劇改革〉と呼んだ。ゴルドーニは多作家で,戯曲ばかりかオペラの台本まで書いた。初期の喜劇から後期の写実主義的な作品まで作風は幅広い。滅びゆくベネチア社会を描いた〈別荘生活三部作〉や,漁民の生活を喜劇的に描いた《キオジャのもめごと》など,現在でもその作品は多く上演されている。1762年イタリア座の招きでパリに移り住み,フランス語で戯曲を書いたが,晩年の作品はベネチア時代に書いたものほど優れてはいなかった。一方,ゴッツィは,ゴルドーニの〈演劇改革〉に反対し,コメディア・デラルテや説話を同時代演劇の内部に取り込むことを主張し,《三つのオレンジの恋》《蛇女》《トゥランドット姫》などを書いた。ゴルドーニが啓蒙主義の流れに身をひたしていたのに反し,ゴッツィは19世紀になって主流を占めることになるロマン主義の先駆者であったといえる。またイタリア最大の悲劇作家V.アルフィエーリが18世紀後半に活躍し,歴史,神話,聖書に材をとった悲劇作品を多く書いた。

ロマン主義の後,自然主義的演劇がヨーロッパでは生まれてくるが,イタリアではこれは〈ベリズモverismo(真実主義)〉と呼ばれた。ベリズモの作家としては,G.ベルガがおり,《牝狼》はよく知られた作品である。また反自然主義的で,退廃的といわれた作家にG.ダンヌンツィオがいる。壮麗な文体で書かれた《ヨーリオの娘》《船》《フェードラ》などは当時,演劇的関心を集めたが,現在は上演の可能性はほとんど失われている。

 20世紀に入ると,イタリアの演劇界はF.T.マリネッティたちの始めた未来主義運動によって衝撃を与えられる。〈未来派futurismo〉は演劇の革命をうたい,因襲的なドラマトゥルギーとは無縁な数々の短い劇作品を世に送り出した。多くは戯曲であることよりパフォーマンスを目ざしたものであった。1916年にキアレリLuigi Chiarelli(1884-1947)の《仮面と素顔》が発表されると,劇評家はこれをグロテスクと呼んだ。以後,ロッソ・ディ・サンセコンド,ボンテンペリの同質的な作品が現れるに及んで,彼らは〈グロテスク派〉と名付けられた。このグロテスク派から1人ぬきんでて,ヨーロッパ演劇の新たな地平を切り開いたのがL.ピランデロである。1910年《万力》を書いて以来,遺作《山の巨人たち》までの26年間に40編以上の戯曲を発表したが,20世紀ヨーロッパの代表的劇作家としての地位を確立させたのは,《作者を探す六人の登場人物》(1921)であった。

第2次世界大戦以前からナポリで民衆喜劇を書いていたE.デ・フィリッポは,戦後も《ナポリ百万長者》(1945),《土曜,日曜,月曜》(1959)など多くの作品を書き,U.ベッティD.ブッツァーティD.ファッブリとともに,演劇の再生に重要な役割を果たした。60年代以降は反体制的な喜劇作家フォーDario Foと,つねに芸術の前衛としての姿勢を保っているベーネCarmelo Beneが非凡な作品を発表しており,2人とも演出と俳優を兼ねている。
イタリア文学 →オペラ
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア演劇」の意味・わかりやすい解説

イタリア演劇
いたりあえんげき

イタリア演劇の起源は中世における典礼劇の成立過程にみいだされる。

中世

9世紀、教会における交唱聖歌に由来する「トローペ」(たとえ話)は、キリストの受難や復活、聖者伝などを物語化し、所作、小道具を伴って典礼劇を成立させた。時とともにそれは教会を離れ、巷間(こうかん)に世俗の者による俗語の演劇として発達した。また13世紀に生まれた「ラウダ」(賛歌)はしだいに劇的な性格を備え、14世紀には「ラウダ劇」の盛期を迎えた。ラウダや守護聖人の祝祭行列に由来する聖史劇は、教会の祭式とは独立して、市民の間の上演組合によって町の広場で上演され、ときにはきわめて壮大、華麗な舞台が設けられた。聖史劇は15世紀の後半、とくにフィレンツェで栄え、ベルカーリF. Belcari(1410―84)の『アブラハムとイサク』(1450?)やロレンツォ・デ・メディチの『聖ジョバンニと聖パオロ』(1489)などをはじめ、多くの無名作家による優れた作品を生んだ。作者、舞台、観客が一体となった共同体的集団によって支えられた聖史劇は、16世紀の宗教会議以降、急速に衰えた。

[赤沢 寛]

ルネサンス期

初期の人文主義者たちはもっぱらギリシア・ラテンの古典劇を上演し、その模倣作品を書くことを念願としたが、16世紀に至ってトリッシーノの悲劇『ソフォニスバ』(1514)、アリオストの喜劇『カッサリア』(1508)などによって、イタリア語による初の正則劇を迎えた。その後、チンツィオG. Cinzio(1504―74)は悲劇に画期的な生命を与え、タッソは『トリスモンド』(1587)にロマン的な経緯を織り込んで新生面を開いた。また喜劇はアレティーノの『偽善者』(1542)などを経て、デッラ・ポルタG. Della Porta(1535―1615)の斬新(ざんしん)な筋立てによる散文喜劇を生んだ。その間、悲劇、喜劇ともに多数の作品をみたが、総じて古典の影響を払拭(ふっしょく)しえなかった。しかしマキャベッリは冷徹な現実主義に貫かれたルネサンス喜劇の傑作『マンドラゴラ』(1513)で世俗の道徳を鋭く批判し、また哲学者ブルーノは生彩に富んだ風刺喜劇『ろうそく屋』(1580)で時代の現実主義に底流する深い懐疑的精神を示した。

 イタリア語による最初の劇作品としてポリツィアーノの『オルフェオ物語』(1480)がもった夢幻的、悲喜劇的性格は、チンツィオなどを介してベッカーリA. Beccari(1510―90)の『犠牲』(1554)に至って牧歌劇を確立した。タッソは傑作『アミンタ』(1573)を生み、グリアーニG. B. Griani(1538―1612)の『信仰篤(あつ)き牧人』(1590)とともに牧歌劇、悲喜劇の典型と仰がれた。

 人文主義の演劇は古典の復興にとどまらず、近代的な意味における演劇を確立し、アリストテレスの『詩学』の翻訳、研究をはじめとする多くの劇詩論と相まって後世の西欧演劇を性格づける決定的な役割を担った。

[赤沢 寛]

17~18世紀

16世紀の後半、相次ぐ職業劇団の結成によって急速に台頭したコメディア・デラルテ(仮面即興喜劇)は、台本(テキスト)を拒否し、筋書きのみによって舞台を展開し、古典劇や人文劇の台詞(せりふ)を随時援用しつつ、ダンス、歌、曲技などあらゆる舞台の技巧を駆使した民衆喜劇を築いた。俳優の自主的な創意に基づく彼らの喜劇は、急速に国内のみならず、フランスをはじめとするヨーロッパの宮廷に迎えられ、また多くの劇団が各国に巡業を続けて、その国の演劇の形成に多大な足跡をとどめた。さらに2世紀有半に及ぶその活動は、シェークスピアモリエール、ゴルドーニなどへの影響にとどまらず、オペラ、バレエなどを含めた舞台芸術の世界に広範な遺産を伝えている。

 一方、16世紀末、詩人リヌッチーニO. Rinuccini(1562―1621)や作曲家ペーリらは、ギリシア悲劇を、その音楽や舞踊を含めて総体的に復活することを意図して音楽劇を創始した。この固有の様式はモンテベルディを経てゼーノによって確立され、メタスタージオは『見棄(す)てられたディドーネ』(1724)や『ティトゥス帝の慈悲』(1734)などの牧歌的な音楽悲劇(メロドラマ)を開花させた。

 18世紀中葉、コメディア・デラルテはようやく衰運に向かったが、ゴルドーニはその卑俗性と仮面の類型性を脱却しつつ、喜劇に画期的な生命を与えた。『二人の主人を一度にもつと』(1745)、『宿屋の女主人』(1753)など、ベネチアの民衆を活写して市民的なモラルを鼓吹し、市民劇の母体をなした。他方、コメディア・デラルテを擁護してゴルドーニと対立したカルロ・ゴッツィは、仮面と即興性を幻想的な舞台に生かした夢幻劇『三つのオレンジへの恋』(1761)や『トゥランドット』(1762)などによって貴族や保守層の支持を得、またゲーテ、シラーをはじめ、ドイツ・ロマン派からもその先駆として高く評価された。

 スペインの専制支配下に置かれた16世紀後半以降、衰退の一途をたどった悲劇においては、ひとりマッフェイF. S. Maffei(1675―1755)のみが内外の声価を獲得したが、アルフィエーリは『クレオパトラ』(1775)、『サウル』(1782)などによって悲劇の再建を果たした。古典形式を守り、簡潔な詩型を特徴とする彼の作品は、市民的理想と限りない自由への渇望に貫かれ、きたるべきロマンチシズムを予告し、その政治的覚醒(かくせい)は国家統一への歴史的役割を担った。

[赤沢 寛]

19世紀

19世紀初頭、イタリアにおけるナポレオン体制の樹立からその崩壊へと激動する政治的状況を背景として、ロマン主義が醸成された。ペッリコの愛国的な悲劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1815)は初演以来好評を博し、マンゾーニは二つの歴史悲劇『カルマニョーラ伯』(1820)、『アデルキ』(1822)にカトリック的、ラテン的なロマン主義を確立し、内外の反響をよんだ。しかしニッコリーニはナポレオンを描いた初期の『ナブッコ』(1815)以来、徹底した反教権主義にたち、『アルナルド・ブレーシャ』(1838)などの叙事悲劇に時代の状況と国民的意識を明確に打ち出して、自由と独立の気運を醸成した。

 これらの悲劇は国家統一の歴史的悲願と一体化して、国民的叙事詩としての性格を強めたが、国家統一を境として急速に反ロマン的、写実的傾向に移行した。統一達成(1861)後、フランス市民劇の影響下にもっとも長期にわたって幅広く観衆に迎えられたのはフェッラーリP. Ferrari(1822―89)の良識的な風俗喜劇であったが、ベルガは『カバレリア・ルスティカーナ』(1884)に地方的、民衆的な情念と衝撃的な迫真性とをもって典型的なベリズモの舞台を築き、市民劇に新たな展開を促した。自然主義へ作風の転換を試みたジャコーザは『木の葉のごとく』(1900)に、実業家の家庭崩壊を描き、ブッティA. E. Butti(1868―1912)はイプセン風の思想劇に時代への懐疑を示した。また優れた対話による心理劇へ移行したブラッコは国外にも好評を得た。とはいえ、狭隘(きょうあい)な日常性に極限されたブルジョア・リアリズム劇やサロン悲劇からの脱却は、20世紀初頭におけるダンヌンツィオの出現を待たなければならなかった。

[赤沢 寛]

20世紀

『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1901)によって名実ともに舞台の成功をかちえたダンヌンツィオは『イオリオの娘』(1904)『畝(うねび)の下の炎』(1905)など一連の作品に、耽美(たんび)的、ディオニソス的な自我の高揚をかけた古典的な悲劇の再現を図った。豊かな音調性に満ちた彼の舞台は、名女優ドゥーゼを得て、十数年間観衆を魅了し続けた。しかしすでにベネッリは『嘲弄(ちょうろう)の宴(うたげ)』(1909)などでダンヌンツィオ風の英雄像をパロディーと化し、市民的な幻滅を浮き彫りにした。またマリネッティは二次にわたる「未来派宣言」において伝統の破壊と演劇の総体的変革を叫んで、既往の演劇に対して挑戦的なプロパガンダを開始した。

 第一次世界大戦への参戦とともに、キアレッリの『仮面と素顔』(1916)を契機として、アントネッリの『自分に逢(あ)った男』(1918)や、サン・セコンドR. San Secondo(1877―1956)の『情熱の操り人形』(1918)などは個と社会の間の亀裂(きれつ)を明確な意識にとらえて、不確定的な生の状況の悲喜劇性を提示した。さらにピランデッロは、『御意(ぎょい)に任す』(1916)から大戦後の傑作『作者を探す六人の登場人物』(1921)、『エンリコ四世』(1922)に至る一連の作品において、「仮面」と「役割」に化した個の崩壊を通して現実の虚構性を暴露し、単にリアリズム劇の否定にとどまらず、近代劇そのものを相対化する作劇上の変革をもたらし、世界に「ピランデッロ時代」を築き、現代劇に決定的な影響を与えた。

 両大戦間から戦後の解放に至る時代に劇作を続けたベッティは、現代の非情な孤独による情念の葛藤(かっとう)を描いて、『裁判所の腐敗』(1949)、『牝山羊(めやぎ)が島の犯罪』(1950)などの実存的、象徴的リアリズムともよぶべき作風で戦後の世界の注目を浴びた。また喜劇におけるデ・フィリッポは自ら劇団を率い、自作自演の興行を続けたが、とくに『ナポリ百万長者』(1945)や『幽霊』(1946)以降、民衆の苦渋と願望を通して新しいモラルを求め、伝統的なナポリ民衆劇を国民的な叙事詩へと脱皮させ、国外にも声価を獲得した。ファブリD. Fabbri(1911―80)はカトリシズムの世界から現代の個と社会を問い直し、『女たらし』(1951)、『イエス裁判』(1953)などで宗教的存在としての人間を根源的に訴えた。復興から繁栄へと至る1950年代の社会に向けて、戦後のリアリズムを基調とした演劇は急速に告発と風刺の度合いを強めていった。また小説家としてすでに定評あるモラービアやブッツァーティなども、それぞれ実存や不条理を根底に据えた作品によって知られている。

 なお、1947年の創立以来、今日に及ぶミラノ・ピッコロ座の活動は、作家(テキスト)、俳優、観客の緊密なかかわりを現代の舞台として実現する演出家ストレーレルの優れた理念と方法の成果として世界的な評価を獲得している。

[赤沢 寛]

『フィリップ・ヴァン・チーゲム著、戸口幸策他訳『イタリア演劇史』(白水社・文庫クセジュ)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア演劇」の意味・わかりやすい解説

イタリア演劇
イタリアえんげき

中世のイタリアでは受難劇や奇跡劇などの宗教劇が主流を占めていたが,ルネサンス期を迎えると,人々の関心が古典劇に向けられたため,ラテン劇を模倣した多くの喜劇,悲劇を生んだ。しかし 1520年頃から,古典主義に代って大衆的喜劇コメディア・デラルテが登場,16~17世紀に最盛期を迎え,イギリス,フランス,スペインの演劇に大きな影響を与えた。牧歌劇の流行と劇場建築の発達がみられたのもこの時代である。 18世紀のイタリア演劇は,喜劇の C.ゴルドーニと悲劇の V.アルフィエーリによって代表される。ゴルドーニは『宿屋の女将』 (1753) をはじめ約 250編の作品を残した多作家で,コメディア・デラルテを排斥して性格喜劇を確立しようと努力,またアルフィエーリはギリシア,ローマに取材した悲劇のなかで,自由への憧れと専制への怒りを描いて,当時イタリアに台頭しつつあった国家統一の機運を鼓舞した。 19~20世紀に,G.ダンヌンツィオをはじめさまざまな傾向の作家が現れたが,イタリア演劇史に最も重要な地位を占めるのは,人間の内面と外面の二面性や真理の多様性を描いた L.ピランデッロで,『御意にまかす』 (1916) や『作者をさがす6人の登場人物』 (21) などの作品がある。その後,『山羊島の犯罪』 (50) の作者 U.ベッティは人間の孤独や責任を追究して世界的名声を博し,喜劇では E.フィリッポが『ナポリ百万長者』 (45) その他多くの作品を書いた。第2次世界大戦後の作家には,その政治的過激さでむしろ有名なダリオ・フォがいる。演出家としてはピッコロ・テアトロを設立した G.ストレーレルや,映画監督としても有名な L.ビスコンチを輩出している。

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