イワン(読み)いわん(英語表記)Иван Ⅰ/Ivan Ⅰ

デジタル大辞泉 「イワン」の意味・読み・例文・類語

イワン(Ivan)

(1世)[?~1340]キプチャク‐ハン国支配時代のロシアのモスクワ公、ウラジーミル大公。在位1325~1340。ハン国に取り入り、多くの新領土をモスクワ公国に加えた。
(3世)[1440~1505]モスクワ大公。在位1462~1505。ロシア全土をほぼ統一。ロシア法典を編纂し、初めて「ツァーリ」の称号を用いた。イワン大帝。
(4世)[1530~1584]初代ロシア皇帝。在位1533~1584。の孫。君主専制権を強化し、周辺地の征服を宿願とした。外国から学者や技術者を招き、モスクワに初めて印刷所を設けるなど文化的業績も多い。残忍・狂暴なところから、イワン雷帝ともいわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「イワン」の意味・読み・例文・類語

イワン

  1. ( Ivan ) ロシア皇帝の名。
  2. [ 一 ] ( 三世 ) 一四六二年モスクワ大公となり、全ロシアを統一し、初めてツァーリ(皇帝)を呼称。ロシア最初の法典編纂に当たる。在位一四六二‐一五〇五。イワン大帝。(一四四〇‐一五〇五
  3. [ 二 ] ( 四世 ) イワン三世の孫。士族、大商人層の支持のもとに君主の専制権を強化した。在位一五三三‐八四。イワン雷帝。(一五三〇‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イワン」の意味・わかりやすい解説

イワン(4世)
いわん
Иван Ⅳ/Ivan Ⅳ
(1530―1584)

ロシアの大公(在位1533~1584)にしてツァーリ(在位1547~1584)。モスクワ大公ワシリー3世Vasilii Ⅲ(1479―1533、在位1505~1533)の子として生まれ、3歳にして父を、8歳で母を失い、孤児となった。宮廷では大貴族の権力闘争が渦巻き、彼は冷遇された。16歳で即位式をあげると正式にツァーリの称号をとり、登用した士族アダーシェフАлексей Фёдорович Адашев/Aleksey Fyodorovich Adashev(?―1561)を長とする「選抜会議」に拠(よ)って改革に着手した。

 1549年、初めてゼムスキー・ソボール(全国会議)を招集し、法典編纂(へんさん)(1550)をはじめ、中央行政機関の整備、地方行政への自治的要素の導入、軍制の改革に努め、また修道院領を制限するなど教会改革にもあたった。同時に農奴の移転制限などにより、士族への労働力の確保を図った。1560年代に入ると、妻の死、大貴族の反抗寵臣(ちょうしん)クルプスキーАндрей Михайлович Курбский/Andrey Mihaylovich Kurbskiy(1528―1583)侯の逃亡などが原因となって、恐怖政治を敷き、皇帝直轄領とそれに付属する行政、軍隊などの諸制度を特設した「オプリチニナ制」(1565~1572)によって大貴族などを処刑、所領を没収して迫害した。この恐怖政治により、大貴族などの反集権的な封建勢力は大打撃を受けて没落、彼はこのためグローズヌイГрозный/Groznïy(雷帝)とあだ名された。

 対外的には、カザンおよびアストラハンの2ハン国を併合(前者は1552年、後者は1556年)して東方経略の基礎をつくり、その治世中にシベリアまで勢力圏を広めた。他方、バルト海への進出を意図してリボニア騎士団と長期多難なリボニア戦争(1558~1583)を始めたが、騎士団の背後にあったリトワ大公国、ポーランドやスウェーデンの介入を被り、ロシア軍は苦戦した。結局イワンはポーランドおよびリトワ(1582)と、ついでスウェーデン(1583)と和したが、バルト海への進出には失敗した。1584年3月18日、53歳で死去。

 彼は残忍な性格であった(晩年自分長子を口論して打ち殺すようなこともあった)が、高度の政治力をもち、また博識で文才に長じていた。その統治の功罪については歴史家の間に論争がある。

[伊藤幸男 2022年5月20日]

『H・トロワイヤ著、工藤庸子訳『イヴァン雷帝』(1983・中央公論社)』



イワン(3世)
いわん
Иван Ⅲ/Ivan Ⅲ
(1440―1505)

モスクワ大公(在位1462~1505)。「大帝」ともよばれる。ワシリー2世Vasilii Ⅱ(1415―1462、在位1425~1462)の長男として生まれる。治世の間にノブゴロド(1478)をはじめ、ロストフ、ヤロスラブリ、トベリ、チェルニゴフなどの諸公国をあわせて、ロシア国土の統一を成就した。優れた軍略によってタタール・ハン軍をウグラ川河畔に破り、タタールの支配に終止符を打った(1480)。ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪(めい)ソフィアZoe Sophia(1503没)との結婚(1472)を通じてビザンティン的な儀式や君主観を受容し、初めて「ツァーリ」の称号を用い、独立国君主たる権威を示した。士族を登用し、行政機構を整えた。農民の移動を秋の一定時期に限定する条項を含む全国的な法典を編纂(へんさん)した(1497)。

[伊藤幸男 2022年5月20日]


イワン(1世)
いわん
Иван Ⅰ/Ivan Ⅰ
(?―1340)

モスクワ公(在位1325~40)、ウラジーミル大公(在位1328~40)。狡猾(こうかつ)にして賢明な大政治家。キプチャク・ハン国に従順な態度をとり、その援助を利用して大公位を得たのみならず、周辺の領域拡張に努め、府主教座をモスクワに移すなど、モスクワ公国の勢力拡大に成功した。ハン国より委任された徴税権を利用して集めた巨富のゆえに「カリタ」Kalita(金袋の意)とよばれる。

[伊藤幸男]

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百科事典マイペディア 「イワン」の意味・わかりやすい解説

イワン[4世]【イワン】

モスクワ大公,ロシア皇帝(在位1533年―1584年)。1547年に親政を始め,特別議会やオプリチニナ制度で大貴族を圧迫し,帝権の強化を図った。カザンアストラハンを征服し,バルト海への出口を求めて1558年リボニア戦争を起こした。初めてツァーリと自称し,極端な恐怖政治のゆえに〈グローズヌイ(雷帝)〉と称されたとされるが,元来は〈厳格な〉の意味である。最初の妃アナスタシアとの子であるフョードル1世が後を継いだ。
→関連項目ストロガノフ[家]セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群偽ドミトリー[1世]モスクワ大公国リューリク朝ロシア

イワン[3世]【イワン】

モスクワ大公,全ロシアの公(在位1462年―1505年)。モスクワを中心とする国土統一を基本的に達成し,1480年タタールの支配(〈タタールのくびき〉)からも240余年ぶりに最終的に脱却した。ビザンティン帝国最後の皇帝の姪(めい)と結婚し,ツァーリの称号と帝国の紋章を引き継いだ。
→関連項目モスクワモスクワ大公国

イワン[1世]【イワン】

イワン・カリタ

イワン[雷帝]【イワン】

イワン[4世]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イワン」の解説

イワン

イヴァン1世
イヴァン3世
イヴァン4世(雷帝)

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旺文社世界史事典 三訂版 「イワン」の解説

イワン

イヴァン(3世),⇨ イヴァン(4世)

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世界大百科事典(旧版)内のイワンの言及

【リラ修道院】より

…ブルガリアの修道院。ソフィアの南120kmのリラRila山中にあり,創建は10世紀のリラのイワンIvan Rilskiにさかのぼる。14世紀に中興され,皇帝の保護のもとで栄えた。…

【イワン・カリタ】より

…モスクワ公イワン1世の通称。在位1325‐40年。…

【アンナ・イワノブナ】より

…在位1730‐40年。イワン5世(ピョートル1世の異母兄で,1682‐89年は名目上の共同統治者)の娘。1710年クールランド公に嫁してすぐ夫をうしない,ピョートル2世(在位1727‐30)の死後ロシアの帝位についた。…

※「イワン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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