ウィルソン(英語表記)Thomas Woodrow Wilson

デジタル大辞泉 「ウィルソン」の意味・読み・例文・類語

ウィルソン(Charles Thomson Rees Wilson)

[1869~1959]英国の物理学者。ウィルソンの霧箱を発明し、イオン飛跡の撮影に成功。1927年、ノーベル物理学賞受賞。

ウィルソン(Horace Wilson)

[1843~1927]米国の教育者。英語・数学の教師として来日、第一大学区第一番中学(のちの東京大学)の生徒に野球を教えたことが日本野球の始まりといわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「ウィルソン」の意味・読み・例文・類語

ウィルソン

  1. [ 一 ] ( Woodrow Wilson ウッドロー━ ) アメリカの第二八代大統領(在職一九一三‐二一)。民主党員。「デモクラシーのための戦い」を主張して、第一次世界大戦では対独宣戦を布告。戦後ベルサイユ会議を指導し、国際連盟の組織などを提唱した。(一八五六‐一九二四
  2. [ 二 ] ( Charles Thomson Rees Wilson チャールズ=トムソン=リーズ━ ) イギリスの物理学者。一九一一年ウィルソンの霧箱を発表し、宇宙線、原子核の研究に大きく貢献。一九二七年ノーベル物理学賞を受賞。(一八六九‐一九五九

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン
Thomas Woodrow Wilson
生没年:1856-1924

アメリカ合衆国第28代大統領。在職1913-21年。バージニア州で,敬虔な長老派の牧師の子に生まれた。プリンストン大学バージニア大学で学び,弁護士を開業したが,ほどなく学究生活にもどり,1886年政治学で博士号を得た。女子大学で教職についたのち,90年に母校プリンストンの政治学・法学教授として招かれ,歴史学でも成果をあげ,1902年学長に選ばれた。チューター制の導入,カリキュラム改革などで学長として名声を得たが,大学院設置問題で反対を招き,10年辞任した。同年民主党から推されてニュージャージー州知事に当選,直接予選法,企業規制の強化,労災補償法などめざましい改革成果をあげ,全国的注目をあびた。12年民主党大統領候補となり,独占企業を抑えて人民の自由な機会を回復すると説く〈新しい自由New Freedom〉を掲げ,共和党の分裂に乗じて当選をはたした。大統領として強い指導力を発揮し,関税引下げ,連邦準備法(1913)による銀行制度の改革,クレートン法(1914)と連邦取引委員会法(1914)による独占規制,労働者・農民の保護など世紀初頭からの改革の動きを集大成した。対外的には前大統領タフトの〈ドル外交〉を非難したが,アメリカ自由主義の規範を中南米諸国に押しつけ,メキシコなどへの軍事力を伴う内政干渉にいたった。

 第1次世界大戦に際しては中立を宣言し,中立国としての権利を主張しつつ,和平工作を行ったが,合衆国経済は連合国側との結合を深め,他方ドイツの潜水艦戦によって,ルシタニア号沈没(1915年5月)など国民に被害が生じた。16年非参戦のスローガンで再選をはたしたが,17年2月ドイツが無制限潜水艦戦を開始するに及んで,ついに4月〈世界を民主主義のために安全にする〉ための参戦を議会に求めた。参戦後は大規模な動員体制を確立するとともに,18年1月〈14ヵ条The Fouteen Points〉の平和原則を発表し,自由主義的な新国際秩序の建設を呼びかけた。終戦後みずから渡欧してパリ講和会議を指導し,念願の国際連盟規約を成立させた。しかし国内では連盟による国家主権の制約を恐れる声や孤立主義者の反対があり,共和党員の上院外交委員長ロッジHenry C.Lodgeの工作で,上院は連盟規約を含むベルサイユ条約の批准を拒否した。ウィルソンは国民に直接訴えるべく全国遊説を強行して,途中19年9月病に倒れ,連盟加盟の最後の機会として期待した20年の大統領選挙も民主党の大敗に終わって,失意のうちに世を去った。ウィルソンは強い宗教的使命感を抱いてアメリカ自由主義の理想を終始追求し,彼の指導の下で,現代アメリカの体制の出発点をなした革新主義(プログレッシビズム)運動は収穫期を迎え,また合衆国の世界政治への参加は決定的となった。しかしあまりにも強い彼の理想主義と自己の正しさへの確信は,輝かしい成功とともに多くの人々の反発を招いた。彼が最後の夢をかけた国際連盟加盟が失敗に終わった一因も,ロッジとの妥協をあくまで拒んだ彼自身の態度にあった。
執筆者:


ウィルソン
Allan Charles Wilson
生没年:1934-91

ニュージーランド生まれの生物学者。1972年よりカリフォルニア大学バークリー校の教授を勤めた。91年,白血病のために56歳で死去。分子生物学の手法を進化学の分野に応用したパイオニア的な研究者として知られている。1960年代,ビンセント・サリッチと共に生化学的な手法を用いて,類人猿とヒトの種間分岐が起こった年代を計算し,ヒトがゴリラやチンパンジーから分岐した年代を500万~400万年前と予測した。しかしこの値は,当時化石の証拠から信じられていた1400万年前という分岐年代とかけ離れていたので,大きな論争となった。1987年には現代人のミトコンドリアDNAの変異から,すべての人類のミトコンドリアDNAは約20万年前のアフリカの女性にたどり着くと発表した。この学説もそれまで定説だった〈多地域進化説〉を否定するものだったので,大きな衝撃を与えることになったが,その後の分子生物学の進展によって,ヒトと類人猿の分岐も,現代人の起源も概ねウィルソンの予測が正しかったことが証明されている。
ミトコンドリア・イブ仮説
執筆者:


ウィルソン
Edward Osborne Wilson
生没年:1929-

アメリカの昆虫学者,生態学者。アラバマ州に生まれ,ハーバード大学でアリの研究で博士号を取得,ハーバード大学比較動物学博物館教授になる。一貫してアリ類の行動,生態,地理的分布を研究してきたが,一般理論にも関心が深く,1967年にはマッカーサーR.H.MacArthurと共著で《島の生物地理学説The Theory of Island Biogeography》を執筆し,そのなかで有名な〈種数平衡理論〉および〈r・K淘汰(選択)説〉を提起した。さらに75年には単独で大著《社会生物学Sociobiology:The New Synthesis》を著し,現代遺伝進化学の基礎のうえに人間も含む動物社会の進化理論を打ち立てることを試みた。本書は欧米では生物学者ばかりでなく社会学者,人類学者にも強い影響を与え,ウィルソンの考えで人間社会を解明しようとする潮流も生じた。しかしこれには一部に〈人間社会にみられる差別等を合理化するもの〉との批判もある。他に《人間の本性についてOn Human Nature》《バイオフィリア》《生命の多様性》など多数の著作がある。
執筆者:


ウィルソン
Angus(Frank Johnstone)Wilson
生没年:1913-91

イギリスの小説家。サセックス州のベックスヒルに生まれ,ロンドンのウェストミンスター・スクールを経てオックスフォードのマートン・カレッジで中世・近代史を専攻,1936年優等で卒業。37-55年まで大英博物館に勤務。その間,同性愛を扱った複雑な風俗小説《毒にんじんその後》(1952)でイギリス中産階級の中に潜む悪を描き文壇に登場,《アングロ・サクソン的態度》(1956),《エリオット夫人の中年》(1958),《動物園の老人》(1961),《笑いごとではない》(1967)などの優れた長編を続々発表,66年以降イースト・アングリア大学の英文学教授をつとめるかたわら,イェール,ロンドン,ケンブリッジその他の英米の諸大学で教え,《ゾラ》(1952),《ディケンズ》(1970)などの評論がある。イギリス文壇の大御所的存在で,全英図書連盟会長(1966-69)その他の役職も務めた。国際ペン・クラブ大会(1957)などで2度来日している。作風はイギリス風俗小説の正統的なものであるが,その底に不気味なほど鋭い人間観察を潜めている。
執筆者:


ウィルソン
Charles Thomson Rees Wilson
生没年:1869-1959

イギリスの物理学者。1888年にケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに入学,92年学位を得たのちキャベンディシュ研究所でJ.J.トムソンの研究生となる。1925-34年,ケンブリッジのジャクソン教授職。1894年にB.ネビスの気象観測所で見た光環などの美しい光学現象に魅せられて以来,水蒸気が水滴に凝結する問題の研究に取り組み,この実験のために人工的に霧を発生させる装置(霧箱)を作製,X線で霧箱を照射すると水滴は気体中に生じたイオンを核として凝結することを発見(1895-1900),さらに1911年には電離作用をする粒子の飛程を写真に撮影することに成功した。これによって霧箱は宇宙線,原子核の研究に広く用いられるようになり,ウィルソンはその功績により27年ノーベル物理学賞を受賞した。このほか,彼は1901年ころから帯電体からの漏電を調べ,地球外の大気中に非常に透過力の強い放射線の源泉があることを主張,宇宙線の存在を示唆した。
執筆者:


ウィルソン
Edmund Wilson
生没年:1895-1972

アメリカの批評家。ジャーナリズムの第一線で健筆をふるいつづけ,F.S.フィッツジェラルドなど自国の新進作家の推輓にも主導的役割を果たした。法律家の父の周到公平な仕事ぶりを受けつぎ,読みの深さと巨視的な把握を身上として,フロイトやマルクスを援用してもつねに特定の思想を超えて対象の本質に迫る。象徴主義批判の書《アクセルの城》(1931)が逆に象徴主義,ひいては20年代文学の先駆的味解の書たりえたゆえんである。書評を主軸とする《古典と商品文学》(1950),《光の岸辺》(1952),《わが歯間の馬銜(はみ)》(1965)の3巻の文学的年代記,社会主義の起源と歴史を劇的に構成した《フィンランド駅へ》(1940)や南北戦争時代の膨大な秘録を渉猟した警世の証言集《愛国の流血》(1962)などの長編評論,《傷と弓》(1941),《ロシアへの窓》(1972)などの文学論集,そのほか小説,戯曲,旅行記,自伝的散文など,いずれも〈最後の文人〉にふさわしい文体の成熟を誇っている。
執筆者:


ウィルソン
Richard Wilson
生没年:1714-82

イギリスの画家。モンゴメリーシャーのペネゴイスPenegoes生れ。1729年ロンドンに出て,肖像画家および風景画家として出発。初期には,やや通俗的で感傷性を示す肖像画や,当時イギリスで好まれていた地誌的(トポグラフィカル)な風景画を制作。50-57年ころまでイタリアに滞在し,主としてローマ郊外やカンパニア地方の田園で自然の観察を深める。帰国後は貴族から連作風景画の注文も受け,68年にはローヤル・アカデミー設立会員となる。しかし70年代に入って,図書館司書に任じられ,最晩年は画業をほとんど放棄した。風景画家としての彼は,C.ロランの影響が顕著な整った構図と,17世紀オランダの風景画を思わせる自然の写実的表現とが混然一体となった作風を示し,18世紀末~19世紀前半におけるイギリス風景画黄金時代の端緒を開いた。ラスキンは,ウィルソンによって〈自然への瞑想的な愛に根ざした真の風景画芸術の歴史が,イギリスに始まった〉と述べている。
執筆者:


ウィルソン
Colin Henry Wilson
生没年:1931-

イギリスの評論家,小説家。レスターに生まれ,土地の高校ゲートウェー・スクールを卒業後,1949-50年まで空軍に勤務したのち,パリやストラスブールで職を転々とした。51-53年までロンドンで労働者の生活をしながら大英博物館で独学,ブルジョア社会における実存主義者のあり方をその内側から論じた《アウトサイダー》(1956)で一躍文壇に登場。この後《闇の中の祝祭》(1960),《ガラスの檻》(1966)など数多くの小説,スリラー,ミステリー,SFも発表しているが,彼の本領はあくまで《宗教と反抗人》(1957),《敗北の時代》(1959),《アウトサイダーを超えて》(1965)といった哲学的人生論や,《詩と神秘主義》(1970),《オカルト》(1971)といった〈宗教的〉関心を示す評論にあり,ヨーロッパ大陸のペシミスティックな実存主義に対して,生命肯定,人間意識の高揚を求める新実存主義が,その基本的な姿勢となっている。
執筆者:


ウィルソン
James Wilson
生没年:1742-98

アメリカ建国期,ペンシルベニアの政治家。スコットランドのセント・アンドルーズ近在に生まれ,1765年アメリカに移住。ジョン・ディッキンソンの下で法律の訓練を受け,74年にイギリス議会のアメリカ植民地に対する権限を否定するパンフレットを著し,翌年大陸会議代議員に選出されて独立宣言に署名した。ペンシルベニアでは連邦憲法に反対する共和派に参加したが87年の連邦憲法制定会議ではマディソンと並んで憲法案の起草に尽力した。90年にペンシルベニア憲法の改正を導き,発足直後の連邦最高裁判所判事(1789-98)に任命された。フィラデルフィア大学(現,ペンシルベニア大学)教授として行った講義は,建国期の代表的な法律論となっている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン

米国の政治家,政治学者,第28代大統領(1913年―1921年)。民主党。母校プリンストン大学学長(1902年―1910年),ニュージャージー州知事(1910年―1913年)を歴任後,〈新しい自由New Freedom〉を掲げて大統領となる。関税引下げ,連邦準備制度創設,独占禁止法の改定など懸案の諸改革を実現。第1次大戦に際しては,初め厳正中立政策をとっていたが,1917年参戦に踏み切った。十四ヵ条平和原則を発表するなど国際的指導力を発揮し,ベルサイユ会議の立役者となり,国際連盟の創立に尽力した。1919年ノーベル平和賞。
→関連項目第1次世界大戦パリ平和会議パワー・ポリティクス民主党(米国)民族自決

ウィルソン

米国の批評家,小説家。新聞・雑誌の記者も務めた。プリンストン大学でフィッツジェラルドと同窓,〈ロスト・ジェネレーション〉に対し理解を示すとともに明敏な批評を展開した。象徴主義文学をとおして現代文学の本質を究明した評論《アクセルの城》(1931年)は有名。そのほか《フィンランド駅へ》(1940年)《傷と弓》(1941年)など。
→関連項目マッカーシー

ウィルソン

英国の批評家,小説家。近代の文学と哲学を大胆に論じた《アウトサイダー》(1956年)で一躍世界的名声を得た。次いで《宗教と反逆者》(1957年),《敗北の時代》(1959年),《アウトサイダーを越えて》《オカルト》(1971年),小説《闇の祝祭》(1960年)など多作である。アングリー・ヤング・メンの一人。
→関連項目アウトサイダー

ウィルソン

英国の政治家。1945年以来労働党下院議員。経済問題に通じ海外貿易相,商相を歴任。1950年再軍備問題で右派と対立。1961年外相,1963年労働党党首となり,1964年―1970年,1974年―1976年首相を務めた。
→関連項目キャラハン

ウィルソン

米国の昆虫学者,社会生物学者。ハーバード大学教授。社会性昆虫の生態研究を通じて,社会生物学に到達。膨大な資料を駆使した大著《社会生物学》(1975年)でその主張を展開し,世界の思想界に大きな論争を巻き起こした。そのほか《昆虫の社会》(1971年)《人間の本性について》(1978年)《バイオフィリア》(1984年)など多数の著作がある。

ウィルソン

米国の物理学者。ハーバード大学,カリフォルニア工科大学で学び,1963年コーネル大学助教授。1971年相転移に関連した臨界現象を一般的に説明する方法を発表。1982年ノーベル物理学賞。

ウィルソン

英国の小説家。大英博物館に勤めながら短編集《悪い仲間》(1949年)を発表,以後長編《毒薬とその後》(1952年),《アングロサクソンの姿勢》(1956年)でイギリス小説の伝統を継ぐ一流作家の地位を築いた。ほかに《エリオット夫人の中年期》《動物園の老人たち》等。

ウィルソン

英国の物理学者。ケンブリッジ大学卒,1925年―1934年教授。1897年ごろから霧の発生について研究,1911年霧箱を発表。1927年ノーベル物理学賞。

ウィルソン

フランスの俳優。国立民衆劇場の舞台俳優として認められ,1950年代から映画にも出演する。アリダ・ヴァリと共演したアンリ・コルピ監督の《かくも長き不在》(1961年カンヌ国際映画祭パルムドール)で記憶喪失の浮浪者を演じた名演技で有名。

ウィルソン

米国の天文学者。1963年ベル電話研究所員。衛星通信を研究中の1965年,宇宙背景放射(3K放射)を発見,1978年ノーベル物理学賞受賞。

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朝日日本歴史人物事典 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

没年:1927.3.4(1927.3.4)
生年:1843.2.10
明治期に来日したお雇い外国人。アメリカ人教師。メーン州ゴーハム生まれ。明治4(1871)年8月12日から同10年7月10日まで滞日し,大学南校,第一大学区第一番中学校,東京開成学校,東京大学で英語,数学などを教える。一番中学時代(1872~73)に野球を教え,日本に初めて野球を伝えた人とされる。同9年彼を含む京浜在住外国人と開成学校生徒チームが野球試合をしている。目下最古の日米対抗試合記録である。同年ペンシルベニアカレッジから名誉修士の称号を受ける。帰国後サンフランシスコに住み,メカニックス・インスティテュートの司書,理事などを務め,同市で死去。<参考文献>野球体育博物館『ベースボールニュース』(2巻5号,3巻4号)

(渡辺融)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ウィルソン」の解説

ウィルソン Wilson, Horace E.

1843-1927 アメリカの教師。
1843年2月10日生まれ。明治4年(1871)来日。大学南校,東京開成学校,東京大学で英語や数学をおしえる。5年日本にはじめて野球をつたえたという。10年帰国。2003年(平成15)新世紀特別表彰で野球殿堂入りとなる。1927年3月4日死去。84歳。メーン州出身。

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デジタル大辞泉プラス 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

1944年製作のアメリカ映画。原題《Wilson》。第28代合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの伝記映画。監督:ヘンリー・キング、出演:アレクサンダー・ノックス、チャールズ・コバーン、ジェラルディン・フィッツジェラルドほか。第17回米国アカデミー賞作品賞ノミネート。同脚本賞、室内装置賞(カラー)、撮影賞(同)、編集賞、録音賞受賞。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ウィルソン」の解説

ウィルソン
Woodrow Wilson

1856〜1924
アメリカ第28代大統領(在職1913〜21)
第一次世界大戦の終盤に14カ条を発表して戦争処理の理念と方法を提唱。国際連盟の設立に貢献したが,提唱国のアメリカは上院議会の反対で連盟に参加せず,失意のうちに死んだ。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

生年月日:1786年9月26日
イギリスの東洋学者,インド学者
1860年没

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世界大百科事典(旧版)内のウィルソンの言及

【社会生物学】より

…アメリカの動物学者E.O.ウィルソンが1971年に提唱し,75年に同名の著書で展開した学問体系のこと。従来,別個に進められてきた個体群生態学,集団遺伝学,動物行動学(エソロジー),動物社会の比較研究の成果を統合して,各種の生物がなぜ異なる社会関係(同種個体間の関係)を示すのかという問題を解明し,人間も含む動物社会進化の統一理論を打ち立てようとしたもの。…

【生物群集】より

…太平洋の熱帯付近の島々を例にとって,そこにすむ鳥の種数をまとめてみると,概して面積の大きい島には小さい島よりも多くの種がすみ,また同時に大陸から近い島には遠い島に比べて種数の多い傾向がみられる。マッカーサーR.H.MacArthur(1930‐72)とE.O.ウィルソンは,移入定着率は島の大きさには関係せず,大陸に近ければ高くなり,消滅率は大陸からの距離には無関係に,小さい島ほど大きくなり,またこの二つは共に,その島にすでにすんでいる種の数に関係すると考えた。そしてこの二つの率が一致する点が実際の種数になるとしたのである。…

【アメリカ合衆国】より

…ひとたび大きな戦争が起こり,ヨーロッパの勢力関係に重大な変化が生じる可能性がでてくれば,アメリカは大西洋に隔てられているとはいえ,戦争のなりゆきに無関心ではいられなくなる。第1次大戦に際して,ウィルソンは中立の大国の指導者として交戦国に働きかけ,望ましい形で平和を回復することを試みたが,ドイツが無制限潜水艦戦を開始し,英仏に向かうアメリカ船も攻撃を受けるに及んで,参戦を決意し,国民の大多数もそれを支持した。彼はアメリカの戦争目的について,たんにドイツを破ることではなく,旧来の国際秩序を改革することであると考え,民主的政治体制の奨励,各国民の自決権の尊重,開放的国際経済体制の形成,紛争の平和的解決のための国際組織の結成などを骨子とする新しい国際秩序の構想を表明し,このような国際秩序をつくり維持するためにアメリカが指導的な役割を果たさねばならないという思想,すなわち国際主義を国民に鼓吹した。…

【イギリス】より

…〈イギリス病〉を克服し,インフレと失業を退治する特効薬として,イギリス人の北海油田の開発によせる期待は大きい。【荒井 政治】
[イギリス病,ポンド衰退,高インフレ--1960年代から70年代]
 1964年に政権に復帰した労働党ウィルソン政権は長期的計画に基づく産業の近代化による成長促進,所得政策によるインフレ抑制をめざすが,成果はなく,労使関係の改革にも失敗した。国際収支危機に直面してデフレ政策を取るが,67年にポンド切下げに追い込まれた。…

【委任統治】より

…南アフリカのスマッツ将軍は,ロシア,トルコなどに属した地域は国際連盟自身または連盟が委任する国家によって統治されるべきであると主張した。アメリカのウィルソン大統領は,適用範囲について,ロシアを除き,ドイツの植民地を加えて,スマッツに同調した。日本,イギリス,フランスなどは,アメリカ参戦前にドイツ植民地を占領したうえ,領土権の分配をも互いに約束していたが,同盟国のこのような動きを阻止したいウィルソンにとって,委任統治は好都合な方法であった。…

【議会委員会制】より


【アメリカ】
 委員会中心主義の典型はアメリカ合衆国である。《議会政治Congressional Government》(1885)を書いたW.ウィルソンはすでに,委員会を〈小立法部〉とよび,下院の指導者は議長ではなく,おもな常任委員会の委員長たちであり,しかも彼らは内閣のような協同体を構成しないから,指導部の多頭性によって下院の組織はきわめて複雑さを呈する,と述べている。アメリカ合衆国の統治構造においては,権力分立を強調する見地から,行政部は立法の勧告や資料の提出をすることができるだけで,法律の発案権が議員だけに属するしくみになっており,きわめて多数で多岐にわたる法案が議会に提出されるために,それらを整理し審議する必要上,委員会制度が発達した,という事情がある。…

【行政学】より

…これらの制度改革はいずれもアメリカン・デモクラシーに修正を加え,民主制と官僚制,あるいは民主性と能率性とを接ぎ木しようとするものであったといえる。 このような制度改革に政治学の分野から理論的根拠を与えようとしたのが,W.ウィルソンF.グッドナウなどであった。彼らは,政治の領域と行政の領域を区別し,現代国家における行政の重要性を強調した。…

【孤立主義】より

…ただし孤立主義の時代にも,ラテン・アメリカに対するアメリカ外交は積極的であったし,東アジアの国際政治にもある程度関与するようになっていた。第1次大戦に際して,アメリカはヨーロッパの戦争に加わり,戦争終結と講和とに重要な役割を果たしたが,孤立主義を恒久的に放棄しようとしたウィルソン大統領の政策は,結局議会の承認を得られず,アメリカは国際連盟に参加しなかった。1930年代の国際政治の混乱はアメリカ人の孤立主義の感情を強め,それは35年以降,一連の中立法に具体化された。…

【山東問題】より

…大戦勃発の当初は,日本も中国も局外中立を宣言していたが,ドイツ権益奪取をもくろむ日本の大隈内閣(外相加藤高明)は,イギリス,フランス,ロシアからの協力要請に乗じて,まもなく対独参戦にふみきった。中国の袁世凱政府は,中立維持のため対米接近を試みたが,ウィルソン政府が積極的な姿勢を示さなかったので,日本の圧力の前に,中立除外区域を設定せざるをえなかった。青島のドイツ軍攻撃を名目に山東半島に上陸した日本軍は,中国との約束を破って中立除外区域外にまで進軍し,ついに山東鉄道沿線一帯を軍事占領するとともに,現地住民を虐待した。…

【プログレッシビズム】より

…次のタフト大統領(在職1909‐13)は革新政治家としての個性は比較的弱いが,その在任中には,19世紀後半以来改革運動の懸案であった連邦所得税と上院議員の直接選挙を定めた憲法第16,17修正(ともに1913発効)が成立している。個人の機会保持と自由競争に重点を置く〈ニューフリーダム〉の構想を掲げて登場したウィルソン大統領(在職1913‐21)は,熱心に不正な企業活動を取り締まり,関税を引き下げ,銀行通貨制度の根本的な改革を行い,農民に低利の長期信用を与え,労働条件を改善するための連邦法をつぎつぎに世に送り出した。婦人参政権の憲法第19修正案も1920年に発効成立した。…

※「ウィルソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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