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オランダ独立戦争 オランダどくりつせんそうTachtigjarige Oorlog; Eighty Year's War

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

オランダ独立戦争
オランダどくりつせんそう
Tachtigjarige Oorlog; Eighty Year's War

八十年戦争,ネーデルラント独立戦争とも呼ばれる。 1568~1648年にかけてスペイン領ネーデルラントが本国に抗して争い,ホラント,ゼーラント,ユトレヒトなど北部7州が独立して,オランダ (ネーデルラント) 連邦共和国を建国するにいたった戦争。中世以来ネーデルラントは毛織物工業と中継貿易とによって繁栄し,諸都市は広範な自治権をもち,自由の気風が盛んで,宗教改革以後カルビニズムが市民階級の間に普及していた。 1556年スペイン王位についたフェリペ2世はカトリシズムの守護者をもって任じ,プロテスタントに激しい迫害を加え,また都市に重税を課し,商業を制限し,自治権を奪って財政収入の増大をはかるなど,中央集権的支配を強化した。このような圧制に対し,カトリシズムを奉じる市民階級をさえ含めて,ネーデルラントのすべての住民が反抗し,多数の中小貴族の指導のもとに 66年広範な民衆運動が開始された。翌 67年ネーデルラント総督として来任したアルバ公は,プロテスタントに対する徹底的な弾圧を行い,「血の評議会」による裁判の犠牲となるものは,指導者エフモント伯をはじめとして 8000人をこえた。またアルバ公は上流貴族と富裕な市民階級の財産を没収し,貿易に重税を課したため,商工業活動は麻痺し,数千人が職を失い,多くのカルビニストや富裕な市民は国外に亡命した。海外に亡命したカルビニストらは貴族の指導により「ゼーゴイセン (海乞食) 」と呼ばれる軍事組織をつくり,72年以後ゼーラント,ホラント両州の諸都市を占拠し,ドイツに亡命したオランニェ公ウィレム1世 (沈黙公) を統領として迎えた。 76年ウィレムの努力で「ヘントの平和」を実現し,全ネーデルラントの平和と統一が実現した。しかし元来宗教的に対立し,経済的にも利害関係の反する南北両州の不一致は容易に解消されず,これを利用した総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの南北離間策によって南部諸州は懐柔され,79年アラス同盟を結成してスペイン側と講和した。しかしホラント州などの北部7州は 79年ユトレヒト同盟を結成して抗戦を続け,81年7月独立を宣言し,ここにオランダ連邦共和国の誕生をみた。 84年ウィレムはカトリックの刺客に暗殺されたが,その子マウリッツは J.オルデンバルネフェルトと協力して抗戦を継続した。 88年の無敵艦隊の全滅はスペインの国際的地位を悪化させ,1609年には 12年間の休戦条約が成立し,ここに事実上の独立が達成された。 21年戦争は再開され,オランダ側は北ブラバントとリンブルフを領土としてつけ加えた。 48年ウェストファリアの講和 (ミュンスターの和約) によって国際的に独立が承認された。

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デジタル大辞泉の解説

オランダ‐どくりつせんそう〔‐ドクリツセンサウ〕【オランダ独立戦争】

スペイン領ネーデルラントが行った独立戦争。フェリペ2世新教徒弾圧、重税政策などに反抗して1568年開戦。1579年、北部7州がユトレヒト同盟を結成して抗戦を継続し、1581年にネーデルラント連邦共和国を樹立して独立を宣言。1648年のウエストファリア条約によって正式に独立を承認された。八十年戦争

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百科事典マイペディアの解説

オランダ独立戦争【オランダどくりつせんそう】

八十年戦争

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大辞林 第三版の解説

オランダどくりつせんそう【オランダ独立戦争】

スペイン支配下のネーデルランドが行なった独立戦争。フェリペ二世の新教徒迫害と重税政策に抗し、1568年に開戦。北部七州がユトレヒト同盟を結成、81年に独立を宣言し、1648年ウェストファリア条約により承認された。八十年戦争。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

オランダ独立戦争
おらんだどくりつせんそう

スペイン領ネーデルラントが、国王に反乱を起こし、北部7州が独立するに至った戦争(1568~1648)。正式には八十年戦争とよばれる。ネーデルラント(低地地方)の大部分の領邦は14~15世紀の間にブルゴーニュ公家の統治下に入り、さらに1477年以降ハプスブルク家の所領になった。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世は、ブリュッセルの政庁に執政と枢密会議、財務会議、国務会議を設け、諸州に総督を配して中央集権的統治を推進し、またネーデルラントに浸透しつつある新教ことにカルバン主義を厳しく禁止した。1555年、カールは息子フェリペ2世にネーデルラントの統治をゆだね、翌年スペイン王位を譲った。フェリペはネーデルラントの集権的統治をいっそう強化し、司教区制度を改革した。フェリペの統治に対してオラニエ公ウィレム1世、エフモント(エグモント)伯ら大貴族が反対運動を起こし、1566年には約400名の中・下級貴族が貴族同盟を結び、ブリュッセルの政庁に押しかけて、宗教裁判の廃止と全国議会の招集を求めた。カルバン主義者は勢いに乗じて野外説教集会を開いたが、バルト海貿易の途絶で経済的危機に陥った民衆の窮乏と宗教的情熱の赴くところ、ついに聖像破壊運動が勃発(ぼっぱつ)した。フェリペ2世は、暴動鎮圧のためアルバ公に1万の兵を率いさせてネーデルラントに派遣した。アルバは新教徒を激しく弾圧し、騒乱裁判会議を新設して恐怖政治体制を敷いた。カルバン主義者たちは海外に亡命し、貴族の指導下にゼー・ゴイセン(海乞食(こじき))と名のって団結し、反抗を続けた。
 1568年ドイツに亡命中のオラニエ公は、弟ルードウィヒの率いる軍隊をネーデルラントに進攻させ、ここに八十年戦争が開始された。72年ゼー・ゴイセンはホラント、ゼーラント両州のほとんどの都市を占拠し、オラニエ公を両州の総督に推して反乱の指導をゆだねた。スペイン軍の猛反撃によりハールレムは奪回されたが、アルクマール、ライデンは英雄的な抵抗を続けてもちこたえた。76年オラニエ公の奔走で反乱側の2州とスペイン治下の諸州との間にヘントの平和(ゲントの和約ともいう)が成立し、ネーデルラントの平和と統一が実現した。79年北部の7州はユトレヒト同盟を結んで対スペイン戦争の継続を誓い、ここにネーデルラントは南北に分裂した。ユトレヒト同盟は81年フェリペ2世に対する臣従拒否宣言をし、フランス王アンリ3世の弟アンジュー公やイギリス女王エリザベス1世を主権者に迎えようとしたが失敗し、結局7州が各自、州主権と州議会をもち、軍事、外交など諸州共通の事項に関しては7州が構成する連邦議会を最高意思決定機関とする連邦共和国(1588~1795)が成立した。84年オラニエ公が暗殺されると、オルデンバルネフェルトがオラニエ公の遺児マウリッツを補佐し、同盟を指導してスペイン軍と戦い、1609年スペインと12年間の休戦条約を結び、実質的な独立を達成した。21年再開された対スペイン戦においてオランダは攻勢に転じ、スペイン治下の領土を占領して7州に付け加えた。1648年ウェストファリア条約が締結され、共和国は国際的にもその独立を承認された。[栗原福也]

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世界大百科事典内のオランダ独立戦争の言及

【八十年戦争】より

…スペインの絶対主義支配に対する属領ネーデルラントの反乱に始まり,その北部(オランダ共和国)の事実上の独立を経て,スペインによるその承認に至った事件(1568‐1648)の伝統的呼称。オランダ独立戦争ともいう。 スペイン国王フェリペ2世(在位1556‐98)の中央集権政策に対して身分的,地域的諸特権を擁護する貴族や都市の反抗,また厳酷なカトリック政策に対する新教徒や寛容派の反抗はすでに1560年前後に始まった。…

※「オランダ独立戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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