ガラス工芸(読み)ガラスこうげい

改訂新版 世界大百科事典 「ガラス工芸」の意味・わかりやすい解説

ガラス工芸 (ガラスこうげい)

ガラス工芸用に使用されるガラスの種類は主としてソーダ・ガラス(ソーダ石灰ガラス),カリ・ガラス(カリ石灰ガラス),鉛ガラス(鉛アルカリ・ガラス)で,一部にホウケイ酸ガラスや特殊ガラスも使われる。ガラス工芸の対象とするジャンルは,実用目的をもつ容器や建築用材,室内装飾品のほか,実用機能をもたない芸術作品にいたるまで幅が広い。

ガラス工芸に使われる道具類は,吹きガラス技法が始まったローマ時代以来,基本的にはあまり変化していない。現在では,ガラスを吹くための吹きざお,ガラス種を切り取ったり,口縁部を切り整えたりするはさみ,成形用の木ばし,金ばし(西洋ばし),こて板,ガラス種を整えるための整(なら)し台,りん台,木製ブロック,それに職人が座って成形するブロー台が基本的な道具類である。

 ガラス器の成形法には次の9種類の技法とその複合技法がある。(1)宙吹き 吹きざおと金ばし,はさみその他の補助道具類を使って,手で成形する方法。(2)型吹き 粘土型,石型,木型または金型の中に吹き込んで成形する方法。(3)型押し 雌型の中にガラス種を流し込んで,雄型を押し当てて成形する方法。(4)鋳造 雌型の中に流し込んで成形する方法。(5)パート・ド・ベールpâte deverre(英語ではpaste glass)法 ガラスを粉末にして,ふのりその他の特殊なのり料でペースト状に練ったものを,型の中に詰めて,雌雄型を合わせ,型のまま焼きあげた後,徐冷して成形する方法。着色したい部分に色ガラス粉を使えば,色模様のついたものができる。(6)モザイク法 あらかじめ色ガラス棒を作っておいて,それを同じ厚さに薄く切断したものを,型の中にすきまができないように並べて,雌雄型を合わせ,型のまま焼成する。ガラス片は融合しあって,型どおりの器物ができる。(7)流しかけ 凸型の上に溶けたガラスを流しかけて,容器などに成形する方法。(8)コア・テクニック 吹きガラス技法が始まる前1世紀以前の段階で,ガラス器の成形法として使われていた技法。耐火粘土と鋳物砂と若干の繊維質とを混ぜて練った土で内型を作る。内型には,長い芯金(しんがね)を入れておく。型を焼いてその上に溶解ガラスを巻きつけたり,伸展させたりして,型の表面を十分に覆い尽くす。徐冷処理を施した後に,芯金を抜き去り,中型をくずし去って,ガラス器として完成する技法である。(9)機械成形法 型吹き,型押し,鋳造を機械によって行う方法。

 加飾法には大別して,ガラスがまだ溶融状態のとき窯元で細工を施す加飾法と,成形を完成したガラス器を後から加飾する方法の2種がある。前者では,溶融したガラス表面に別の溶融ガラスを多様な形で付着させる溶着装飾,気泡を入れる泡ガラス,急冷して氷裂(アイス・クラック)を作る,などの方法がある。後者では,グラインダーにガラスを当てて作るカット(切子)装飾,繊細なレリーフ装飾を生み出すグラビュール,ダイヤモンドを先に取り付けた棒で点刻または線がきをするダイヤモンド・ポイント彫り,色ガラス顔料で絵付けして焼き付けるエナメル彩,などがある。

ローマ時代の大プリニウスが著した《博物誌》に,ガラスの起源にまつわる次の伝説が記されている(36巻65章)。地中海の航海貿易商人たちがシドン近くのベルス河口で野営をし,積荷のソーダ塊でかまどを作って大鍋をのせて夕食のしたくをしたとき,海岸の白砂とソーダ塊の粉とが混じり合って,透明で見たこともないものが流れ出てきた,それがガラスの起源になったといわれている,という。これはフェニキア商人たちを指すと思われるが,実際に今日知られているガラス遺物は,たとえばメソポタミアのエリドゥ出土ガラス塊(前24~前22世紀)のように,それよりはるかに古い時代にさかのぼるものがあり,この有名な起源伝説もガラス起源を伝える話としては信憑性が薄い。ガラスがどこで最初に作られたかについては,メソポタミア説とエジプト説がある。エジプト説はイギリスの学者を中心として,すでに古王国時代(前27~前22世紀)にガラス玉が作られていたと主張している。メソポタミア説は,それら古王国時代の遺跡より出土したとする玉の年代考定の不確実性をあげてこれを否定し,継続的なガラス技術の発展プロセスがエジプトにはなくメソポタミアにあることから,メソポタミア説を主張している。その大きな根拠として,上記のような古い実物出土品のほかに,前18~前17世紀初めに考定されるガラス製造記録〈タールウマール粘土板文書〉の存在と,それに続く継続的ガラス工芸の発達を指摘している。

 前17世紀以前のガラス資料は,そのほとんどが玉類などの装身具で,前16世紀に入るとメソポタミアで初めてガラス容器が出現し,それ以来ガラス工芸は順調な発展を遂げる。そして前15世紀にはメソポタミアのコア・テクニック(内型成形法)と呼ぶ特殊なガラス容器を作る技法がエジプトに伝えられ,エジプトでガラス工芸が発達してゆく。メソポタミアではパート・ド・ベール法,モザイク法,鋳造法,コア・テクニックなどいろいろな技法が発達したが,エジプトではコア・テクニックのほか鋳造法が使われたにすぎなかった。両者はいずれも不透明色ガラスが使われていた点で共通し,色の種類は紺,青,緑,茶,黄,白にほぼ限定される。しかしメソポタミアではアッシリア時代末期より透明なガラスの美が発見され,以後不透明色ガラスより透明ガラスが使われるようになった。この傾向はアケメネス朝時代に入ってさらに進展し,無色に近い透明ガラスにカットを施したカット・グラス器を流行させた。パルティア時代に入ってその伝統はやや衰えたが,ササン朝時代になって再興し,カット・グラス製品を大流行させて全世界に輸出していった。日本や中国に伝えられた白瑠璃碗は,そのササン・カット・グラスの典型的一例である。一方,エジプトのガラスは当初テル・エル・アマルナマルカタなどの王宮に所属した御用窯で作られたが,前13世紀ころより民窯も始められ,バラエティに富むガラス器が作られた。しかし異民族の侵入で新王国が滅ぼされ,前9世紀から約200年ほどガラス工芸は空白の時代を過ごした後に,前6世紀初めより再興して前1世紀まで古来の伝統を温存した。とりわけ前3世紀ころよりミルフィオリ・グラス(千の花のガラスの意)と呼ばれる華麗な総花柄文様のモザイク・ガラス器や細密な人物・動物・植物・幾何学文様を断面に作りだしたモザイク装飾板などがアレクサンドリアを中心に生産され,ガラス工芸最大の中心地となっていった。

その後ローマ帝国が出現して,アフリカ北岸地帯から地中海東岸地帯はその属領に入り,アレクサンドリアからシリア海岸一帯がガラス工芸の中心地となった。そして前1世紀中ごろ,シリアのシドン周辺のガラス工房で〈吹きガラス〉の技法が発明され,ガラス器製造に一大生産革命を巻き起こした。それは金属パイプの先端に溶けたガラスを水飴のように巻き取り,それに息を吹き込むとガラスは風船ガムのようにふくらんで固まる。一瞬にして中空の器を作る画期的な技法であり,この技法の発明によって,型を使って成形する面倒な古来の技法はほとんど消滅していった。短時間のうちに大量生産を可能とした吹きガラス技法によって,ガラスの値段は従来の約200分の1に下落し,銅貨1個でガラスのタンブラーが買えるようになったと,1世紀のストラボンはその《地理書》に述べている。当然のことながら,この簡便な技法は一挙に全世界に伝えられ,ローマ文化圏はもちろん,スラブ世界やはるか東方の中国にまでその技術は伝播した。こうして,その中心地で大量に生産されたローマン・グラス(ローマ世界で作られたガラス。ローマ・ガラス)は,アフリカ北岸を含めて全ユーラシア大陸に輸出されていった。その一端は日本にも伝えられ,橿原市の新沢千塚126号墳出土の2点のローマン・グラスはその一例である。ローマン・グラスは産地や工房が多岐にわたっていたので,種類もあらゆるジャンルに及び,日常食器から容器,照明器具,鏡,窓ガラス,レンズ,装身具,建築装具,彫刻,理化学用器具など,あらゆるものが作られていた。われわれが今日使用している日常的なガラス製品のほとんどのものが,ここに源流を発するといってもよい。しかしローマン・グラスはローマ帝国の滅亡と運命をともにして衰え,5世紀以降急速に姿を消してゆき,巨大なローマ文化圏であった各地にその痕跡をとどめる程度に零落していった。

ローマン・グラスの衰退とは対照的に,西アジアのササン朝では4世紀ころより王室工房を中心に,高水準のカット・グラス器や円文装飾のガラス製品が優れたデザイン管理のもとに大量生産され,広く国外に貿易されていった。このササン・ガラスと全盛を極めたローマン・グラスの双方の伝統をともに継承したのが,シリア海岸のガラス産地やダマスクス,アレクサンドリアなどを中心地とするイスラム・ガラスである。巨大な地域を勢力圏に収めたイスラム世界では,ガラス工芸が〈イスラムの華〉と称揚されていることからもうかがえるように,かつてなかったほど高度の発達を遂げた。新しい技法のエナメル彩色や鍍金,レリーフ・カットが展開し,耐熱性のあるホウケイ酸ガラスの開発や,医用・理化学用のガラス器具も急速に発達した。イスラム世界と密接に接触していたビザンティン世界は,イスラム・ガラスの技術を導入してビザンティン・グラスを発達させたが,その特色は,教会の壁面を覆うガラス・モザイクやステンド・グラスにあった。

ビザンティン・グラスとイスラム・ガラスの伝統を吸収し,10世紀ころより新しく工房を興すのがベネチアである。東方貿易を独占して巨利を得ていたベネチアは,ヨーロッパ人のあこがれの的であるイスラム・ガラスを自らの手で生産・販売する計画を立て,政府の援助でガラス産業を育成保護した。1291年にはすべてのガラス工人およびその関係者をベネチア沖のムラノ島に集中的に移住させ,島外不出の掟を作って,ガラス技術の国外流出を防ぐとともに,その製品のヨーロッパ世界への独占的販売を行った。ヨーロッパ文化の中心となったルネサンスのイタリアを背景にして,ベネチアのガラス工芸は飛躍的な発達を遂げた。ルネサンスの画風を写すエナメル彩色のガラス器,純白のレースを封じ込めたようなレース・グラス,初めて登場した大型壁面鏡や手鏡,そして華やかに宮廷を彩る多彩なシャンデリアなど,いずれも宮廷生活には不可欠の豪華なぜいたく品が他国者を寄せつけない隔絶の島ムラノで生産され,ほとんど90%の寡占体制でヨーロッパ市場に供給されていった(ベネチア・ガラス)。ぜいたくなガラス製品によってヨーロッパ各国からベネチアへ流出する金額は莫大な額に達し,国家経済にも影響するほどまでになった。その結果,各国はガラス製品の自給を考えるようになり,ムラノ島からのガラス工人の引抜きを図った。

まずフランスで鏡の生産が始まり,それはやがてベネチアに代わってヨーロッパ市場を独占する。中部ヨーロッパのボヘミアでは,ビザンティン・グラスの技術導入のあった11世紀ころからの伝統の上に,ベネチアの技術を加えて16世紀ころより急速にガラス工芸を発達させた。とりわけ神聖ローマ帝国の首都がプラハに置かれた17世紀には,皇帝ルドルフ2世の芸術・学問の偏愛がボヘミアン・グラス(ボヘミア・ガラス)を大きく育成した。ここで作り出された無色透明のボヘミアン・クリスタルは,水晶彫りの名工レーマンKaspar Lehmann(1565ころ-1622)によるグラビール彫刻を加えて,豪華なテーブル・グラスを生み出した。それはハプスブルク家の王室をはじめ全ヨーロッパの宮廷で愛用されるようになり,ベネチアの独占体制は,あえなくボヘミアによって崩されていった。そしてボヘミアン・グラスの寡占体制も,19世紀初めの各国の保護貿易主義の動きの中で,厚い壁にぶつかり,衰退してゆく。

イギリスでは透明感と屈折率の高い鉛クリスタル・ガラスが1673年レーベンズクロフトGeorge Ravenscroft(1618-81)によって発明され,18世紀より高級テーブル・グラスを発達させた。ドイツ,ベルギー,フランスでも,それぞれ独自のガラス工芸が興隆してきた。そうした各国のガラス産業は新大陸アメリカにそのまま導入され,各地で各国風のガラスが作り出された。それらの国がらを反映したガラスが一応整理され,アメリカ独自の様式をもつガラスが誕生したのは,スティーゲルHenry William Stiegel(1729-85)によるいわゆるスティーゲル・グラスである。おおらかで細事にこだわらない素朴なアメリカン・グラスであった。しかしアメリカの合理主義はやがて金型(金属型)を使用した押型成形機を発明し,今日の完全自動成形への道を開いてゆく。

 こうしたヨーロッパ・ガラス工芸史の順当な発展の中で,19世紀末に突如として激変が起こった。フランスのÉ.ガレを中心とするアール・ヌーボーのガラスの出現である。古代ローマや中国の乾隆ガラス,そしてとりわけ日本の工芸品に触発されたガレは,中国風の色被(き)せガラスに日本的な造形と装飾モティーフを使って新しい形式のガラス作品を生み出し,1900年の万国博覧会場で発表した。その新鮮で高い芸術的水準はヨーロッパのガラスの世界に衝撃を与え,ガラス工芸に新しい動向を生み出していった。このアール・ヌーボーのガラスも,1904年ガレの死とともに急激に影をひそめ,代わって1910年代から,R.ラリックによるアール・デコ様式のガラスが出現した。この頃からガラス工芸は,一品制作を主体とする芸術的作品を作ろうとする工芸作家と,大量生産を前提とする工業デザイナーとの分化が始まる。第2次世界大戦後は,63年アメリカのトリードで,自らの工房で自らの手でガラス作品を作ろうというスタジオ・グラスを標榜するグラス・アーツ運動が,ラビーノDominick Labino(1910- )とリトルトンHarvey K.Littleton(1922- )らによって展開された。この運動はヨーロッパその他の国々にも伝わり,今日では世界的なひろがりをもって展開されている。
執筆者:

中国では陶器の製造技術と金属製錬の技術が古くから発達し,新石器時代には土器が出現し,それは仰韶文化期には彩陶に発展していた。これらの技術はガラスの製造に応用されたらしく,陝西省宝鶏,河南省洛陽などにある西周(前11世紀-前771)の墓から鉛ガラスの玉と管が発掘されている。この鉛ガラスにはバリウムという元素が含まれており,鉛ガラスが中国で独自に発明されたものかどうか議論が分かれている。戦国期から秦・漢代になるとガラス遺物の種類と色彩が増え,紺色,緑色などのガラスのほか多彩なトンボ玉も出土している。前代のガラスにはバリウムを含んだ特別な鉛ガラスが多いが,漢代以後はバリウムを含まない普通の鉛ガラスになる。漢代には装身具のほか,中心に孔のある円板状の璧(へき),棺の中に入れる副葬品などが現れ,また漢代に西域を通じて西方諸国と交易が始まると西洋のガラス(ローマン・グラス)が輸入される。

 三国,両晋,南北朝,隋代になると発掘された中国ガラスは少なく,西安の李静訓(隋,608没)の墓から出た緑色鉛ガラス製の小さな壺など数点が知られるにすぎない。西洋のガラス器も出土しているが,中国製のものは製作技術も劣り小型である。唐代になると記録は増加するが,考古学的に確実な発掘品は西安何家村の甕から出た碗など数点であり,この碗はササン朝時代のものと見られている。宋代のガラスとしては河南省と江蘇省の塔の下から発掘された舎利瓶があり,日本へ渡来したガラスとしては京都清凉寺の釈迦如来の胎内に納められていた淡紫色の舎利瓶(2個分の破片)と奈良伝香寺の地蔵菩薩の胎内にあった淡青色の舎利壺とがある。清凉寺の瓶は小型,薄手の鉛ガラス(山崎一雄の分析によれば酸化鉛55.8%を含む)製で985年以前の製作であり,伝香寺の壺は1228年の奉納でやはり鉛ガラスである。宋の後ではガラス製造は衰えたらしく,明代の終りになって西洋から製造技術が伝えられて再興され,清代になって最高潮に達した。中国のガラスの特徴は鉛ガラスが主になっていることである。清代のガラスについては〈乾隆ガラス〉の項を参照されたい。
執筆者:

漢代の文献に夜光璧とあるのは,おそらくガラス製の璧であろう。ガラスは中国で古く璧流離(へきるり)といい,また略して流離(瑠璃)といっている。この語源はサンスクリットのバイドゥーリアvaiḍūryaあるいは中央アジア系統語のベルールbelurなどと思われ,また一方,文献でも璧流離や夜光璧が外国産の珍宝とされているから,ガラスならびにその製作技術が西方から伝来したことをほのめかしている。河南省洛陽東郊の金村古墓からはガラスの璧のほかトンボ玉,ガラス製耳璫(じとう)すなわちイアリング,その他ガラスをはめこんだ銅器も発見されている。耳璫は朝鮮平壌郊外にある楽浪漢墓(前2~後3世紀)からも出土し,青色半透明のガラス製で鼓状または漏斗状の玉類で,その中心に縦の孔が貫いている。おそらく耳たぶに孔をあけてこの玉をはめ,そして玉に糸を通して何か別の装飾を耳下に垂らしたものであろう。漢代には中国とローマ東方領との交通も行われ,ローマのガラス器も中国に知られていたが,西域の隊商路も南海の市舶路も困難であったから,こわれやすいローマ・ガラスはあまり輸入されなかったに違いない。しかし西晋代(3~4世紀)になると外国人の中国移住が盛んになってガラス容器もしだいに輸入され,当時の貴族や文人の間に愛好された。これらの人々は酒宴に客を招き,珍蔵の瑠璃鍾(るりしよう)すなわちガラス瓶や瑠璃碗などを取り出して大いに客に誇示したのである。詩人潘尼(はんじ)の《瑠璃椀の賦》に〈流沙の絶険をわたり,葱嶺(そうれい)(パミール高原)の峻危を超ゆ〉とあり,いかにローマ・ガラスがはるばる危険を冒して中国に輸入されたか,またいかにそれが貴重であったかが推察される。北魏(5世紀)には大月氏国の人が魏都平城(山西省大同県城)に来て,初めてガラスの製造に従事したという。《魏書》によると,魏の天子は彼に命じてガラス張りの宮殿を造らせたところ,〈光色映徹し,観る者之を見て驚嘆せざるはなく,以て神明の作るところとなす〉というほどのできばえであった。おそらく分厚い板ガラスであったろうが,その実在を疑うには及ぶまい。彼は板ガラスのほかに容器も作ったらしく,同書に〈是より中国の瑠璃ついにやすし,人また之を珍とせず〉と記されている。このガラス工は果たしていずれの国人であったであろうか。当時大月氏国は存在していなかったから,彼はインド人かペルシア人か要するに西方ガラス工であろう。北魏のガラス製品はその遺品がまったくないため明らかでないが,朝鮮慶州金冠塚,金鈴塚などから出土したガラス器,たとえばガラス碗のように,外側に紺青(こんじよう)の小玉をはめ,形状がすこぶるローマ・ガラスに似ているものがあるが,その製作が素朴で空気孔の多いことなどから,この古墓が新羅時代すなわち5世紀ころと推定されることとあいまって,これがそのころの中国製ガラス器であると考えてもさしつかえないかもしれない。

 北魏時代の中国のガラス工芸は相当なものであったと思われるが,それも一時的現象であったらしく,《隋書》何稠(かちよう)伝に〈時に中国久しく瑠璃の作を絶つ,匠人あえて意をおくものなし,何稠緑瓷(りよくじ)を以て之をつくり,真と異ならず〉と記されている。すなわち陶磁でガラス器を模造したのである。しかし盛唐(7~8世紀)になると中国百般の工芸がかつてない大発達を遂げたから,ガラス工芸の復興も推測される。
執筆者:

朝鮮で出土したガラス器は,第2次大戦前に発掘された金冠塚2個,金鈴塚2個,瑞鳳塚3個,戦後に発掘された天馬塚(155号墳)2個,皇南洞98号北墳4個,同98号南墳5個の計18個に達するが,これらの古墳はすべて新羅の首都であった慶州にある。またこれらの器(コップおよび碗17個,水瓶1個)の大部分はローマン・グラスの系統で,これらの古墳がつくられた5~6世紀以前における新羅と西方諸国との文化交流を示している。金冠塚のガラス碗は中尾万三の分析によればソーダ石灰ガラスであり,他の器も同様な質のガラスと見られる。上記のほか,1959年慶州松林寺磚塔(せんとう)の中から黄金の厨子に入ったやや黄味を帯びる緑色のコップ形の器が発見された。この器は側面に正倉院蔵の紺色ガラス坏と同様,同色のガラスの環が溶着されており,内部には緑色小型の舎利瓶が入っていた。コップの材質は明確ではないが,舎利瓶は鉛ガラス製である。類似の舎利瓶は慶尚北道の4ヵ所の寺院塔址,全羅北道の石塔からも発見されているが,仏教伝来後のこれら舎利瓶は中国系統のガラスと考えられ,遺跡の年代も7,8世紀である。朝鮮で古く製作されたと見られるガラス器は知られていない。

縄文時代の遺跡からはガラス玉は発見されていない。福岡県春日市須玖岡本と同飯塚市立岩の弥生時代の甕棺遺跡から出土したガラス管玉は,中国戦国期の璧などと同じ組成のバリウムを含んだ鉛ガラスである。また同じ春日市から同質の鉛ガラスの勾玉とそれを鋳造した砂岩製の鋳型とが発見されていることは,ガラスの素材が中国から輸入されて勾玉がつくられたことを示している。管玉の方はそのまま輸入されたのか,国内で製作されたか明らかではない。古墳から出土するガラス玉は4,5世紀には青緑色,紺色のアルカリ石灰ガラスで,6世紀に黄色,赤色の玉が現れ,7世紀になると緑色の鉛ガラスの玉が出土するが,すべて輸入品と見られている。福岡県宮地嶽(みやじだけ)神社境内の古墳から発見された緑色鉛ガラス製の板(約18cm×10cm×1cm)は,おそらくガラス玉などを作る素材として輸入されたものであろう

 正倉院に保存される多数の玉は,濃緑,赤褐,黄褐などの色のものはすべて鉛ガラスで,青色中空の小玉のみがアルカリ石灰ガラスであり,すべて日本産の鉛鉱石を使って作られたものである。そしてその鉛含有量は,734年(天平6)の造仏所作物帳に記載されている処方から計算される値に近い。正倉院にはガラス玉のほか6点のガラス器,白瑠璃碗,白瑠璃瓶,白瑠璃高坏(たかつき),紺瑠璃坏,紺瑠璃唾壺(だこ),緑瑠璃十二曲長坏(ながつき)がある。このうち緑色の長坏は鉛ガラスであるが,他はすべてアルカリ石灰ガラスで,すべて外国の製品である。東大寺正倉院に納められた時代は,唾壺が治安1年(1021)平致経(むねつね)によって奉納されたという以外は明らかではない。江戸時代に安閑天皇陵から出土した白瑠璃碗は,正倉院に伝世した碗とまったく同形であり,第2次大戦後,イランで出土したカット・グラスとも類似していて,4~5世紀ササン朝のものとされている。

 奈良時代に盛んであったガラス玉の製造は平安時代に入ると衰え,現存する舎利瓶などの遺物も少数で,日本のガラスの歴史は空白の時代を迎える。さらに時代が下った室町,桃山時代には,来日したカトリック宣教師が西洋のガラス器を織田信長らに贈った記録があるが,実物は残っていない。江戸時代になると,西洋ガラス製造の技術がおそらく中国を通じて長崎へ入ってきた。これらはビードロ,ギヤマンなどと呼ばれて人々に大いに珍しがられた。長崎で興ったガラス製造は大坂,江戸をはじめ各地にその技術が伝わったが,薩摩切子もその一つである。日本のガラスの主流は中国と同じく鉛ガラスであった。明治維新後,1873年にはイギリスの技術者を招いて東京品川に工場(のちの品川硝子製造所)が造られ,これが多くの曲折を経て近代ガラス工業の母体となった。ガラス工芸に近代的な息を吹きこんだ最初の作家に各務鉱三,岩田藤七らがいる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガラス工芸」の意味・わかりやすい解説

ガラス工芸
がらすこうげい

ガラスは工芸の素材として、硬く、光沢があり、透明にも不透明にもなりうる独特の優れた性質をもっている。着色も比較的容易で、加熱により飴(あめ)状あるいは液状になり、種々の技法を用いて自由に成形ができる。反面、衝撃に対してもろく、修復がきわめて困難であり、良質の製品を得るためには高度の熟練と設備を要する。作品の表面が単調になりがちで、微妙な深みや変化に乏しいなどの欠点がある。

 以上の特質から、作品は、杯、皿、瓶、壺(つぼ)などの器類、灯器、装身具や護符、象眼(ぞうがん)用部品など小型のものが多い。また特殊な分野として、鏡、ステンドグラスなどがある。

[友部 直]

西洋

ガラスの起源については不明な点が多い。今日知られる限りでは、おそらく紀元前三千年紀の中ごろに、オリエント地域のどこかでガラスが生まれたとされる。ローマの学者プリニウスは『博物誌』のなかで、海岸に漂着したフェニキア人が、船の積み荷であったナトロン(天然炭酸ソーダ)で砂浜に窯(かまど)を築き、火を燃やしたところ、透明なガラスが生まれたと伝えているが、実際には、それよりはるか以前にガラスは誕生している。

 製造年代の確認される最古の例は、エジプト第18王朝のアメンヘテプ2世、トゥトメス3世の王銘をもつ脚杯などである。これらのガラス器は、棒の先端に泥やぼろ布を巻いて、溶けたガラスの中に浸し、引き上げて形を整え、冷却後に中の芯(しん)を取り除く、いわゆるコア・ガラスの手法で成形された。装飾には、器体に色の鮮やかな飴状のガラスの紐(ひも)を巻き付け、窯に入れて融着させるとともに、上下にひっかけて羽毛状あるいは鱗(うろこ)状の文様を得る方法が一般的であった。なお、コア・ガラスはメソポタミアでもみられ、イラクのヌジ(ヨーガン・テペ)、ウル、北部のアッシュールなどに出土例があるほか、テル・ウマールからは釉薬(うわぐすり)の材料と製法を記した粘土板が発見されている。

 溶けたガラスを型に流し込んで所要の器物を得る方法も広く行われた。ツタンカーメン王墓の出土品、たとえばマスク、棺、装身具、枕(まくら)などにみられる多くのガラスの装飾部品はその好例である。またアッシリア帝国のガラス器にカット技法が活用されたことが注目される。

 ギリシアでは一般にガラス工芸は不振であったが、ヘレニズム期に入って、地中海東部の諸市で急速に発展した。とくにシドンとアレクサンドリアは、多種多様なガラス製品の生産によって名高い。この地域で新たに開発されたミレフィオーリ(「千の花」の意)、モザイク・ガラス、カメオ・ガラスなどは、こののちガラス工芸の基本的な装飾技法となった。

 ローマ時代に入り、溶けたガラスをパイプの先につけて膨らませて所要の形を得る「吹きガラス」法が発明された。これによりガラス器は安価に効率よく生産されるようになり、日用品として広く普及することとなった。この時期のガラスをローマ・ガラスとよんでいる。3、4世紀ころが最盛期で、4世紀末のローマ帝国の分裂以後、急速に衰退する。

 中世のヨーロッパでは、ガラス工芸は不振であったが、東方のイスラム文化圏では、飲食器、灯器などの分野で活発な生産が続けられた。エジプトやシリアでつくられたモスク用のランプは、エナメル釉を活用した華麗な製品としてとくに名高い。

 これらのイスラム・ガラスの様式と技法は、十字軍の結果ヨーロッパにもたらされ、とくにベネチアをガラス工芸の大中心地とさせた。ベネチアはさらにローマ以来のガラス技法を復活させ、新種の透明ガラスを開発するなど、ガラス工芸の生産を国家の基幹産業として育成し、15、16世紀にはヨーロッパの高級ガラス製品の市場をほぼ独占するまでになった。この態勢は、職人たちの流出や製法の秘密の漏洩(ろうえい)などによって16世紀末ころには崩れるが、華麗なベネチア・ガラスの伝統は今日に至るまで続いている。

 一方アルプスの北方では、小規模な工場が森林地帯の各地で生産を続けていた。酒杯などの日用雑器が主であるが、木灰をアルカリとして多用した点に特色がある。「フランク・ガラス」「クロウ・ガラス」「バルト・ガラス」などが、この種の北方のガラスを代表する。なかでも15世紀ころから現れる「レーマー杯」は、当時の飲食風俗と結び付いた愛すべき製品である。

 より高品質のガラス器が北方で製作されるようになるのは16世紀中ごろからである。とくにボヘミアでは、プラハの宮廷を中心に、ベネチアに対抗しうる良質のガラス工芸の育成がみられ、透明度の高いカリガラスを素材に、グラビールやカッティングを生かした製品がつくられるようになった。また、多彩なエナメル絵付を施した「フンペン」とよばれる筒状の大杯など、新しい形式も生まれた。イギリスも、16世紀の後半、エリザベス1世の時代の開幕とともに、成熟した宮廷文化を飾るものとして、高級なガラス器、とくに酒杯の生産が伸展した。17世紀に入ってジョージ・ラベンスクロフト(1632―83)が鉛クリスタルガラスを発明し、多種多様な酒杯によって、近世のガラス工芸史に一分野を確立した。いわゆる「ツイスト・ガラス」が代表的な例である。1780年ころにはアイルランドで、鉛クリスタルによるカットガラスの生産も盛んになった。

 産業革命はガラスの生産方式に大きな影響を与えた。燃料として石炭が多用されるようになり、蒸気機関が強力なプレスや回転砥石(といし)の出現を導いた。一方、ガラスは成形や加飾の段階で手仕事の比重が大きいため、近代のガラス工芸は、規格化された量産品と従来の方式による手仕事の製品とに大きく二分されることとなった。19世紀の後半から今日までのガラス工芸の様相は、この状況をよく示している。アメリカで発達したプレス・ガラスは前者の例であり、ガレやドームに代表されるアール・ヌーボーの作品や、いわゆる「ステュディオ・ガラス」の製品は後者の好例である。わが国の場合も含めて、今後もこの傾向は続くものと考えられる。

[友部 直]

中国・朝鮮

中国におけるガラスの起源については不明であるが、それが西方から伝来したものであることは疑いない。戦国時代末に属する洛陽(らくよう)県金村の墓から、蜻蛉玉(とんぼだま)、耳璫(じとう)(耳飾りの一種)、璧(へき)などが出土している。漢時代以降、ローマ・ガラスが交易品として組織的にもたらされ、その技法も導入されたと推定される。魏晋(ぎしん)南北朝には無色のガラス器もつくられている。

 朝鮮半島では、漢の影響下にあった楽浪(らくろう)の遺跡から種々のガラス製品が出土しているが、その後を継いだ新羅(しらぎ)の墳墓群、とくに金鈴塚、瑞鳳(ずいほう)塚、金冠塚などから碗(わん)や脚付き杯が発見されている。これらは日本における古代ガラスの伝来経路を考察するうえでも貴重な資料である。

 中国のガラスは唐時代にも引き続き盛んであったらしいが、その後の状況は遺例が乏しく、正確には不明である。明(みん)時代に入り、近世ヨーロッパとの交流が活発となるに伴い、ガラス生産は急速に伸展し、さらに清(しん)時代になると、宮廷がガラス産業を育成するようになり、康煕(こうき)帝の治下1680年には国営工場の設立をみた。当時の製品は、有色不透明のガラスによる容器、皿、壺などが主で、特殊なものとして鼻煙壺(スナッフ・ボトル)がある。乾隆(けんりゅう)帝治下にもっとも優れた作品が生まれ、今日でも高く評価されている。

[友部 直]

日本

日本におけるガラスの使用は、弥生(やよい)式文化の北部九州において始まったと推定される。ガラス製の璧、小玉などが須久(すく)地域の遺跡から出土している。これらは、材質、形態とも漢代のものに酷似しており、舶載品と考えられる。古墳時代に入り、小規模なガラス製造が開始されたらしく、小玉、勾玉(まがたま)、腕輪などに日本製と思われるものが出現する。

 奈良時代には、ガラス製造はいっそう伸展し、仏教の普及とともに、仏像の荘厳具(しょうごんぐ)、骨壺、舎利(しゃり)容器なども製作されたと思われるが、確実に本邦産と確証しうる大型の製品は現存しない。正倉院には、有名な白瑠璃(しろるり)碗をはじめ多数のガラス容器が収蔵されているが、これらはすべて中国あるいはさらに西方からの伝来品と考えられる。

 平安時代以後、陶器、磁器の発達とは逆に、わが国におけるガラス工芸はきわめて不振であったが、16世紀中ごろから始まるヨーロッパとの接触が、日本人にガラスに対する新たな目を開かせた。たとえば宣教師フランシスコ・ザビエルは、大内義隆(よしたか)に遠眼鏡(とおめがね)や鏡を贈り、人々を驚かしたことが知られている。17世紀に入り、オランダとの交易によってガラス製品が普及し始め、江戸時代の人々はそれをビードロ、ぎやまんなどとよんで珍重した。ガラスの製法もおそらく長崎に伝わり、やがて大坂、江戸でも各種の器、装身具などがつくられるようになった。とくに薩摩(さつま)の島津家では、製薬などの必要もあって、藩の公的な事業として1855年(安政2)にガラス工場集成館を開設した。この工場は永続しえなかったが、日本の近代ガラスの先駆的な存在として、その意義は大きい。

 明治維新以後、ガラス工芸は、生活の欧風化とともに発展、普及し、とくに第二次世界大戦後は、日常生活に不可欠のものとして定着し、現在に至っている。

[友部 直]


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百科事典マイペディア 「ガラス工芸」の意味・わかりやすい解説

ガラス工芸【ガラスこうげい】

西洋では古代エジプトに原始的な砂芯(さしん)法によるガラス器が生まれ,ローマ時代にはフェニキアのガラス製造の中心地シドンがローマ領になって盛んになり,また紀元前後には宙吹きガラスの製法が発明されて日用雑器が大量に製作された。ローマ帝国分裂後コンスタンティノープルを中心にビザンティン・ガラスが作られ,モザイクの色ガラスも出現。近世ではベネチアが盛んとなり,15世紀にはクリスタルガラス,レンズを発明,16世紀には透明ガラスに白色のレース状模様を入れる手法を考案するなど発達をきわめた。17世紀に入って各地で技術が発達し,フランスは鋳造板ガラスや銀引きの技法を開発,ボヘミアカット・グラスの製法によってベネチアを追い越し,英国は鉛ガラスの発明によって美しい精巧なカットのガラス器への道を開いた。日本では古墳時代に装身具が作られ,奈良時代には仏像・仏具の装飾品が作られた。正倉院の水さし,高坏(たかつき)などのガラス器はペルシアから中国を経て渡来したもの。近世になって西欧,おもにオランダからガラス器を輸入,〈ビードロ〉〈ギヤマン〉と称して珍重した。18世紀ごろからガラス器の製作が始まり,19世紀には薩摩切子(さつまきりこ),江戸切子と呼ばれる精巧な工芸品が生まれた。
→関連項目ガラスパート・ド・ベール

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガラス工芸」の意味・わかりやすい解説

ガラス工芸
ガラスこうげい
glassware; glass craft

ガラスは文明発祥地のオリエントで最初に作られ,宝石,貴金属と同様に珍重された。エジプトの最古のガラス製品はビーズ玉で前 1500年以前にさかのぼる。バビロニアで発見されたガラス棒は前 2100年代のものと推定される。ガラス器は前 1500年頃から作られ,テル・エル・アマルナにはガラス工房があった。紀元前後にはアレクサンドリアや地中海東岸の諸都市が製造の中心地となり,吹きガラス法や型押し法などの技法が発達した。ローマン・ガラスは海路とインド,アフガニスタンの山路を通って中国に運ばれ,琉璃 (瑠璃 ) と呼ばれた。古くは戦国時代の墳墓からガラス玉類が出土している。漢とローマの交易が始ると中国のガラス製品も多くなり,日本にももたらされた。弥生時代のガラス製小玉,璧 (へき) ,管玉などの出土品,古墳時代のガラス製勾玉やトンボ玉の出土もあり,国産の可能性もあるが断定できない。正倉院文書によれば,8世紀には確実にガラスの製造が行われていたが,多くは玉類で,仁徳,安閑天皇陵出土のガラス碗や,正倉院のガラス器などは輸入品である。近世,近代の西洋のガラス工芸は,13世紀頃からのベネチアに端を発し,それが全ヨーロッパ,全世界に広がっていった。 19世紀後半に入って多くの作家が輩出し近代化が進んだ。

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世界大百科事典(旧版)内のガラス工芸の言及

【イスラム美術】より

…工芸諸分野における一つの共通した特徴は,装飾面全体を種々の装飾モティーフですきまなく覆う,過剰とも思える装飾で,これによって,器物本来の性質,質感,機能性などが著しく損なわれる結果を招いている。イスラム工芸には,金属工芸,陶芸,染織,ガラス工芸,象牙細工,木工芸などの分野があり,とりわけ,金属工芸と陶芸が高度の発達を遂げて,東西両洋の美術に少なからず影響を与えている。
[金属工芸]
 金工においても,ササン朝ペルシア,ビザンティン,コプトなどイスラム以前の伝統が継承された。…

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