アメリカ合衆国第28代大統領。在職1913-21年。バージニア州で,敬虔な長老派の牧師の子に生まれた。プリンストン大学,バージニア大学で学び,弁護士を開業したが,ほどなく学究生活にもどり,1886年政治学で博士号を得た。女子大学で教職についたのち,90年に母校プリンストンの政治学・法学教授として招かれ,歴史学でも成果をあげ,1902年学長に選ばれた。チューター制の導入,カリキュラム改革などで学長として名声を得たが,大学院設置問題で反対を招き,10年辞任した。同年民主党から推されてニュージャージー州知事に当選,直接予選法,企業規制の強化,労災補償法などめざましい改革成果をあげ,全国的注目をあびた。12年民主党大統領候補となり,独占企業を抑えて人民の自由な機会を回復すると説く〈新しい自由New Freedom〉を掲げ,共和党の分裂に乗じて当選をはたした。大統領として強い指導力を発揮し,関税引下げ,連邦準備法(1913)による銀行制度の改革,クレートン法(1914)と連邦取引委員会法(1914)による独占規制,労働者・農民の保護など世紀初頭からの改革の動きを集大成した。対外的には前大統領タフトの〈ドル外交〉を非難したが,アメリカ自由主義の規範を中南米諸国に押しつけ,メキシコなどへの軍事力を伴う内政干渉にいたった。
第1次世界大戦に際しては中立を宣言し,中立国としての権利を主張しつつ,和平工作を行ったが,合衆国経済は連合国側との結合を深め,他方ドイツの潜水艦戦によって,ルシタニア号沈没(1915年5月)など国民に被害が生じた。16年非参戦のスローガンで再選をはたしたが,17年2月ドイツが無制限潜水艦戦を開始するに及んで,ついに4月〈世界を民主主義のために安全にする〉ための参戦を議会に求めた。参戦後は大規模な動員体制を確立するとともに,18年1月〈14ヵ条The Fouteen Points〉の平和原則を発表し,自由主義的な新国際秩序の建設を呼びかけた。終戦後みずから渡欧してパリ講和会議を指導し,念願の国際連盟規約を成立させた。しかし国内では連盟による国家主権の制約を恐れる声や孤立主義者の反対があり,共和党員の上院外交委員長ロッジHenry C.Lodgeの工作で,上院は連盟規約を含むベルサイユ条約の批准を拒否した。ウィルソンは国民に直接訴えるべく全国遊説を強行して,途中19年9月病に倒れ,連盟加盟の最後の機会として期待した20年の大統領選挙も民主党の大敗に終わって,失意のうちに世を去った。ウィルソンは強い宗教的使命感を抱いてアメリカ自由主義の理想を終始追求し,彼の指導の下で,現代アメリカの体制の出発点をなした革新主義(プログレッシビズム)運動は収穫期を迎え,また合衆国の世界政治への参加は決定的となった。しかしあまりにも強い彼の理想主義と自己の正しさへの確信は,輝かしい成功とともに多くの人々の反発を招いた。彼が最後の夢をかけた国際連盟加盟が失敗に終わった一因も,ロッジとの妥協をあくまで拒んだ彼自身の態度にあった。
執筆者:志邨 晃佑
ニュージーランド生まれの生物学者。1972年よりカリフォルニア大学バークリー校の教授を勤めた。91年,白血病のために56歳で死去。分子生物学の手法を進化学の分野に応用したパイオニア的な研究者として知られている。1960年代,ビンセント・サリッチと共に生化学的な手法を用いて,類人猿とヒトの種間分岐が起こった年代を計算し,ヒトがゴリラやチンパンジーから分岐した年代を500万~400万年前と予測した。しかしこの値は,当時化石の証拠から信じられていた1400万年前という分岐年代とかけ離れていたので,大きな論争となった。1987年には現代人のミトコンドリアDNAの変異から,すべての人類のミトコンドリアDNAは約20万年前のアフリカの女性にたどり着くと発表した。この学説もそれまで定説だった〈多地域進化説〉を否定するものだったので,大きな衝撃を与えることになったが,その後の分子生物学の進展によって,ヒトと類人猿の分岐も,現代人の起源も概ねウィルソンの予測が正しかったことが証明されている。
→ミトコンドリア・イブ仮説
執筆者:篠田 謙一
アメリカの昆虫学者,生態学者。アラバマ州に生まれ,ハーバード大学でアリの研究で博士号を取得,ハーバード大学比較動物学博物館教授になる。一貫してアリ類の行動,生態,地理的分布を研究してきたが,一般理論にも関心が深く,1967年にはマッカーサーR.H.MacArthurと共著で《島の生物地理学説The Theory of Island Biogeography》を執筆し,そのなかで有名な〈種数平衡理論〉および〈r・K淘汰(選択)説〉を提起した。さらに75年には単独で大著《社会生物学Sociobiology:The New Synthesis》を著し,現代遺伝進化学の基礎のうえに人間も含む動物社会の進化理論を打ち立てることを試みた。本書は欧米では生物学者ばかりでなく社会学者,人類学者にも強い影響を与え,ウィルソンの考えで人間社会を解明しようとする潮流も生じた。しかしこれには一部に〈人間社会にみられる差別等を合理化するもの〉との批判もある。他に《人間の本性についてOn Human Nature》《バイオフィリア》《生命の多様性》など多数の著作がある。
執筆者:伊藤 嘉昭
イギリスの小説家。サセックス州のベックスヒルに生まれ,ロンドンのウェストミンスター・スクールを経てオックスフォードのマートン・カレッジで中世・近代史を専攻,1936年優等で卒業。37-55年まで大英博物館に勤務。その間,同性愛を扱った複雑な風俗小説《毒にんじんその後》(1952)でイギリス中産階級の中に潜む悪を描き文壇に登場,《アングロ・サクソン的態度》(1956),《エリオット夫人の中年》(1958),《動物園の老人》(1961),《笑いごとではない》(1967)などの優れた長編を続々発表,66年以降イースト・アングリア大学の英文学教授をつとめるかたわら,イェール,ロンドン,ケンブリッジその他の英米の諸大学で教え,《ゾラ》(1952),《ディケンズ》(1970)などの評論がある。イギリス文壇の大御所的存在で,全英図書連盟会長(1966-69)その他の役職も務めた。国際ペン・クラブ大会(1957)などで2度来日している。作風はイギリス風俗小説の正統的なものであるが,その底に不気味なほど鋭い人間観察を潜めている。
執筆者:鈴木 建三
イギリスの物理学者。1888年にケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに入学,92年学位を得たのちキャベンディシュ研究所でJ.J.トムソンの研究生となる。1925-34年,ケンブリッジのジャクソン教授職。1894年にB.ネビスの気象観測所で見た光環などの美しい光学現象に魅せられて以来,水蒸気が水滴に凝結する問題の研究に取り組み,この実験のために人工的に霧を発生させる装置(霧箱)を作製,X線で霧箱を照射すると水滴は気体中に生じたイオンを核として凝結することを発見(1895-1900),さらに1911年には電離作用をする粒子の飛程を写真に撮影することに成功した。これによって霧箱は宇宙線,原子核の研究に広く用いられるようになり,ウィルソンはその功績により27年ノーベル物理学賞を受賞した。このほか,彼は1901年ころから帯電体からの漏電を調べ,地球外の大気中に非常に透過力の強い放射線の源泉があることを主張,宇宙線の存在を示唆した。
執筆者:登谷 美穂子
アメリカの批評家。ジャーナリズムの第一線で健筆をふるいつづけ,F.S.フィッツジェラルドなど自国の新進作家の推輓にも主導的役割を果たした。法律家の父の周到公平な仕事ぶりを受けつぎ,読みの深さと巨視的な把握を身上として,フロイトやマルクスを援用してもつねに特定の思想を超えて対象の本質に迫る。象徴主義批判の書《アクセルの城》(1931)が逆に象徴主義,ひいては20年代文学の先駆的味解の書たりえたゆえんである。書評を主軸とする《古典と商品文学》(1950),《光の岸辺》(1952),《わが歯間の馬銜(はみ)》(1965)の3巻の文学的年代記,社会主義の起源と歴史を劇的に構成した《フィンランド駅へ》(1940)や南北戦争時代の膨大な秘録を渉猟した警世の証言集《愛国の流血》(1962)などの長編評論,《傷と弓》(1941),《ロシアへの窓》(1972)などの文学論集,そのほか小説,戯曲,旅行記,自伝的散文など,いずれも〈最後の文人〉にふさわしい文体の成熟を誇っている。
執筆者:土岐 恒二
イギリスの画家。モンゴメリーシャーのペネゴイスPenegoes生れ。1729年ロンドンに出て,肖像画家および風景画家として出発。初期には,やや通俗的で感傷性を示す肖像画や,当時イギリスで好まれていた地誌的(トポグラフィカル)な風景画を制作。50-57年ころまでイタリアに滞在し,主としてローマ郊外やカンパニア地方の田園で自然の観察を深める。帰国後は貴族から連作風景画の注文も受け,68年にはローヤル・アカデミー設立会員となる。しかし70年代に入って,図書館司書に任じられ,最晩年は画業をほとんど放棄した。風景画家としての彼は,C.ロランの影響が顕著な整った構図と,17世紀オランダの風景画を思わせる自然の写実的表現とが混然一体となった作風を示し,18世紀末~19世紀前半におけるイギリス風景画黄金時代の端緒を開いた。ラスキンは,ウィルソンによって〈自然への瞑想的な愛に根ざした真の風景画芸術の歴史が,イギリスに始まった〉と述べている。
執筆者:鈴木 杜幾子
イギリスの評論家,小説家。レスターに生まれ,土地の高校ゲートウェー・スクールを卒業後,1949-50年まで空軍に勤務したのち,パリやストラスブールで職を転々とした。51-53年までロンドンで労働者の生活をしながら大英博物館で独学,ブルジョア社会における実存主義者のあり方をその内側から論じた《アウトサイダー》(1956)で一躍文壇に登場。この後《闇の中の祝祭》(1960),《ガラスの檻》(1966)など数多くの小説,スリラー,ミステリー,SFも発表しているが,彼の本領はあくまで《宗教と反抗人》(1957),《敗北の時代》(1959),《アウトサイダーを超えて》(1965)といった哲学的人生論や,《詩と神秘主義》(1970),《オカルト》(1971)といった〈宗教的〉関心を示す評論にあり,ヨーロッパ大陸のペシミスティックな実存主義に対して,生命肯定,人間意識の高揚を求める新実存主義が,その基本的な姿勢となっている。
執筆者:鈴木 建三
アメリカ建国期,ペンシルベニアの政治家。スコットランドのセント・アンドルーズ近在に生まれ,1765年アメリカに移住。ジョン・ディッキンソンの下で法律の訓練を受け,74年にイギリス議会のアメリカ植民地に対する権限を否定するパンフレットを著し,翌年大陸会議代議員に選出されて独立宣言に署名した。ペンシルベニアでは連邦憲法に反対する共和派に参加したが87年の連邦憲法制定会議ではマディソンと並んで憲法案の起草に尽力した。90年にペンシルベニア憲法の改正を導き,発足直後の連邦最高裁判所判事(1789-98)に任命された。フィラデルフィア大学(現,ペンシルベニア大学)教授として行った講義は,建国期の代表的な法律論となっている。
執筆者:五十嵐 武士
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(渡辺融)
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…アメリカの動物学者E.O.ウィルソンが1971年に提唱し,75年に同名の著書で展開した学問体系のこと。従来,別個に進められてきた個体群生態学,集団遺伝学,動物行動学(エソロジー),動物社会の比較研究の成果を統合して,各種の生物がなぜ異なる社会関係(同種個体間の関係)を示すのかという問題を解明し,人間も含む動物社会進化の統一理論を打ち立てようとしたもの。…
…太平洋の熱帯付近の島々を例にとって,そこにすむ鳥の種数をまとめてみると,概して面積の大きい島には小さい島よりも多くの種がすみ,また同時に大陸から近い島には遠い島に比べて種数の多い傾向がみられる。マッカーサーR.H.MacArthur(1930‐72)とE.O.ウィルソンは,移入定着率は島の大きさには関係せず,大陸に近ければ高くなり,消滅率は大陸からの距離には無関係に,小さい島ほど大きくなり,またこの二つは共に,その島にすでにすんでいる種の数に関係すると考えた。そしてこの二つの率が一致する点が実際の種数になるとしたのである。…
…ひとたび大きな戦争が起こり,ヨーロッパの勢力関係に重大な変化が生じる可能性がでてくれば,アメリカは大西洋に隔てられているとはいえ,戦争のなりゆきに無関心ではいられなくなる。第1次大戦に際して,ウィルソンは中立の大国の指導者として交戦国に働きかけ,望ましい形で平和を回復することを試みたが,ドイツが無制限潜水艦戦を開始し,英仏に向かうアメリカ船も攻撃を受けるに及んで,参戦を決意し,国民の大多数もそれを支持した。彼はアメリカの戦争目的について,たんにドイツを破ることではなく,旧来の国際秩序を改革することであると考え,民主的政治体制の奨励,各国民の自決権の尊重,開放的国際経済体制の形成,紛争の平和的解決のための国際組織の結成などを骨子とする新しい国際秩序の構想を表明し,このような国際秩序をつくり維持するためにアメリカが指導的な役割を果たさねばならないという思想,すなわち国際主義を国民に鼓吹した。…
…〈イギリス病〉を克服し,インフレと失業を退治する特効薬として,イギリス人の北海油田の開発によせる期待は大きい。【荒井 政治】
[イギリス病,ポンド衰退,高インフレ--1960年代から70年代]
1964年に政権に復帰した労働党ウィルソン政権は長期的計画に基づく産業の近代化による成長促進,所得政策によるインフレ抑制をめざすが,成果はなく,労使関係の改革にも失敗した。国際収支危機に直面してデフレ政策を取るが,67年にポンド切下げに追い込まれた。…
…南アフリカのスマッツ将軍は,ロシア,トルコなどに属した地域は国際連盟自身または連盟が委任する国家によって統治されるべきであると主張した。アメリカのウィルソン大統領は,適用範囲について,ロシアを除き,ドイツの植民地を加えて,スマッツに同調した。日本,イギリス,フランスなどは,アメリカ参戦前にドイツ植民地を占領したうえ,領土権の分配をも互いに約束していたが,同盟国のこのような動きを阻止したいウィルソンにとって,委任統治は好都合な方法であった。…
…
【アメリカ】
委員会中心主義の典型はアメリカ合衆国である。《議会政治Congressional Government》(1885)を書いたW.ウィルソンはすでに,委員会を〈小立法部〉とよび,下院の指導者は議長ではなく,おもな常任委員会の委員長たちであり,しかも彼らは内閣のような協同体を構成しないから,指導部の多頭性によって下院の組織はきわめて複雑さを呈する,と述べている。アメリカ合衆国の統治構造においては,権力分立を強調する見地から,行政部は立法の勧告や資料の提出をすることができるだけで,法律の発案権が議員だけに属するしくみになっており,きわめて多数で多岐にわたる法案が議会に提出されるために,それらを整理し審議する必要上,委員会制度が発達した,という事情がある。…
…これらの制度改革はいずれもアメリカン・デモクラシーに修正を加え,民主制と官僚制,あるいは民主性と能率性とを接ぎ木しようとするものであったといえる。 このような制度改革に政治学の分野から理論的根拠を与えようとしたのが,W.ウィルソン,F.グッドナウなどであった。彼らは,政治の領域と行政の領域を区別し,現代国家における行政の重要性を強調した。…
…ただし孤立主義の時代にも,ラテン・アメリカに対するアメリカ外交は積極的であったし,東アジアの国際政治にもある程度関与するようになっていた。第1次大戦に際して,アメリカはヨーロッパの戦争に加わり,戦争終結と講和とに重要な役割を果たしたが,孤立主義を恒久的に放棄しようとしたウィルソン大統領の政策は,結局議会の承認を得られず,アメリカは国際連盟に参加しなかった。1930年代の国際政治の混乱はアメリカ人の孤立主義の感情を強め,それは35年以降,一連の中立法に具体化された。…
…大戦勃発の当初は,日本も中国も局外中立を宣言していたが,ドイツ権益奪取をもくろむ日本の大隈内閣(外相加藤高明)は,イギリス,フランス,ロシアからの協力要請に乗じて,まもなく対独参戦にふみきった。中国の袁世凱政府は,中立維持のため対米接近を試みたが,ウィルソン政府が積極的な姿勢を示さなかったので,日本の圧力の前に,中立除外区域を設定せざるをえなかった。青島のドイツ軍攻撃を名目に山東半島に上陸した日本軍は,中国との約束を破って中立除外区域外にまで進軍し,ついに山東鉄道沿線一帯を軍事占領するとともに,現地住民を虐待した。…
…次のタフト大統領(在職1909‐13)は革新政治家としての個性は比較的弱いが,その在任中には,19世紀後半以来改革運動の懸案であった連邦所得税と上院議員の直接選挙を定めた憲法第16,17修正(ともに1913発効)が成立している。個人の機会保持と自由競争に重点を置く〈ニューフリーダム〉の構想を掲げて登場したウィルソン大統領(在職1913‐21)は,熱心に不正な企業活動を取り締まり,関税を引き下げ,銀行通貨制度の根本的な改革を行い,農民に低利の長期信用を与え,労働条件を改善するための連邦法をつぎつぎに世に送り出した。婦人参政権の憲法第19修正案も1920年に発効成立した。…
※「ウィルソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...