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エジプト美術 エジプトびじゅつ Egyptian art

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

エジプト美術
エジプトびじゅつ
Egyptian art

エジプトの美術はほとんど完全に王を中心とする宮廷人と祭職者の美術であるため,発展段階は王国の政治的歴史と密接な関係をもつ。旧新石器時代 (前 4500以前) の遺品もあるが,宗教美術としての固有の特徴をもちはじめるのは前 4000年頃の先王朝時代からで,この時代には祖先の神々を動物の形に表現している。

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世界大百科事典 第2版の解説

エジプトびじゅつ【エジプト美術】

広義には,先史時代から現代に至る,エジプトおよびその影響下にあった地域の美術活動を総称するが,一般には,王朝時代を中心とする古代エジプト美術を指す。王朝の終末以後の美術については,コプト美術イスラム美術などの一環として考察される場合が多い。本稿の記述も,王朝時代を中心とする。 エジプト美術は,古代エジプト人の,きわめて特色のある世界観,宗教観から生まれた。この世界観,宗教観を育てたものは,おそらく,その特異な自然環境,風土であろう。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

エジプト美術
えじぷとびじゅつ

古代エジプト王国はナイル川に沿って上(南)エジプトと下(北)エジプトという対照的な二つの土地の統合のうえに成り立っていた。これを支配する唯一絶対の王は「上エジプトの王、下エジプトの王」と称し、パピルススイレンそれぞれの地域を表した。こうした二元的観念は造形芸術の基本的性格に強い影響を与えた。また天体や自然の営みのなかに神を認め、無数の霊魂の存在を信じ、神と人間との交流の媒介者が神の子ファラオ(王)であった。彼らは永遠の生命と死者の復活を信じて死者を手厚く葬ったが、この概念は、イクナートン王の宗教改革一時期を除いて、本質的な変化はなかった。したがって美術様式も数千年にわたる長い期間に微々たる変化しか認められない。
 第1王朝以前、ナイル河畔に定着して農耕を行うようになった先王朝時代では、デル・タサ、エル・バダリ、ゲルゼーなどの遺跡から彩色土器が発見されている。第1王朝から第31王朝まで(前3000ころ~前332)の王朝時代には、壮大な墳墓や神殿、彫刻、絵画、工芸を生んだ。[友部 直]

建築――墳墓と神殿

エジプト人は死者の復活を信じ、死者のための永遠の家として、頑丈な墓を築いた。王朝成立期、マスタバ(アラビア語で腰掛の意)とよばれる王や貴族の墓がつくられた。長方形の基盤の上に日干しれんがを台状に積み重ね、地下に竪穴(たてあな)を掘り、それに接して遺体を安置する玄室と付属室をつくり、壁には死者の姿を浮彫りで刻んだ。マスタバは、のちに王の側近の墓として多くつくられた。
 第1王朝から第6王朝まで(前3000ころ~前2263ころ)の古王国時代には壮大なピラミッドが次々と建設された。第3王朝のジョセル王の宰相で建築家のイムホテプは、石材とモルタルを使って、王のために6段の階段式ピラミッドを築いた。ジョセル王に続く第4王朝には、正四角錐(すい)のいわゆるピラミッド型の墳墓が完成した。カイロ近郊のギゼーの台地には、北からクフ、カフラ、メンカウラの各王のピラミッドがある。最大のクフ王のものは、高さが146メートル、平均2.5メートルの石が230万個積み上げられたと推定され、各稜線(りょうせん)は東西南北をさし、王の玄室は石積みの塊体のほぼ中央にある。ピラミッドには礼拝所、参道、ナイル川岸の河谷神殿が付属してつくられ、ピラミッド周辺には王族や貴族のマスタバ墓がつくられた。第5王朝には太陽神ラーの信仰が強まり、日の出の象徴としてオベリスクが建てられた。これらの巨大な石造建築を可能にしたのは、エジプト各地から豊富に産出する石材であった。
 テーベの統治者によって南北エジプトが統一された第11王朝と第12王朝(前2160ころ~前1785ころ)、すなわち中王国時代になると、ピラミッドの規模は著しく小さくなり、日干しれんがでつくられたために残存するものは少ない。テーベのデル・エル・バハリにある第11王朝のメントゥホテプ王の葬祭殿は、二重の基壇の上に小型のピラミッドをのせ、古代理想への復帰を示している。この時代、貴族や高官の墓は王のピラミッド周辺にはつくられず、出身地の近くに埋葬された。北部ではマスタバ形式を踏襲し、南部では墓の中腹に横穴式に掘る岩窟(がんくつ)墓が盛んにつくられた。ベニ・ハッサンの華麗な岩窟墓やアスワンにその例をみることができる。
 第12王朝以後王朝は衰微し、紀元前1580年ころに統一王朝として第18王朝が始まる。これより第20王朝までの約500年間に及ぶ新王国時代ころになると、王の墳墓としてのピラミッドはもう築かれなくなる。一見して王の墓とわかるピラミッドは、豪華な副葬品目当ての墓泥棒にねらわれ、余すところなく略奪された。第18王朝のトゥトメス1世からは、王のミイラはナイル西岸の「王家の谷」に入口を隠して埋葬され、はるか離れた場所に葬祭殿が建てられた。
 王墓の形式は、入口から長い通廊が延び、途中深い落し穴があり、角柱のある部屋、前室、玄室と続く。玄室にはミイラを納めた石棺が置かれ、別に内臓を納めたカノピス容器や副葬品のための小室があった。入口は慎重に秘匿されたにもかかわらず、王家の谷の王墓はすべて暴かれ、ツタンカーメンの王墓だけが略奪を免れて、1922年ハワード・カーターによって発見された。王たちのミイラだけは神官たちの手によって安全な場所に移され、19世紀末に発見されるまで安息の眠りにつくことができた。
 神への祭祀(さいし)と死せるファラオへの供養を目的とした葬祭殿は、王家の谷からはるか離れて、ナイル川に面した砂漠の台地の裾(すそ)や平地に建てられた。葬祭殿は塔門、中庭、柱廊玄関、列柱室、内陣、倉庫を備え、典型的な新王国神殿の形式を踏んでいる。この形式のものとしてマディーナト・ハブのラムセス3世の葬祭殿がある。特異な葬祭殿として第18王朝のハトシェプスト女王のデル・エル・バハリの葬祭殿があげられる。傾斜路で結ばれた3段のテラスからなり、下段テラスは前庭で、中庭テラスの前面に柱廊を配し、上段テラスの奥にアモン神を祀(まつ)る。
 神殿は中王国時代のものはほとんど残らず、現存する遺跡は新王国時代および末期のものが大部分である。典型的な神殿プランはテーベのカルナックのコンス神殿にみられる。前面にオベリスクを立てた塔門(ピュロン)があり、中庭を入ると左右に列柱があり玄関となる。玄関の先はふたたび列柱室となり、その奥は神官と王しか入ることを許されない。特定の祝祭日に月の神コンスの神像を乗せて運ぶ聖舟を安置する部屋があり、奥壁に接して神像を祀る至聖所と三つの部屋が並んでいる。カルナック神殿群の中心をなすアモン大神殿や、ルクソール神殿は、規模も大きく複雑だが、根本の要素はコンス神殿と同じである。ルクソール神殿で注目されるのは、アメンヘテプ3世が立てた未開花のパピルスと開花のパピルスの柱である。高さ16メートルの巨大な円柱列は、柱廊の側壁にツタンカーメン王が刻ませたオペト祭の精密な薄浮彫りとともに、神殿中の白眉(はくび)となっている。エジプト建築の一つの特徴ともいえる列柱には角柱と円柱がある。方形の柱には、女神ハトホルの頭部を浮彫りで柱頭部につけたものや、屍衣(しい)をまとった王の像の柱があり、円柱には8、16などの面をとったプロト・ドリス柱、各種の植物をモチーフにしたものがある。第19王朝のラムセス2世はルクソールの第2塔門前に2本のオベリスクと6体の巨像を置いた。オベリスクのうちの1本はフランスに贈呈され、現在パリのコンコルド広場にある。このほか、新王国の神殿様式はデンデラ、エドフ、フィラエなどの末期の神殿にも踏襲された。
 砂漠の台地でナイルの川岸まで迫っている地方では、神殿の一部あるいは全部を崖(がけ)の中に掘り込む岩窟神殿がつくられた。アスワン・ハイ・ダムのために切断移転したアブ・シンベル神殿がこの例で、ラムセス2世の建造による。ラムセス2世はメンフィス、アビドス、カルナック、ルクソールなどにも神殿を新築または増築し、ときには他の王の銘を削ってまで自分の名を刻ませた。古代エジプト諸王のうちもっとも多くの建造物を残した人物であり、銘の改竄(かいざん)者としての不名誉な名も残した。
 墳墓や神殿が石材を用いて頑丈に築かれたのに反して、一般の住居は日干しれんがや木材など耐久力の乏しい材料でつくられ、王宮といえども例外ではなかった。現存するものは少ないが、第18王朝のアメンヘテプ3世がテーベの西マルカタに造営した宮殿や、職人の集合住宅の跡が残っている。[友部 直]

丸彫り彫刻

これには神像をはじめ、神殿、墳墓に安置した王や貴族の像、副葬品の小形人物像などがある。その材料は石、金属、木、象牙(ぞうげ)、陶器などで、石には閃緑(せんりょく)岩、花崗(かこう)岩、角礫(かくれき)石などの硬質のもの、石灰岩、砂岩、アラバスターなどの軟質のものがあり、金属は主として銅および青銅、木材はアカシア、イチジクなどのエジプト産のもののほか、針葉樹の輸入材が多く用いられた。
 古代エジプトの彫刻は、現代的な意味での芸術作品というより、葬礼や崇拝のためのもので、墳墓形式の発達とともに巨大な人物像が礼拝所に安置されるようになる。古王国時代から始まったこの種の像では、死者の霊が宿りやすいように、とくに容貌(ようぼう)を正確に写そうと努める写実的な表現が特色である。古王国時代では、制作者イムホテプ銘のあるジョセル王座像(第3王朝、カイロ美術館)は等身大の墓像の最初のものであり、ラーホテプ、ネフェルト夫妻像(第4王朝、カイロ)は彩色を鮮やかに残し、玉眼が像の現実感を高めている。また、カフラ王座像(第4王朝、カイロ)は王者の威厳を表現した傑作であり、メンカウラ王と王妃の立像(第4王朝、ボストン美術館)は品位に満ちた夫妻像の典型的な作例である。
 エジプト彫刻の特色は、正立像の場合は顔は正面で、両足をそろえるか、一方の足(ほとんどが左足)を半歩前に出す。座像の場合も同様で、夫妻像では妻が夫の背に手を回しているものもみられる。一般にエジプト彫刻は動きが少ないが、動作を付与されているものはその人物の職業や身分を表すことが多く、第5王朝の木彫の村長像(カイロ)、あぐらをかく書記像(ルーブル美術館)はその例である。
 中王国時代、彫刻には北方のメンフィス派と南方のテーベ派ができた。北方派は古王国時代の伝統を受け継いで、ハワラ出土のアメネムハト3世座像(カイロ)のように、洗練されてはいるが類型的である。南方派は粗く力強い作風のうえに、メンフィス派の写実の手法をも取り入れて、人物の性格描写を行っている。
 新王国時代の前半のものは、優雅だが生気に乏しい。わずかにトゥトメス3世立像(カイロ)や豪壮な神殿にふさわしい巨像アメンヘテプ3世とその妃ティイの座像があげられる。
 新王国の後期、アメンヘテプ4世は太陽神アトンを信仰して宗教改革を行ったが、王がイクナートンと改名して現在のアマルナに遷都してからは、いわゆるアマルナ芸術がおこり、王妃ネフェルティティ胸像(ベルリン国立美術館)のような、洗練された美しい作品を生んだ。イクナートンの宗教革命は、次のツタンカーメン王がテーベに遷都して終わったが、アマルナ時代の芸術活動はしばらく続く。
 第19王朝にはラムセス2世座像(トリノ古代美術館)のような精巧な作品もあるが、王が各地の神殿に奉納した巨大な自像は、粗放で、芸術的に優れたものは少ない。第20王朝以後、この時期の石像にはみるべきものはないが、ブロンズ彫刻は著しい発達を遂げた。第22王朝の王妃カロママ立像(ルーブル)は服装の細部に金象眼(ぞうがん)を施した優美な作品である。そのほか人物の表情を鋭く描写したメントゥエムハト像(第25王朝ごろ、カイロ)や神官の首(第30王朝ごろ、ベルリン)などがある。鋳造技術の進歩で、後期王朝時代にはホルス神の鷹(たか)やバステート女神の猫など多数の小形神獣の像がつくられた。プトレマイオス王朝時代からローマ時代にかけては、エジプト人が宗教的理想の表現とした彫刻は形骸(けいがい)化し、グレコ・ローマン風の作品がつくられるようになった。[友部 直]

浮彫りと絵画

浮彫りでは古王国時代以前、神殿に奉納するためのパレットがある。上下エジプトの統一という歴史的事件を表したナルメル王のパレット(第1王朝)が重要である。ピラミッドの玄室には浮彫りが施され、ウナス王のピラミッド・テキスト(第5王朝、サッカラ)が注目される。第5王朝には貴族の墳墓が発達し、礼拝所の壁面に、死者が来世で楽しく暮らすようすを表した浮彫りが施された。舟遊びや農夫・船頭・職人が働くさまが克明に刻まれている。神殿や葬祭殿には王の伝記や神々を礼拝し恵みを受ける王の姿が描かれた。浮彫りはグレコ・ローマン時代に肉づけが丸みを帯び、輪郭が柔らかになるが、人体の解剖学的正確さは失われた。
 絵画は浮彫りと同様、多色で彩色された。おもな顔料は代赫(たいしゃ)の赤、黄土の黄、紺青石あるいは青色のフリット(ガラスの原料)の青、孔雀(くじゃく)石あるいは緑色のフリットの緑、鍋墨(なべずみ)の黒、白亜または石膏(せっこう)の白などで、展色剤には膠(にかわ)類、樹脂、卵白などが使用された。
 古王国時代のメイドム出土の鴨(かも)の図(第4王朝、カイロ)には羽毛が正確に描かれている。中王国時代には豪族の墓にも壁画が施されるようになるが保存状態はよくない。新王国時代になると壁画は保存状態もよく、テーベの王や貴族の墳墓に描かれたものは色鮮やかに当時の模様をしのばせる。壁画の主題は、葬列、ミイラに魂を入れる開口の儀式、冥界(めいかい)の神々に迎えられる死者の姿などである。こうした冥界の案内書は宗教文書の研究として重要であり、パピルスの絵巻物にも、死者をあの世に旅立たせる注意書きを集めた『死者の書』がある。
 アマルナ時代には王一家のだんらんの図や、アトン信仰につながる自然の中の鳥獣の姿などが描かれた。デル・エル・メディーナの工人や下級官吏の墓にも、供養を受ける死者の姿が描かれた。狩猟図、漁労図、死者が家族や親族と食事をともにする葬宴図などから、当時の庶民の日常生活をうかがうことができる。
 こうした人物を描くにあたって熱心に追求されたのは、永遠にふさわしい人体の表現であった。エジプトの絵画は、西欧の写実的描写の基となる遠近法や透視法とは関係なく、独自の発達を遂げた。表現上の慣習も浮彫りと絵画は共通している。三次元の立体的な世界を平面芸術として表現するのに、顔は横顔の輪郭を描き、片方の眉(まゆ)と目は正面を見たように描く。両肩は正面から、胸と胴は横、臀部(でんぶ)は斜め後ろ、足は横から見たように描く。これは正面性の法則または変動視点描法とよばれるもので、実際に見たままを描くのではなく、観念的な描法であり、第3王朝の初めにすでにこの描法は確立していた。人物のプロポーションも、握りこぶしの長さを基に、額の生え際から足の裏までを18、額から肩までを2、というように厳密に定められており、いわゆるプリミティブ芸術の性格を示している。
 絵画は墓の壁画だけでなく、木棺、パピルス、オストラカ(陶片)にも描かれた。木の寝棺が一般化したのは古王国の末からで、偽(にせ)の扉と、上部に筆太に人間の目を描いた。これは死者が静臥(せいが)したまま、この目を通して外界のようすを見るためであった。
 オストラカは石灰岩や陶器の破片をノートや計算書がわりに用いたもので、宗教的な情景や世俗的な日常生活の場面などが、のびのびと描かれている。[友部 直]

工芸

豊かな素材と才能に恵まれたエジプト人は、工芸の分野でも輝かしい業績を残した。工芸品には石器、陶器、金工品、木工品、牙角(がかく)製品、繊維製品などがある。巨大な神殿や墓室の壁を飾るおびただしい壁画や浮彫りには、さまざまな職業や風俗が描かれ、そこから当時の工芸製作の実態を把握することができる。
 工芸品に取り上げられたモチーフは、スイレン、パピルス、シュロなどの植物や、タカ、コブラ、カブトムシ、ヤギ、人間など自然界にあるもの、エジプトの象徴的な図形アンク(生命)、イブ(心臓)、ウェレズ(再生)など、単純な幾何学模様のロゼッタ(円花)、ジグザグ、渦巻などがある。これらは複雑に組み合わされ、宗教的な意味を付与されて、造形美以外の象徴性をもっている。
 石器では先王朝時代後期の燧石(すいせき)製小刀がとくに美しく、石製容器としては先王朝には硬い石が用いられたが、王朝時代には半透明で細工もしやすいアラバスターが、壺(つぼ)などに盛んに用いられた。第1王朝のころパレットが出てくる。これは元来メーキャップ用の顔料をすりつぶすための石板だが、のち全体に浮彫りを施し、神殿の奉納品に用いられた。
 エジプトでは厳密な意味での陶器は発達しなかったが、王朝時代に石英の粉末を炭酸ソーダや食塩水で固めて胎とし、それに釉(うわぐすり)をかけて一種の陶器といえるものをつくった。この種の釉は目もさめるような明るい藍(あい)が主で、中王国時代にはこの青釉(せいゆう)をかけた小動物像、青釉の上に黒色の釉でスイレンの花を描いた鉢、護符の類が副葬品としてつくられた。新王国時代にこの種の青釉をかけた高坏(たかつき)や小像(ウシャブチ)が数多くつくられ、またタイルなどの建築材もつくられた。釉は青のほかに緑、白、黄などがある。
 釉が単独で細工されたものがガラスである。第18王朝にトゥトメス3世の王の名のある脚付き杯があり、テーベとテル・アル・アマルナからはガラス工場の跡が発見された。大英博物館にある紫と黄の縞(しま)のみごとな魚の壺は、アマルナ時代の自然主義の反映である。当時のガラスはすべて有色不透明で、宝石や貴石の代用品と考えられていた。吹きガラスの技法や徐冷法はまだ知られておらず、金属の棒の先にぼろ布を巻き、溶融しているガラスを巻き付け、冷却後に内部をかき出した。こうして化粧皿、壺、瓶、杯などがつくられた。
 エジプトでもっとも早く発見利用された卑金属は銅で、バダリ期からあり、西アジア起源の青銅は中王国時代に普及した。銅、青銅の加工技法には、鍛・鋳造、鑞(ろう)付け、金銀被(かぶ)せなどがある。
 貴金属のなかでは金が早くから知られていた。ナイル東岸から紅海にかけて多くの金鉱があり、その不変の輝きからさまざまな装飾品に用いられた。壺の口縁部を縁どったり、石刀の柄(え)の部分を包んだ。カイロ美術館の燧石の小刀は柄の部分を包んだ金の薄板に、動物や植物の文様が細かく刻まれ、当時の人々の繊細な感覚と彫金技術を示している。第1王朝のゼル王妃の腕輪は、ラピスラズリ、トルコ石、紫水晶などを用いて鋳金や彫金の技術を巧みに駆使して魅力ある作品となっている。金を多量に用いた工芸品の例には、ツタンカーメン王の金の棺(第18王朝)がある。
 木工品には舟の模型がある。ナイルの民にとって舟は生活に密着した題材で、小さな漁船から船室と帆をもつ豪華な大型船まで各種のものがある。しかし木工品のおもなものはやはり家具で、寝台や椅子(いす)、スツールなどの脚には動物の脚の形を彫刻し、脚1本にも造形美を盛り装飾を施した。家具そのものの構造は合理的で、寝台は木製で頑丈な木枠に植物繊維のネットが張られ、この上に幾重にも折り畳んだ亜麻布を敷いて寝た。家具以外の木工品には匙(さじ)や鏡のケース、小箱などの愛すべき小工芸品がある。[友部 直]
『新規矩男編『世界美術全集21 オリエント2 エジプト』(1965・角川書店) ▽杉勇編『大系世界の美術3 エジプト美術』(1972・学習研究社) ▽W・ヴォルス著、友部直訳『オリエント・エーゲ海美術』(1979・グラフィック社)』

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