改訂新版 世界大百科事典 「キリスト教文学」の意味・わかりやすい解説
キリスト教文学 (キリストきょうぶんがく)
イエス・キリストの死後,はやくも1世紀の半ばから,使徒たちの布教活動にともない,ローマおよび帝国の西半へもキリストの信仰は浸潤していったが,その伝道者はギリシア語を常用する者が多かったので,西方教会でもギリシア語の勢力が強かった。キリスト教文学が最初の1~2世紀間もっぱらギリシア語によっていたのは,このような事情にもよるものである。しかしラテン語使用の端を開いた雄弁家テルトゥリアヌスより以前に,ラテン語訳聖書《ウルガタ》の原型,いわゆる《イタラ》は始められていたらしい。3世紀に激成された帝国の不安は4世紀にはいちじるしく進行して地方の分立が目だち,教義上の文献もラテン語によるのが通例となった。多くの教義的な著作を残したカルタゴの司教キプリアヌス,護教家として知られるミヌキウス・フェリクスMinucius Felix(3世紀初めころ),《神の教え》7巻のほか,殉教者列伝など多くの著述をもち,〈キリスト教のキケロ〉と呼ばれたラクタンティウスらは,この時代に属する。しかも以上の4人とも属州アフリカの出身であるのは注目に値する。
これにつづく4世紀は,3人の特筆すべきキリスト教作家を出した。年代的にも接近して現れたアンブロシウス,ヒエロニムス,アウグスティヌスがこれである。この3人はみな護教活動のほか,多くの著述や大部な書簡を残しているが,アンブロシウスはまた賛美歌創始者の一人として知られ,その作になる《世界の永遠なる造り主》ほか多くの詩は,広く一般に用いられ,多くの模倣者をさえ出した。ヒエロニムスがラテン語聖書《ウルガタ》の訳者として,アウグスティヌスが《神の国》や《告白》などの著者として,いずれも重要であることは,いうまでもない。しかし,これらはまだ初歩的で,キリスト教詩もプルデンティウスによって初めて文学の域に達する。彼はスペインの生れで信仰心が深く,晩年賛美歌の制作に没頭した。ヘロデ大王の幼児虐殺を詠じた《殉教者の花,暁の閾(しきみ)に剪(き)り取られた,まだ咲きかけのバラのつぼみよ》,あるいは《死者を葬るための歌》,12人の殉教者を詠じた《栄冠について》などはことにすぐれている。フランスのボルドーに生まれた,ノラのパウリヌスも彼につづくすぐれたキリスト教詩人であるが,さらに優しい心情で聖フェリクス誕生の祝歌や,キリスト者の婚礼歌などをつくっている。
これにつづく5~6世紀は,帝国西部がゲルマン民族に攻略され,不安と騒乱に陥った時代で文学もまったく衰えたが,信仰の情熱は対比的にはげしくなり,アウグスティヌスの弟子である護教家オロシウスや,《神の統治について》などの著者サルウィアヌス,最もキリスト的な詩人といわれるセドゥリウスSedulius(470年ころ活動),散文では《哲学の慰め》で知られるボエティウスや,《教会史》を著作目録に含むカッシオドルスがあり,布教活動の面では,5世紀の教皇レオ1世ののち,ベネディクト会をはじめたベネディクトゥスと教皇グレゴリウス1世が特筆に値する。この3人はいずれも教義の確立や修道会の規制のため,説教,論説,書簡など多量の著述をもったが,ことにベネディクトゥスの〈修道会会則(ベネディクトゥス会則)〉は後世に大きな影響を与えた。一方《哲学の慰め》は殉教の書というべく,中世・近代を通じ多数の読者に深い感動を与えている。詩人としては有名な聖十字の賛歌《王者の旗は進みゆく》などの作者フォルトゥナトゥスのほか,コルンバらのアイルランド教団の人々の活動がいちじるしい。
これにつづく数世紀は,いわゆる中世の暗黒にようやく平和と文運の曙光がきざした時代で,ことにイギリス,フランスを中心に教学の復興が企てられ,カール大帝の即位した800年は,カトリック文学にとっても記念すべき年であった。まず7世紀にイギリスでは,《教会史》ほか多くの著作をもつベーダと,シャーボーンの司教でギリシア語とラテン語をよくし,長詩《聖処女賛頌》などを書いたアルドヘルムが相対して出た。後者の高弟がカール大帝の文教政策に参じたアルクインである。この時代にイギリスは,古代英語で宗教詩を制作した2人の詩人,キャドモンCaedmon(7世紀末)とキネウルフ(8世紀末)をもったことも注目に値する。
カールの朝廷に集まった多くの文人中,詩人として名高いのは復活祭前主日の賛歌《栄えと称賛,誉れとを享(う)けたまえ,あがない主キリストよ》などの作者オルレアンのテオドゥルフTheodulf(750ころ-821ころ)やアンギルベルトAngilbert(745ころ-814)らであるが,《ランゴバルド史》の作者パウルス・ディアコヌスPaulus Diaconus(720ころ-797ころ)にも《大教皇グレゴリウス伝》や,8音階の源となった《バプテスマのヨハネへの賛歌》などの詩がある。アルクインの流れは多くのすぐれた宗教詩人を生み,中でもフルダ修道院によったラバヌス・マウルスやゴットシャルク,ワラフリド・ストラボWalahfrid Strabo(808か809-849)は,それぞれ敬虔な,あるいは哀切な,また優雅な賛歌の作者として知られる。ほぼ同代に詩人セドゥリウス・スコトゥスSedulius Scotus(9世紀半ば),エリウゲナがあり,後者は多くの思弁哲学や神学の著述で中世学界に重きをなした。この時代にようやく芽ばえたドイツ文学にも,オトフリートの《福音歌》,低ドイツ古語による《救世主》の宗教的記念碑がある。
つぎの世紀はオットー1世による文教の復興期で,各地の修道院を中心に詩人・学者が輩出したが,中に特筆すべきは,中世ラテン宗教劇の圧巻であるガンダースハイムのロスウィータの多く殉教者伝に取材した6編の散文劇と,教会音楽に重要な地位を占めるミサの続唱(セクエンティアsequentia)の発展である。これはすでに9世紀後半ノトカーBalbulus Notkerらを先行者とし,ザンクト・ガレン修道院から各地へ広がり,やがて12世紀に〈やさしきイエスの思いは〉の《バラの続唱》(作者不詳),つづいて〈来ませ尊き御霊〉の《黄金続唱》(S. ラングトンまたは教皇インノケンティウス3世作)などを生んだ。なおロスウィータには《聖女アグネスの殉教》《聖ペラギウス伝》などの作もある。ザンクト・ガレンは11世紀初めに寺伝の有能な編者エッケハルト4世Ekkehart Ⅳ(980ころ-1060ころ)をもった。つづいて冷厳な雄弁僧ペトルス・ダミアニ(《歌の中の歌》その他の作者)や,カンタベリー大司教であったランフランクLanfranc(1005ころ-89),アンセルムスの両権威,なかんずくパリ大学に多くの聴講者を集めたアベラールとその論敵で当時教界の重鎮であったクレルボーのベルナールらが次代を代表する。ことにアベラールとその愛人エロイーズの悲痛な恋愛の物語は人々にあまねく知られ,2人が交換した多くの書簡,とりわけ第1の《わが不幸の物語》は,中世宗教文学に異彩を放っている。彼にはなおエロイーズのために書いた多くの賛歌があり,中にも《ダビデの嘆きの歌》はすぐれている。なお前述の《バラの続唱》はベルナールの作ともいわれる。
13世紀はキリスト教文芸復興として,多くの有名な神学者,論説家が輩出した。アルベルトゥス・マグヌス,その弟子であるトマス・アクイナス,フランシスコ会のR.ベーコンらはそのおもな者であるが,トマスには教皇ウルバヌス4世の命で聖体日のために作った数編のすぐれた賛歌や続唱があり,ことに《シオンよ,救主をたたえまつれ》は美しい詩である。しかし中世を通じ最大のラテン宗教詩は,トマーソ・ダ・チェラノTommaso da Celano(1190ころ-1260ころ)の作とされる《怒りの日》で,最後の審判の日を歌い,今でも死者の葬送法会に常用される。ヤコポーネ・ダ・トディJacopone da Todi(1230ころ-1306)の《聖母受苦頌》も,これにつぐ有名な詠唱である。
中世を通じて多くの聖人伝,殉教者伝,奇跡物語が制作された中で,その初期に異彩を放つのは作者不明の《聖女ゲノウェウァ伝》で,ほぼ8世紀ころにさかのぼると考えられ,俗語でもすでに11世紀にかなり文学的な《聖アレクシ伝》がある。ことにハイステルバハのカエサリウスCaesarius(1180ころ-1240ころ)の《奇跡問答》は,多数の興味あるエピソードを集めて広く愛読された。また13世紀末ころに編さんされたと思われる《ローマ人事績》は,古今の逸話およそ180編を集め,内容も雑多ではあるが,イギリスの学僧の手に成ると思われ,宗教的な敬虔が全般をおおい,宗教文学といわれるべき条も少なくない。一方イタリアに出た2人の修道会開祖,フランチェスコとドミニクスは,いずれもラテン語あるいはイタリア語で,教義や修道会会則,説教等を著した。中でも,フランチェスコの特異な人柄,その清貧の教えはその言行を録した《完全の鑑》に現れ,ことにイタリア語をもってした《太陽の歌》の〈いと高く,全能にまし善なる主よ〉は,中世を通じて最も浄(きよ)らかな歌の一つである。国民文学は,その傾向上,世俗文学に流れやすいが,それでも中には〈武勲詩〉中の《アミとアミール》の物語,エッシェンバハのウォルフラムの聖杯探求の物語《パルツィファル》,ことに同じく13世紀初めころアウエのハルトマンの清純な愛と奇跡の物語《哀れなハインリヒ》は,高揚した宗教的雰囲気に包まれている。また〈武勲詩〉中の傑作である《ローランの歌》(11~12世紀初め)も十字軍の理想を掲げ,教会の宣伝である点において,すぐれて宗教的な作品といえよう。
これにつぐ時代はイタリアを中心とするダンテやペトラルカの活躍をみるが,その道程には,この清新の歌風をイタリアへもたらしたグイード・ダレッツォ,グイニツェリGuido Guinizelli(1230から40-76)らがあった。グイードはソネット詩の作者で,中年に妻子を捨て修道会にはいった者,宗教的あるいは倫理的な主題を用い,グイニツェリも哲学詩,思想詩をよくして,ダンテの尊敬を得ている。中世最大の詩人というべきダンテはフィレンツェに1265年に生まれ,当時の混乱した市政に悩まされたが,その主作《神曲》が,〈地獄篇〉〈煉獄篇〉〈天国篇〉の3編,合わせて100節から成っているごとくに,古今東西の事績を自身の道徳的・宗教的見解に従ってその中に分列あんばいしたもので,その文学的な評価とともに,きわめて厳粛かつ高貴な宗教的情熱においても,古今に卓越するものをもっている。これに先んじる《新生》《饗宴》の両編にもその純愛を聖化しようとの意図が十分にうかがわれる。ペトラルカもその賛歌のほか,《世界の侮蔑について》その他の教論をもっている。しかし宗教的という点でさらに注目すべく,現代まで深い影響を与えているのは,ライン地方ケンペン出身の一修道士トマス・ア・ケンピスの信仰表白とされる《イミタティオ・クリスティ》で,世の煩いを避けキリストに安心を求めるその堅信と謙虚とは,多くの愛読者をもっている。なお,世俗化が進むとはいえ,近世以降のキリスト教文化圏における文学的営為をも,広く〈キリスト教文学〉と考えることができよう。これについては各国文学の項目を参照されたい。
執筆者:呉 茂一
日本におけるキリスト教文学
〈キリスト教文学〉というものを広義にとれば聖書そのもの,さらには使徒や教父たちの文書や聖人伝,キリスト教にかかわる宗教家・思想家の著作をすべて含むこととなる。また狭義にみればキリスト者としての作家・詩人の純文学的な著作をさすことになる。ただし文学なるものの内実としては,信仰の有無にかかわらず,キリスト教思想を軸とした文学表現のすべてにかかわることになろう。ここでは狭義のキリスト教文学の,日本における近代以降の展開を中心として概観を試みることとする。
さてその場合,〈近代〉といい,〈文学〉といい,それ自体が,自由なる個としての人間存在そのものに深く根ざす問いを含んでいるとすれば,〈キリスト教文学〉とは単に護教的文学ならぬ,宗教と文学の両者をめぐる対峙相反のダイナミズムをもかかえ込んだものとなる。これを近代思想史あるいは精神史の展開とからめていえば,近代ヒューマニズムの母体ともなったプロテスタンティズムはひとつの社会倫理としての,よりアクチュアルな文学活動を生み出すとともに,その流れとしてのピューリタニズムは文学における理想主義,ロマン主義を生み出す契機ともなった。また反面そのピューリタン的リゴリズムは,近代ヒューマニズムに根ざす文学と対立せざるをえなかった。これに対してカトリシズムの持つ感覚的世界や芸術活動に対する寛容性は,近代社会の爛熟とともに出現した耽美的作家や頽唐派詩人たちの〈深き淵より〉のうめきをさえ宗教的神秘や芸術的荘厳をもって彩ることを許した。こうしてさらに〈アウシュビッツ〉以後,〈広島〉以後ともいうべき現代の,よりグローバルな〈黙示録〉的状況に至るや,文学と宗教をめぐる問題もまた美や倫理の次元を超えた存在論的状況へと踏み込んでゆくこととなる。近代日本におけるキリスト教文学の受容と展開にもこの軌跡のまぎれもないひとつの縮図を読みとることができよう。
まず1880年代の後半から90年代(明治20年代)の理想主義文学の提唱,さらにはロマン主義文学の台頭にキリスト教思想の影響は深く現れる。植村正久,内村鑑三の両者を挙げて〈今や我国に於て基督教文学の代表者として二人を得たり〉とは徳富蘇峰の言葉だが,たしかに植村の文業を抜きにして明治期,特に20年代の文学史的意義にふれることはできまい。そのすぐれた旧約の《詩篇》《雅歌》などの翻訳,さらには《新撰讃美歌》(1888)にみる流麗な訳詩は,明治の新体詩に深い影響を与えた。加えてワーズワース,A.テニソン,R.ブラウニングをはじめとする外国文学の紹介・批評をつらぬく〈文学上の理想主義〉は,当時の文壇の卑俗な写実性・戯作性への痛烈な批判となるとともに,《文学界》一派のロマン主義運動を生み出す媒介となった。また蘇峰とならぶ民友社の論客山路愛山をして〈内村君の文章は実に日本文学の逸品なり〉と言わせ,若き日の正宗白鳥に聖書や《神曲》とともに第一等の文学と思わせた内村の《基督信徒の慰》(1893)をはじめとする一連の著作は明治・大正期の文学者に多大な影響を与えた。ただ宗教的リゴリズムをもって文芸の毒をきびしく批判した内村に対し,植村はむしろこれを宗教的・精神的啓蒙の具としたところに,民友社の蘇峰や愛山らにもつながる功利的文学観が見られる。これと相対立したのが《文学界》一派,特に北村透谷であり,愛山との間に文学の〈人生に相渉るとは何の謂ぞ〉という問題をめぐっていわゆる〈人生相渉論争〉が展開するが,その応酬のなかで透谷は文学の自律を説き,《内部生命論》(1893)を著した。
ここにも明らかなごとく明治20年代より盛んとなった自由主義神学,さらにはユニテリアンの思想は透谷をはじめ島崎藤村,国木田独歩らにも深い影響を与え,日本の土着の心性ともからんで一種の汎神論的思想や運命論的諦観へと彼らを傾斜させた。これは彼らに最も影響を与えたカーライル,エマソン,ワーズワースなどの受容にあたって,その深い文明批判の波をくぐった思想性・形而上性よりも,より主情的なものに傾いたことにもうかがえる。たとえば独歩の場合,カーライルの中心的思想を述べた《衣装哲学》や《フランス革命史》よりも,より通俗的な《英雄論》に,またワーズワースでもその叙事詩的な三部の大作《序曲》14巻以下の思想的内面性よりも,その抒情詩に見る悲哀の情感への共感を示した。エマソンの《自然論》に深く啓発されたという岩野泡鳴の場合もその《神秘的半獣主義》(1906)の語るごとく,形而上的感化よりも日本的生命主義とも呼ぶべき人間主義へと傾き,ついには古神道的思想へと走ることになる。このキリスト教思想からの離反・逸脱は独歩,藤村,泡鳴をはじめ徳冨蘆花や木下尚江ら多くの文学者に見られるところであり,キリスト教と日本的心性をめぐる対峙相反の矛盾はひとり明治期のみならず今日にまで至る問題であろう。
このようにキリスト教思想の受容が自己の存在や思想を根源から問い返す対自的契機となることを困難にし,即自的志向へと流れさせる土着の心性との真の対峙相克,さらにはその止揚こそ今日に残された未完の課題でもある。同時にまた一面,キリスト教の社会的倫理観は社会主義文学の先駆ともいうべき木下尚江や徳冨蘆花の文学を生み,その人道主義的系譜は武者小路実篤,志賀直哉,有島武郎らの白樺派(《白樺》)にも流れてゆくが,ここでも内村の影響の深さが注目される。ただ大正期に入ってこれら理想主義,人道主義の流れとは別にキリスト教思想とのかかわりが,より実存的な深さを示すようになる。すなわち〈浄罪詩篇〉を含む《月に吠える》(1917)によって現代詩への発端をひらいた萩原朔太郎や,遺稿《歯車》や《西方の人》に聖書によって問われる人間の実存的苦悩を描いた芥川竜之介などの登場が注目される。この系譜は昭和に入っては中原中也や太宰治の文学につながり,芥川における東方と西方の対立はその弟子堀辰雄を経て戦後の福永武彦や遠藤周作まで受け継がれてゆくこととなる。ただこれら大正から昭和にかけての文学者たちのほとんどがキリスト者ではなかったのに対して,戦後文学が椎名麟三,遠藤周作,曾野綾子,小川国夫をはじめ多くのキリスト者作家を生み出していることは注目すべきであろう。これは椎名におけるドストエフスキーや遠藤におけるF.モーリヤックの受容にもみられるように,大戦後の状況のなかで文学と宗教をめぐる問題が日本でも,ようやく存在論的視角を持ちはじめたことの証左でもあろう。
→キリスト教
執筆者:佐藤 泰正
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