キリスト教の教会で、東方正教会(オーソドックス教会)、プロテスタント諸教会と区別して、ローマ教皇を頭(かしら)とするローマ・カトリック教会をさす。カトリックとは、「普遍的」「公同的」「一般的」という意味のことばで、自らを「唯一、聖、カトリック、使徒伝来の教会」(ニカイア信条、コンスタンティノープル信条)と信じているキリスト教会が、全人類のための唯一の救いの機関であることを表す表現である。教会がカトリック教会ekklesia katholikē(ギリシア語)とよばれたのは、紀元110年ごろ殉教したアンティオキアの司教イグナティオスがスミルナの教会にあてた手紙においてである。
全世界キリスト教徒約19億7400万人のうち、約10億4400万人の信徒を有する最大の教会である(『ブリタニカ国際年鑑』2000年版)。
[山本襄治]
十字架上で死んで復活したイエスを、キリスト、すなわち約束のメシア、救い主であると宣教した十二使徒やパウロの活動によって、キリスト教はローマにもたらされ、激しい迫害ののち、コンスタンティヌス皇帝のキリスト教改宗とミラノ勅令(313)により、ローマ帝国に確固とした地盤を築いた。その後、東西両ローマ帝国の領内において、教会はそれぞれ趣(おもむき)の違った発展を遂げていった。東方教会では、総大司教区となったコンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキアを中心に、異なった典礼(公的な礼拝執行の体系)をもち、ある意味での自律性と独自性をもった諸教会が生まれていった。このような多様性のある東方教会の発展とは対照的に、西方教会ではローマ教皇を中心とし、共通のローマ典礼をもった教会組織が築き上げられた。しかし、典礼や言語による表現の相違はあっても、5世紀ごろまでは、同じ一つの使徒伝来のカトリック教会としての一致は保たれていた。そのようにして、ニカイア公会議(325)およびコンスタンティノープル公会議(381)において三位(さんみ)一体の教義が確立された。
しかし、エフェソス公会議(431)におけるネストリウス主義の排斥、カルケドン公会議(451)におけるキリスト単性論の排斥は、キリスト論の教義を確立しはしたが、東方教会のいくつかの部分の分離脱落を結果することとなった。その間に教皇レオ1世は、ローマの司教が、全カトリック教会に対して首位権をもつものであることを、『マタイ伝福音(ふくいん)書』(16章18)などを基礎にして明らかにした。これは東方教会の意識とは異なったものであった。東方教会では、ローマの司教を、同等の司教たちのなかで第一の位を有する者と考えていたからである。そして、聖画像破壊論争、コンスタンティノープルの総大司教フォティオスの任免をめぐる論争、三位一体の教義に関して、聖霊は父より子を通して発出すると考える単数発出論の東方教会を無視して、西方教会が、聖霊は父と子の両者から出るという、複数発出論のラテン語「フィリオクエ」とよばれる表現を信経(信条)に付け加えたフィリオクエ論争などが重なって、1054年、東西両教会は分裂した。ローマ教皇の首位権を認めない東方教会は自らをオーソドックス(正)教会とよぶことになった。その後、東方教会の典礼を保ったまま、ローマ教皇の首位権を認め、カトリックになった教会もあるが、東方教会の大勢はそのままである。
さらに16世紀の宗教改革によって、プロテスタント諸教会がローマ・カトリック教会から離れた結果、カトリック教会という語は、冒頭に書いたような限定された意味となった。
宗教改革の背景とも原因ともなったものは、神学、典礼、信仰生活、教会行政などの面に巣くっていた教会内部の腐敗であり、多くの人々がその粛正の必要を感じていた。宗教改革の直接のきっかけは、1517年マルティン・ルターによってなされた贖宥(しょくゆう)論争である。当時の政治的状況とも相まって、ルターの改革運動はドイツ、スイス地方を中心として急速に広まり、その信奉者たちはローマ・カトリック教会から離れるに至った。しかし、宗教改革運動は、一つのまとまったプロテスタント教会を形成する方向には向かわず、多くの教会がそれぞれの信仰に従って分立することになった。そのためプロテスタント諸教会とカトリック教会の信仰内容の相違を明確にすることは容易ではないが、義認(原罪を含むすべての罪からの解放)、聖書と聖伝、秘蹟(ひせき)(サクラメント)、司祭、教会などに関する相違は明らかである。宗教改革によって、このような根本的な諸問題に直面することとなったカトリック教会は、トリエント公会議(トレント公会議、1545~1563)を開き、教義や組織・制度について反省・刷新を図った。これがいわゆる反宗教改革とよばれるもののまとめであり、近代カトリック主義の出発点となった。
16世紀以後はヨーロッパの統一が失われ、近代国家が誕生してくると、カトリック教会はこれらの国家と政教条約を結ぶ。1929年にはイタリア政府とラテラノ条約(ラテラン協定)を締結し、教皇を首長とする世界最小の独立国バチカン市国が誕生する。第二次世界大戦では教会は、戦火に巻き込まれた人々を宗教、人種や国籍の別なく援助し、戦後は平和のために努力した。教皇ヨハネス23世は第二バチカン公会議(1962~1965)を開き、会議では世界の新情勢に即応した教会の現代化と教会一致(エキュメニズム)などについて討議がなされた。
1978年教皇に選出されたヨハネ・パウロ(ヨハネス・パウルス)2世の活動はこの公会議の延長上にあり、カトリックの長という領域を越え、世界平和のための活動を始めた。積極的な外交姿勢をとり世界120か国を訪問し、行動する法王のイメージを確立した。東ヨーロッパ各国、南アメリカ、さらにヒンズー教国のインドなどにも訪問して世界中の人々に平和のメッセージを伝えた。1981年2月には日本にも来訪した。
1986年にはユダヤ教の教会をキリスト教史上初めて訪問、1989年にはイギリス国教会の最高指導者ランシー大司教と会談し、歴史的和解文書に調印した。この文書は教皇の不可謬(ふかびゅう)性とイギリス国教会をも含む教皇の普遍的最高権を認め、両教会の完全な親交に努めるというものである。1993年にはイスラエルとバチカンの国交が樹立された。
また、地動説を支持して宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの名誉を300年たって回復させ(1992)、ダーウィンの進化論を事実上容認する(1996)など、それまでのカトリック教会の過ちを認めた。
教皇庁は西暦2000年を挟んだ1年を、過去を悔い改める大聖年と位置づけ、カトリックの立場からみたキリスト教の過去の過ちに関する文書を公表し、神の許しを請う懺悔(ざんげ)を行った。文書は教皇庁が世界に向けて発する大聖年のメッセージとされ、そのなかにはキリスト教の分裂、宗教裁判、十字軍の遠征、科学への批判、第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人迫害に対する事実上の容認などの過ちに対する懺悔が列挙されている。また同年、教皇はイスラエルにあるユダヤ教の聖地「嘆きの壁」やイスラム教の聖地であるアクサモスクのある神殿の丘を訪れた。ヨーロッパでのユダヤ人弾圧や、十字軍の派遣など、過去2000年の間、対立の歴史を刻んできた相手であるユダヤ教やイスラム教世界の宗教・政治指導者などと会談し、歴史の清算と和解を訴えた。
2001年には、ギリシア、シリア、マルタの3か国を歴訪した。教皇が東方正教会の拠点の一つであるギリシアを訪問するのは、キリスト教が東西に分裂した1054年以来、約1000年ぶりのことである。
[山本襄治]
キリスト教の根本概念である罪からの解放、つまり義認について、キリストの十字架上の贖罪(しょくざい)を信じキリストへの信仰のみによって義認されるとするプロテスタント側の理解に対して、カトリックにおいては信仰の秘蹟である洗礼によって義認されるとする。トリエント公会議では「義化(義認)とは単に罪が赦(ゆる)されるだけでなく、人間が自発的に恩恵と種々の賜物(たまもの)とを受け入れることによる内的人間の聖化と一新である」(『カトリック教会文書資料集』)とした。両者の背景には、原罪によって人間本性が破壊され、自由意志が失われ、情欲そのものが罪であるとした宗教改革者側の考え方と、原罪によって失われたのは、神から与えられた特別な超自然的な恩恵だけであって、人間本性は自由意志を含めて失われてはいないとするカトリック教会との考え方の相違がある。
また義認において、「信仰のみ」を主張するプロテスタント諸教会は、信仰の源泉に聖書を唯一のものとするが、カトリック教会は、聖書とともに使徒以来の聖なる伝統を信仰の源泉とし、教会教導職が救いのための神のことばを権威をもって解釈する。この相違は教会の組織、信仰生活のあり方全体に影響するものである。
カトリック教会は、教会自身をキリストによる救いを実現する道具・場、「いわば秘蹟」と理解している。神がキリストによって行う救いの営みは、教会を通して人々に及び、その救いにあずかる人々は、教会の有機的共同体に属することになるからである。したがって、救いの恵みを与える七つの秘蹟を重視する。洗礼、聖体(聖餐(せいさん))、堅信(聖霊の賜物(たまもの)を強化)、ゆるし(告解)、結婚、叙階、病者の塗油(終油)の七つの秘蹟は、ことばと行為からなる儀式であるが、その儀式によって信徒は救いの働きを営む神に出会い、その秘蹟が意味する恩恵を受け取るのである。人が信仰を受け入れ回心して教会共同体に受け入れられる洗礼をはじめ、これら秘蹟は人生の節目に必要な恩恵の効果的しるしである。とくに、聖体の秘蹟はカトリック信徒の信仰生活の中心になっている。聖体の秘蹟の行われるミサは、ことばの祭儀と感謝の祭儀の二つの部分からなっている。ことばの祭儀は、聖書の朗読、説教および祈りである。感謝の祭儀は、イエスの十字架の死と復活を記念し、キリストの体と血に聖別されたパンとぶどう酒を参列者が拝領すること(聖体拝領)によって、キリストの贖(あがな)いにあずかるのである。このミサは、とくにキリストの復活を記念する主日である日曜日には、信徒全員が参加することになっている。
また、教会には特別の典礼暦があり、12月25日のイエスの降誕(クリスマス)と春の復活祭の二つを軸にして、1年間を通して、救いの歴史が祝われるようになっている。このような秘蹟と典礼を中心にしたカトリックの教会生活は、説教を礼拝の中心に置き、秘蹟は洗礼と聖餐(聖体)の二つだけしか認めないプロテスタント諸教会とは大きく異なっている。
[山本襄治]
教会は「キリストの神秘体」であり、キリストを信ずる人々の共同体「神の民」(第二バチカン公会議)であるが、それは同時に、ローマ教皇を中心とした中央集権的な社会的・位階的組織である。教会は、十二使徒、パウロならびにその後継者が宣教した地方に、信じる者の共同体がつくられることによって始まった。洗礼によってこの共同体に属する人は、大祭司であるキリストの祭司職に参与し、すべての信徒は普遍的祭司職をもつことになる。しかし、教会における祭儀の執行等の奉仕は、役務的祭司職を有する者、聖職者(司教・司祭・助祭)によって行われる。司教は、キリストによって選ばれた十二使徒の後継者であり、司祭と助祭(かつては副助祭もあった)は司教の協力者である。カトリック教会の聖職者は独身の男子に限られる。東方正教会では、妻帯者も司祭に叙階されるが、司祭になってからの結婚は認められない。また、司教には独身の司祭だけが登用される。万人(普遍的)祭司職だけを認めるプロテスタント諸教会には、前述のような聖職者は存在しない。
司教は地方教会である教区の長であるが、全世界の教区は、ローマの司教である教皇(法王)のもとに置かれている。カトリック教会における教皇は、使徒ペテロの後継者であり、教会の最高権威者、頭である。このことは、第一バチカン公会議における教皇の不可謬(ふかびゅう)権の教義決定(1870年7月18日)によって教義的に明確にされ、1917年の教会法典(改訂教会法典は1983年1月25日公布)によって法制化された。教皇はまたバチカン市国の主権者でもある。第二バチカン公会議(1962~1965)は、頭である教皇と一体となって教会をつかさどる司教の団体性とその権限を明らかにした。そのような権限がもっとも明瞭(めいりょう)な形で行使されるのが公会議(宗教会議)である。公会議はこれまで21回行われているが、東方正教会は第二ニカイア公会議までの最初の7回の公会議だけを認めている。宗教改革の問題が論じられたトリエント公会議は第19回目の公会議である。公会議はごくまれにしか開かれないので、全司教団による教会司牧の機能を行使するものとして、各地方教会には司教協議会が、そして全教会レベルでは数年ごとに世界代表司教会議(シノドス)が開催されるようになった。これとは別に、教会の統治について、教皇の顧問として教会行政にあたり、教皇選挙権をもつ枢機卿(すうききょう)(カーディナル)がある。教皇が空位になったとき、後継者を選ぶ教皇選挙秘密会議(コンクラーベ)は枢機卿によって構成される。
全教会に対する教会行政の中枢はローマの教皇庁Curia Romana(ラテン語)である。中心になり調整の役割を果たすのは国務省で、1998年以降は総務局と外務局からなっている。そのほかに、教理省をはじめ、司教省、東方教会省、典礼・秘蹟省、聖職者省、奉献・使徒的生活会省、福音布教省、列聖教、教育省の九つの省があり、内赦(ないしゃ)院、控訴院(ロータ)、最高裁判所の3裁判所が置かれている。そのほか1988年以降は財務局、会計局(教皇空位期間事務局)、管財局が設置されている。これらの諸部門のほかに、評議会として、信徒評議会、キリスト教一致推進評議会、諸宗教評議会、正義と平和評議会、家庭評議会、開発援助推進評議会、移住・移動者司牧評議会、医療使徒職評議会、法文解釈評議会、文化評議会、広報評議会が設置された。これらはカトリック教会が、文化的にも宗教的にも、そしてキリスト教のなかでも、きわめて限定されたもの、「個別的」なものになっている現状を、あらゆる面から検討し、真の意味で普遍的なカトリック教会にしようとの努力の表れである。
[山本襄治]
2022年には教皇フランシスコによって、組織の再編成が行われ、国務省に外交官人事局が追加、九つの省と評議会は16の省に統廃合された。
[編集部 2023年8月18日]
司教のもとにある教区の組織とは別に修道会、在俗修道会があるのもカトリック教会の特色である。修道会は、清貧、貞潔、従順の三つの福音的勧告に従って生きる誓願をたて、長上のもとに共同生活を営みながら、与えられた使命を通じて教会に貢献する。修道会は祈りと労働に捧(ささ)げられた観想修道会(カルメル会、トラピスト修道会など)と活動修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会、サレジオ会など)に分けられる。またこのような修道会同様に三つの誓願をたてはするが、一般の社会生活を行う在俗修道会も活躍するようになった。
[山本襄治]
日本のカトリック教会は1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したときに始まったが、まもなく起こった禁教(1612=慶長17)、迫害、鎖国(1641=寛永18)によって、第1期にあたるキリシタン(切支丹)時代は終わる。日本への宣教の第2期は、1846年(弘化3)日本代牧区が復活したときに始まった。1859年(安政6)には宣教師が江戸と函館(はこだて)に渡来、1862年(文久2)には横浜に最初の教会が建てられた。1865年(慶応1)長崎大浦天主堂でキリシタンの子孫が発見された。
1876年(明治9)日本カトリック教会は南緯、北緯の二つの代牧区に分けられたが、2000年現在では、北海道(札幌教区)から沖縄(那覇教区)まで16の教区に分かれている。これら教区の長である司教は、日本カトリック司教協議会(宗教法人カトリック中央協議会)を形成している。1998年現在信徒数は約46万人。
[山本襄治]
『J・ヴァン・ブラッセル著、山崎寿賀訳『新カトリック教理』(1976・エンデルレ書店)』▽『P・ネメシェギ編著『キリスト教入門』(1980・南窓社)』▽『J・ダニエル、J・ホル、J・プーパル著、朝倉剛・倉田清訳『カトリック――過去と未来』(1981・ヨルダン社)』▽『ロナルド・ローラー著、後藤平吉他訳『キリストの教え』(1983・中央出版社)』▽『A・フランツェン著、中村友太郎訳『教会史提要』(1992・エンデルレ書店)』▽『T・ボーケンコッター著、石井健吾訳『新世界カトリック教会史――エキュメニスムの流れ』(1992・エンデルレ書店)』▽『ハインリッヒ・デンツィンガー著、浜寛五郎訳『カトリック教会文書資料集』(1992・エンデルレ書店)』▽『百瀬文晃編『教会その本質と課題を学ぶ』(1995・サンパウロ)』▽『徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント』(1998・エンデルレ書店)』▽『O・ゼンメルロート著、石橋泰助訳『原サクラメントである教会』(1999・エンデルレ書店)』
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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…また,15世紀中葉J.グーテンベルクによって金属活字印刷術が発明され,ヨーロッパの各地に続々と印刷工房が生まれたが,手写本と比較してはるかに安価に製作された印刷本にしても,当初は教会や学者・学生を対象にしたもので,その大半は民衆の日常生活とは無縁のラテン語書で占められていた。ラテン語教育
[16~18世紀]
民衆の読み書きそろばんの歴史において著しく貢献したのは,宗教改革以後のプロテスタント教会とカトリック教会である。プロテスタント教会は聖書の理解に基づく個人的信仰の確立をめざし,聖書の母国語への翻訳を行い,これを読ませるために民衆教育の普及に積極的に取り組んだ。…
…〈普遍的〉〈全体的〉を意味するギリシア語katholikosに由来する〈カトリック〉という言葉は,〈一〉〈聖〉〈使徒伝来〉などとともに,真のキリスト教会の特徴を示す言葉として古くから用いられてきた。しかし,今日〈カトリック教会〉といえば,プロテスタントの諸教派,東方正教会などから区別された,使徒ペテロの後継者であるローマ司教(ローマ教皇)を最高の指導者と仰ぐ,全世界に約6億の信徒を擁するローマ・カトリック教会のことである。 ローマ・カトリック教会の第1の特徴は,使徒たちの後継者である司教,および彼を助ける司祭,助祭からなる教階制度あるいは聖職位階制度の確立である。…
※「カトリック教会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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