ゲルマン人(読み)ゲルマンじん(その他表記)Germanen[ドイツ]

精選版 日本国語大辞典 「ゲルマン人」の意味・読み・例文・類語

ゲルマン‐じん【ゲルマン人】

  1. 〘 名詞 〙 ゲルマン民族に属する人々。ゲルマン
    1. [初出の実例]「ゲルマンじん Germans 人 アリアン人種の一支族、主として西欧地方に分布し、其気風習俗はスカンヂナヴィヤ半島、及びイギリス、ドイツ等に伝はる」(出典:大増補改訂や、此は便利だ(1936)〈下中彌三郎〉)

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改訂新版 世界大百科事典 「ゲルマン人」の意味・わかりやすい解説

ゲルマン人 (ゲルマンじん)
Germanen[ドイツ]

インド・ヨーロッパ語族に属する言語を用いる群小部族集団の総称。言語系統としては,ケルト人やイタリキと親近関係にあるともされている。ゲルマンという呼称の由来は不詳であるが,この語が文献上最初にあらわれるのは,前80年ころ,ギリシアの歴史記述家ポセイドニオスが,前2世紀末におけるゲルマンの小部族,キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリアへの侵寇を叙述した記録においてである。もっともそれ以前,前4世紀の末に,マッシリアマルセイユ)にいたギリシア人航海者ピュテアスが,ノルウェーユトランド半島に出向いた際の記録の一部が残っているが,そこではまだそこに住んでいた民族について,ゲルマンという呼称は使われていない。

 考古学的出土品を根拠に,新石器時代までさかのぼって,ゲルマン人の居住分布が推定されるが,それによると,ゲルマン人の原住地は,南スウェーデン,デンマークシュレスウィヒ・ホルシュタイン,並びにウェーザー,オーデル両川にはさまれた北ドイツを含む一帯の地域であったというのが,現在の定説である。この原住地から,青銅器時代の末,ゲルマン人は東方に向かってはオーデル,ワイクセル(ビスワ)両川の流域に移動し,前200年ころにはその一部は遠く黒海沿岸にまで達した。また南方に向かっては,前113-前101年にかけ,ユトランド半島から出た前述のキンブリ,テウトニの両族が,ケルト人が住んでいたガリア,イベリア半島の各地を転々と移動し侵寇したことがある。さらにまた前71年には,スエビ族Suebiの長アリオビストAriovist(生没年不詳,ラテン名アリオウィストゥスAriovistus)が一族をひきいてライン川上流を越えガリアに侵入したが,やがてカエサルの軍隊により撃退された。

 こうしてローマの盛時といわれるアウグストゥス帝の時代に入ると,ローマはエルベ川とその支流モルダウ川から,ドナウ川を結ぶ線まで,帝国の境界を広げようとしばしば兵を出した結果,ライン,エルベ両川間のゲルマン諸族は,しばらくローマとゆるい従属関係を保ち,その間だけは大きな紛争はなかった。ところが後9年,ローマの総督ウァルスPublius Quintilius Varusが,トイトブルクの森で,ケルスキ族の長アルミニウスの軍の奇襲をうけて大敗を喫して以来(トイトブルクの戦),ローマは守勢に転ずることとなり,ライン川の中流からドナウ川の上流に達する三角地帯に長城(リメス)を築いて,ゲルマン人の侵入に備えることとなった。ローマはまたライン川左岸に下ゲルマニア,上ゲルマニアの二つの属州を設け(ゲルマニア),三角地帯のデクマテス地方に多数の城砦を築いたため,これらの地域にはローマ文化の影響が色濃く印せられた。それ以来,ゲルマン諸族に対するローマ帝国の国境線は,民族大移動のはじまる4世紀末に至るまで,長くライン川,リメス,ドナウ川を結ぶ線と考えられるに至ったのである。

考古学,言語学,地質学その他のいわゆる歴史補助学が発達したこんにちでは,ゲルマン人の先史時代についても,それぞれの専門分野から各種の研究がなされているが,その政治・経済・社会・文化の大要をうかがうためには,どうしても文献史料によらなければならない。文献史料には,前4世紀以来ギリシア語またはラテン語で書かれたきわめて断片的なものがいくつか残っているが,それらは別として,ゲルマン人の生活を最も具体的または総括的に述べた重要な文献は,なんといっても前1世紀の中葉にものされたカエサルの《ガリア戦記》と,後1世紀の末葉に書かれたタキトゥスの《ゲルマニア》の二つである。この紀元前後1世紀の2著作のあと,4世紀の民族大移動までの間の史料がきわめてまれであるため,歴史家はカエサル,タキトゥス時代のゲルマン社会を通常〈古ゲルマン社会〉と呼ぶ。なお古ゲルマン人のものの考え方や社会のあり方を推測する史料として北欧の〈エッダ〉や〈サガ〉,あるいはイングランドの《ベーオウルフ》などが挙げられるが,これらはいずれも後世の文学作品であるため,あくまで副次的なものとして援用されるべきである。

 さてカエサル,タキトゥスなどの記述からうかがいうる当時のゲルマン社会は,原始未開の氏族社会でもなければ,遊牧民の共産社会でもなかった。それはすでに長い前史をもつ定着的な農耕と牧畜を主業とする社会であり,地理的な事情もあって北東部諸族の間では,南西部におけるよりも牧畜が重視されていた。氏族(ジッペ)の遺制とその観念は,たとえ擬制的なものであるにせよ,農村の生活,戦闘のやり方,私法上の諸慣習にかなり濃厚にみうけられるが,しかしそれらを越えた政治的なまとまりがあり,その公的な制度と秩序は厳然と保持されていた。そうした政治的まとまりは,全ゲルマニアをうって一丸とした領域国家ではなしに,ローマの著述家によりキウィタスと呼ばれた小国家の分立であり,しかもそれは地縁的なまとまりというよりも,本質的には人的な結合体という性格の強いものであった。

 キウィタスの数は,タキトゥスの記述にみえるものだけでも50を超え,そのあるものは数個合して祭祀共同体をつくっていたが,政治上の単位はあくまでもキウィタスであった。国家の最高意志は,支配者により一方的にきめられるのではなく,一定の資格をそなえた武装能力のある成年男子全体の総会である民会できめられた。キウィタス内部は,一般にはパグスpagusまたはガウGauと呼ばれる幾つかの小単位に分かれ,パグスはさらにフンデルトシャフトに分かれるといわれる。しかしこの三つの関係は必ずしも画一的でなく,ローマに近い南西部にあっては,キウィタスはおおむね小邦であり,キウィタスとパグスの領域が合致するもの,あるいはパグスとフンデルトシャフトとが合致するケースもまれではなかった。これはパグスが元来首長princepsまたは小王Gaukönigの統治領域の概念であるのに反し,フンデルトシャフトが兵制および裁判の必要にもとづく人的団体と考えられたからであって,三つの団体を単純に上下の行政区分とみるのは誤りである。またフンデルトシャフトの規模は,のちに密集村落となる数個または十数個の部落から成り立っているのが一般であった。

 古ゲルマン時代の身分関係は,貴族をふくむ広義の自由民,解放奴隷,奴隷に分かれ,貴族と一般自由民の成年男子によって前述の民会が構成され,そこで王(レクスrex)または複数の首長が選出され,国家の大事が議せられた。したがって法理的にその統治権,軍司令権,財政制度などをみれば,王制のキウィタスと首長制のキウィタスの2種があったといえるが,当時の民衆の国家観に即していうならば,この両者の差はさほど根本的なものではなかった。なぜなら,ゲルマン人には一般に民会中心の合議的精神が強い反面,家柄重視,血統重視の貴族主義的伝統が強く,王族は首長族と通婚し,ともに特別の尊敬をうけ,国家不可分の統治権者である王に対すると同様,民衆は首長をもって各パグスの王,つまり小王と考えていたと思えるからである。

 それゆえ古ゲルマン時代をもって,かつて学界の通説であったように,自由農民の平等社会とみることは明らかに誤りであるが,同時にまた,当時の奴隷をもってギリシアやローマの古典古代的意味での奴隷と等置することもまちがいである。現にタキトゥス自身,ゲルマン社会の奴隷に関し,はっきりと〈われわれは(奴隷を)ローマの風習のごとく家中の仕事をあてがって使役するのではない。彼ら奴隷はおのおのみずからの居所を持ち,みずからの世帯を営む。主人は借地人(コロヌス)に対するごとく,一定量の穀物・家畜あるいは織物を課し,奴隷は単にこの限りで服従するにとどまり,家の他の仕事は主婦や子どもが執りおこなう。奴隷を鞭うち,鎖につなぎ,かつは労役の罰を科するがごときはまれである〉(《ゲルマニア》25章)と説き,また幼少年者の養育法が,ローマとまったく反対に,主人の子弟も奴隷の子どもも区別がつかないと述べている(《ゲルマニア》20章)。もっとも貴族の邸館には家内奴隷がいたが,一般的にいって古ゲルマンの奴隷はローマ末期の小作農に似た生活を享受しており,征服・被征服の関係などに由来する身分的区別としての奴隷,解放奴隷の別はあっても,その生活様式と経済関係は,ともに中世の農奴serfに近似していたものと想定される。

 つぎに注目しなければならないのは,ゲルマン固有の従士制度についてである。王族,首長,高級貴族は素朴な邸館を構え,多数の従士を擁することを,威厳であり,力であり,誇りであり,守りであると考えたのであるが,従士となるものは,多く貴族の子弟および自由民であって,いずれもその身分的自由をうしなうことなしに,忠誠の誓によって主従関係をとりむすんだ。その点,ローマ帝政期に続出したパトロキニウムクリエンテスのような私的な保護・被保護の従属関係およびケルト社会にみられた私党的結合とは,根本的なちがいがある。つまり国家形成力としての貴族制と結合した従士制度が,貴族をふくむ自由民相互の忠誠的主従関係によって維持されていたという点に,いわば反国家的・私的なローマ末期の主従関係,および国家外的なケルトのそれとの相違があり,同時にゲルマン的従士制の中に,中世に入って成立する封建的主従制Vasallitätへの一つの有力な萌芽を認めることができる(封建制度)。封建制のいま一つの条件である封Lehen,fiefの授受がこれに伴わなかったのは,自生的な貴族の支配領域の狭小と,土地に対する考え方の未発達によるものである。

 このような事情からみても,古ゲルマン社会には当然隷属的な農民や自由民の上に立つ大土地所有または支配が前提とされなければならないのであるが,しかしそれはそのまま中世的な独特のしくみを持つ土地領主制すなわち荘園支配を意味するとはいえない。なぜならタキトゥスの記述にあるように,土地がありあまっていて,粗笨な耕作方法しかなかった当時にあっては,大土地を領しているということが権力保持の基礎条件ではなく,むしろ逆に,カリスマ的に貴族や良い家柄であるということが,結果として大土地所有または農民支配の可能性をもたらしたのであり,〈封〉として上級支配者から与えられたものではなかったからである。このような事情から,封建制が成立する8~9世紀になっても,古ゲルマンの伝統の強いドイツの諸地域では,フランスなど旧ローマ帝国領での〈封〉の考えとは別に,貴族や在郷小領主などの自生的な〈支配〉と自由世襲地Allodの観念が尾をひいて残ることとなった。

 古ゲルマン時代における貴族や従士のあり方は,考古学が発達した結果,特に城砦(ブルク)の分布との関係で,漸次明らかにされつつある。ブルクは地域により時代によっていくつかの型に分けられるが,一般的にいうならば,数個または十数個の集落をふくむ地域的まとまりの中心をなす地の利を得た場所に,幾重もの土塁をめぐらせた山城,または水城の形をとるものが多く,その近傍に,従士をかかえた貴族の生活の場である邸館があり,そこには特別の防備がほどこされていた。その構えが中世の居城などとは比較にならない粗末な木造であったことは,いうまでもない。タキトゥスはこのような邸館での貴族や従士の生活につき,〈いくさに出ないときには,時に狩猟に,多くは睡眠と飲食にふけりつつ無為に日をすごす〉(《ゲルマニア》15章)と述べ,家庭,家事,田畑などいっさいの世話を,その家の女,老人その他すべての弱いものにまかせている状況を描いている。しかし従士の数には限度があったから,この叙述をもって農業軽視の風潮とみるのは誤りである。

 物資の交易・流通は,ローマの国境線に近いところでは,貨幣経済の影響をうけて,一部ではきわめて恒常的かつ平和裡に市場取引がなされていた。地中海沿岸やライン,ドナウ川流域の都市でつくられた陶器,ガラス製品,金属製品,武器などが,貴族や戦士の需要にこたえて輸入され,逆にコハク,奴隷,毛髪などが南欧各地に輸出されたことが,出土品からも立証されるが,そうした交易のほかに,貢納,贈与,略奪による物資のうごきがあり,その頻度には予想をはるかに上回るものがあった。しかしこうした交流・交易は主として支配者階層間での現象であり,一般民衆の経済生活の重点が,もっぱら農耕と牧畜に置かれ,総じて自給自足の色彩の濃いものであったことは否定できない。

 そこで最後に問題となるのは,当時の土地所有形態と集落形態についてである。このことについては,19世紀初頭以来,実に多種多様な学説が唱えられたが,それは一つには,これを具体的に証明する史料の絶対的な不足,いま一つには,なんらかの理論をうち出そうとする要請のゆえに,各自がそれぞれ自説に好都合な解釈を下し,それを一般化するに急であった結果である。しかし20世紀に入り,記述史料のテキスト批判が厳密化し,他方,地質学,地名学,考古学など歴史補助学が注目すべき成果を挙げたため,たとえ地域による多様な事例があるにしても,平均的にいって当時の集落形態がどういうものであり,その土地所有ないし耕地の経営がどんなものであったかが,ほぼ推測可能となったのである。

 そうした学界の成果をふまえて古ゲルマン時代の集落と農地のあり方を推定した場合,ほぼつぎのように総括することができる。すなわちその最も一般的な集落は,8~9世紀以降にはっきりとあらわれる20~30戸を単位とする有核密集村落(集村Gewanndorf)でもなければ,各戸が家屋敷の周囲に農地を持って散在する散居制(散村Einzelhof)でもなく,4~5戸からせいぜい10戸程度の小規模なルーズなまとまりを持つ氏族または従士家族の集団であったと思われる。北西ドイツの諸地域に後世まで残存したドルッベルDrubbelまたはエッシュドルフEschdorfと呼ばれる小集落のあり方が,これを示唆しているといわれる。そこには主穀(各種の麦類)生産のための長形地条を持つ共同耕区と並んで,各家屋敷の周囲には個別的に利用できる菜園があった。共同耕区の作業は共同でおこなわれたが,そこにおける地条の持分は平等でなく,各家柄に応じて差があったものと思われる。耕地の利用は,もっぱらその地力に依存する穀草経済Feldgraswirtschaftであり,地力が枯渇すると,焼畑などの方法により,新たに共同耕区を開くというやり方であった。それゆえ二つ以上の共同耕区を伴う集落が多かったことが,土壌学的に立証される。したがって中世の有核密集村落に類型的に認められるあの整然とした三圃農法,すなわち夏畑,冬畑,休閑地の輪作による合理的な経営は,この段階ではいまだ認められない。

 つぎに一般農民の土地所有関係についていうならば,集落をとりまく森林や荒蕪地は,牧畜(牛,馬,羊,ヤギ,豚など)のための共有の入会地であり,主穀生産のための耕区は,強い団体的規制の下に立つ不平等な地条持分の集合体であり,家屋敷と菜園だけが,いわば個別的な私有の対象であったということになる。しかしその〈私有〉という概念も,ローマ法や近代法での意味に解されてはならないのであって,入会地の用益,共同耕区の利用に,団体の構成メンバーとして参加することのできる基礎というほどの意味での私有なのである。これを要するに,古ゲルマン社会における移住,定住,戦闘などの末端の単位が,もっぱら氏族または大家族の長あるいは従士団の長を中心とするものであったため,族民に対する族長の支配ないし保護・後見の力が全体をおおっており,それが事実上の不平等をカバーする原理上の平等原則として作用したものと考えられる。のちに中世における標準農家の耕地持分単位となるフーフェという観念も,その起源をさかのぼればゲルマン集落の一人前のメンバーとして認められた権利義務の基準となる土地保有面積に由来するものと考えられ,ゲルマン的団体意識の特色を傍証するものといえよう。

 それゆえ特別の王族・首長族はとにかく,豪族や下級の豪士も,要するに族長中心の秩序体である各地域の小団体の上に支配をおよぼした勢力者であり,その性格をローマの大土地所有者のあり方などと同一視することはまちがいである。タキトゥスが,一方でゲルマン貴族の存在を説きつつ,他方でまず,〈全体としての村によって〉一定の土地が占有され,ついで村民相互に耕地持分が〈各人の地位に応じて分割される〉(《ゲルマニア》26章)と述べているのは,まさにローマ貴族の個人的巨大農地経営とはちがった方式,すなわち団体的規制の強い,いわば自生的な農耕社会の秩序を立証するものである。したがって,古ゲルマン社会につき,土地が私有か共有か共産か,あるいは保有か総有か用益か等々を,現代の法律概念で一義的にきめつけることは,そもそも不可能といわなければならない。

 以上がカエサル,タキトゥス時代のゲルマン人の社会構造の特色であるが,その日常生活についてふれると,ブロンドの髪,長身長頭,細長く高い鼻といった人類学的特徴をもつ彼らの生活は,温暖な気候に恵まれたギリシア,ローマの古典古代世界のそれにくらべ,都市の生活を知らず,森におおわれ沼沢が散在するきわめてきびしい自然の中での素朴なものであり,それだけに人と人との結合を重視する団体意識の強い,農耕・牧畜の社会であった。農産物としては,主食の原料である大麦,小麦のほか,ライ麦,エンバク,キビ,亜麻,大麻,各種の豆類や野菜類が挙げられるが,ブドウの栽培はローマとの接触後にうけいれられたものである。畜産品としては,ミルク,バター,チーズをはじめ各種食肉の貯蔵が好まれ,飲料としてはビールが広く愛用された。宗教は,なにぶんにも無文字社会のことであるため,体系的にこれを解明することは困難であるが,一般的にいえば自然崇拝を中心とするものであり,後世の史料である〈エッダ〉などを通じてうかがいうる天地創造の神話や,忠誠,武勇,復讐等の荒々しさをもつもろもろの神々の伝説などは,南方からの影響のほかに,きびしい自然環境と諸部族抗争の中に生きたこの民族の世界観を彷彿(ほうふつ)させるものをふくんでいる(北欧神話)。要するにそれは素朴かつアルカイックな社会ではあっても,若々しい発展の可能性とバイタリティーをもつ社会であった。それゆえタキトゥスをして,道義地におちて退廃の危機にあったローマ社会への警世の気持をこめて,〈この地(ゲルマニア)においては,良き習俗が,他の地(ローマ)における良き法典よりも有力である〉(《ゲルマニア》19章)とのしんらつな風刺的名句を発せしめたのも,理由のないことではない。われわれはそこに帝政期ローマの高度文明社会がもつ脆弱さと,ゲルマンのアルカイックな素朴社会がもつ健全さの好対照をみることができる。

 カエサル,タキトゥスの著作が出た紀元前後の1世紀から,4世紀後半のいわゆる民族大移動の開始までのほぼ300年間は,まとまった文献史料がなく,その間におけるゲルマン民族全体の動向を実証的にあとづけることは困難である。しかし後の史料から逆推すると,その間,前述した群小キウィタス相互の間に,種々の事情から戦闘,移住,動乱などによる複雑な離合があったらしく,結果的にいって,民族大移動のころになると,かつてのキウィタスのそれぞれの呼称は,ごく一部のものをのぞいて,おおむね史料からその名を消し,それに代わっていっそう大きな集団としての幾つかの部族,すなわちシュタムStammのまとまりができていることがわかる。シュタムの形成は,ほぼ2世紀の中葉から4世紀にかけての,きわめて多様かつ漸次的な現象であったと推察されるが,その内容は,移動中の征服,同盟,連合その他の理由で,幾つものキウィタスが合体したものであり,そうした変動の過程で,シュタムの中にゲルマン人以外の異民族を含む場合も,決してまれではなかった。そのためシュタムの多くは,タキトゥス時代のキウィタスに比し,実力ある特定の王または王族,特に軍指揮者を中心とした政治的・軍事的統制力の強い部族集団という性格を帯びていた。こうして4世紀に入ると,ゲルマン人の全体は,大きく分けて東ゲルマン西ゲルマン北ゲルマンの三つの部族群に分類されることとなるが,中でも東ゲルマン群に属する諸部族,すなわち東ゴートOstgoten(Ostrogothae),西ゴートWestgoten(Visigothae),バンダルVandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobarden等のシュタムの中へは,現在のロシア南部,東方ステップ地帯にいた種々の異民族・異人種の要素が色濃く混入したため,そこではいち早く騎馬を重視し弓矢を重視する東方独特の兵制,装備,戦術がとりいれられ,さらに古い首長制の代りに,軍王的性格をもつ新しい王権の伸張をみた。やがて民族大移動期に展開する東ゲルマン諸部族のあの活発かつ遠距離への迅速な移動の可能性は,一つにはこうした歴史的背景があったせいである。逆にいうならば,その歴史的環境からみて,ゲルマンの故地からきわめて漸次かつ長期にわたって南西方へ移動した西ゲルマン諸族(フランクFranken,ザクセンSaxen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなど)には,ローマ文明との融合現象があり,北ゲルマン諸族(デーネンDänen,スウェーデンSchweden,ノルウェーNorwegerなど)には,古いゲルマン的伝統を保持する可能性が強かったということになる。
民族大移動
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百科事典マイペディア 「ゲルマン人」の意味・わかりやすい解説

ゲルマン人【ゲルマンじん】

ゲルマン語を話す諸民族。先史時代,歴史時代初めにゲルマン語を話す部族および部族連合があり,これらを原始ゲルマン人と呼ぶが,中世初期に再編され発展して現在のヨーロッパ人を構成するゲルマン諸民族が生まれた。原始ゲルマン人は,東(ゴート族,バンダル族,ブルグント族,ランゴバルド族),西(アングル族,サクソン族,フリース族,カッティ族),北ゲルマン(ノルマン人)に大別される。ゲルマン人の原住地はスカンジナビア〜バルト海沿岸で,前3千年紀には新石器の段階に入り,次第に先住ケルト人等を圧迫しつつ南下,前2世紀からローマ領に侵入。やがて4世紀後半からフン族の圧迫を受けて各地に移住,建国した(民族大移動)。人種的特徴としては長身,金髪,空色の目,白い皮膚など。原始ゲルマン人は土地共有制を実施し自給自足的村落を形成。好戦的で,自由民と奴隷とに分かれ,少数が貴族を構成。霊魂崇拝・自然崇拝が行われ,神は森の中に求められた。またゲルマン神話と総称される世界創造神話,善悪両神の闘争神話,オーディン神を中心とする巨人・小人の信仰をもつ。→ゲルマン語派
→関連項目アングロ・サクソン人ゲルマニアチュートン人ドイツフランクルーン文字

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゲルマン人」の意味・わかりやすい解説

ゲルマン人
げるまんじん
Germanen ドイツ語

インド・ヨーロッパ語族のうちゲルマン語派に属する言語を話す民族の総称。現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などがこれに属するが、これら民族の祖先と考えられる、民族大移動以前の古ゲルマン人をさす場合が多い。ユトランド半島とそれに隣接する北および北ドイツ、スカンジナビア半島の中・南部が、紀元前二千年紀中葉のゲルマン人の原住地と考えられるが、前一千年紀の中葉ないし前3世紀ごろまでに、西方ではオランダからライン川下流域まで、東方ではウィクセル(ビスワ)川流域から、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの三つのグループを形成するようになった。

 カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』など古典古代の叙述家たちの記録により、紀元前後のゲルマン人の社会構造や政治組織について、若干具体的に知ることができる。このころゲルマン人がすでに定着農耕を営んでいたことは疑問の余地がないが、農耕とともに牧畜の占める比重がかなり大きかったと考えられる。階層的には自由人、半自由人、奴隷に分かれ、自由人の上層部は政治的特権と大土地所有を基礎にして、豪族層を形成していた。政治的には、キーウィタースとよばれる小単位に分かれ、キーウィタースはさらに1ないし数個のパーグスに分かれていた。キーウィタースの上にゲンス(部族)とよばれる組織体があったが、タキトゥスの時代にはこれは政治上の単位ではなく、一種の祭祀(さいし)団体であったと考えられる。キーウィタースの政治体制は、まだかなり強く原始民主制の名残(なごり)をとどめており、全自由民の構成する民会が戦争、平和などの重大事項を決定したが、他方、豪族層への政治権力の集中化も相当進んでいた。世襲王制をとるキーウィタースと、民会で選出されるプリンケップスに統治されるキーウィタースとがあったが、後者の場合も、プリンケップスに選ばれるのは豪族に限られ、両者の相違はそれほど大きなものではなかった。

 4世紀以降フン人の西進による圧迫に触発されて、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国するが、その過程で軍事指揮権を中核とした王権の強化・確立と、政治単位としての新しい部族形成が行われた。民族移動期に登場する、フランク、バンダル、東・西ゴート、ランゴバルドなどの部族は、いずれもこのような新しく形成された部族である。

[平城照介]

『タキトゥス著、泉井久之助訳註『ゲルマーニア』(岩波文庫)』『カエサル著、近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫)』『増田四郎著『西洋封建社会成立期の研究』(1959・岩波書店)』


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旺文社世界史事典 三訂版 「ゲルマン人」の解説

ゲルマン人
ゲルマンじん
Germans

インド−ヨーロッパ語族中の一民族
原住地はスカンディナヴィア半島南部より北ドイツにかけてのバルト海沿岸地方と考えられるが,一部はケルト・イリリア諸族を圧迫しつつ南下し,紀元前後にはローマ帝国と接触するに至った。当時は多数の部族国家に分かれていたが民族大移動期までにはやや大きないくつかの種族を形成していた。言語的に東ゲルマン(ヴァンダル・ブルグント・東ゴート・西ゴート),西ゲルマン(アングロ・サクソン・アラマン・フランク),北ゲルマン(デーン・ノルマン)に三大別され,民族大移動後,各地に分散して王国を建てた。移動前のゲルマン社会は,タキトゥスやカエサルによれば,農耕・牧畜・狩猟によって生活を営み,貴族・平民・奴隷の身分制があった。またいくつかの氏族が集合して国家(キヴィタス)を構成し,その最高決定機関は民会であった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ゲルマン人」の解説

ゲルマン人(ゲルマンじん)

ゲルマン民族

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世界大百科事典(旧版)内のゲルマン人の言及

【ゲルマニア】より

…ガリア北東部のライン左岸,ラインラントのローマ化はカエサルによる占領に始まった(前58‐前51)。ラインラントからベルギーにかけては,トゥングリ,トレウェリおよびネルウィイなど,ケルト人と混血した〈ライン左岸のゲルマン人Germani cisrhenani〉が定住し,アルザスからブルゴーニュ東部では,ヘルウェティイ,ラウラキおよびセクアニなどのケルト人に占められていた。皇帝アウグストゥスのガリア行政区の設定(前16)では,属州ゲルマニアはいまだ存在しないが,彼の軍事行動はライン川を越えてエルベ川まで延び,兵站(へいたん)基地のラインラントのローマ化を促した。…

【チュートン人】より

…狭義には古代ゲルマン人の一派テウトネス族Teutones,Teutoniをいう。彼らはユトランド半島に住んでいたが,浸食や高波による土地荒廃のため,隣接するキンブリ族Cimbriとともに南方移動を開始,前110年ころまでにはヘルウェティイ族Helvetii(スイス中部に住んでいたケルト系部族)の一部も加えてライン川に達し,ガリアへ侵入した。…

【闘斧】より

…これらの文化では,農耕とともに牧畜が盛行し,車と馬を伴うなど共通するところが多く,闘斧文化の名称で統括されることがある。この闘斧文化は,とくに両次大戦間の時期における研究で,ゲルマン民族(ゲルマン人)との関連が説かれ,その起源とヨーロッパにおける拡散の問題を論ずる際の重要な拠りどころとなり,大いに関心をひいた。 石製闘斧以後も,ヨーロッパでは実用または儀仗用の,青銅あるいは鉄製の闘斧の製作使用が続けられ,中世フランク族の用いた鉄製闘斧フランシスクfransiskに連なり,さらには闘斧と槍先とが結合した形状をとる武器アラバルダalabardaは,ローマ教皇の護衛兵の儀器として現在も使われている。…

【民族大移動】より

…通常〈民族大移動〉という場合,それは黒海北岸にいたゲルマン系のゴート族が,4世紀後半,西進して来たフン族に押され,376年,西ゴート族がドナウ川を渡って初めてローマ帝国領に移住したのをきっかけに,ライン川,ドナウ川などローマ帝国の国境線の北東方一帯にいたゲルマン人の諸部族が,相次いで移動を開始し,とくに東ゲルマンに属する諸部族が西ローマ領内深く移住・定着して,各地にそれぞれの部族国家を建設したほぼ6世紀末に至る二百数十年間の過程のことである。 しかし世界史的にみると,あたかもこの時代は,東西両洋にわたり,巨大な世界帝国の統一が動揺・破綻し,辺境にいた素朴な異民族が,古代的な高度文明社会の内部に侵入し,あるいはその影響を受けて周辺で新しい国家をつくるなど,文化史的にも政治史的にもきわめて類似した注目すべき現象のみられる時代に当たる。…

【もてなし】より

…アイルランド,スコットランドは教会,修道院が旅客専用の建物tech‐óiged(tech=taigeは〈家〉,óigedは〈客〉の意)をもって見知らぬ旅人に食事とベッドを供したが,これも16世紀にヘンリー8世の修道院領没収によって終わった。 ホスピタリティにあたるドイツ語Gastfreundschaftが示すようにゲルマン人の客もてなしは名高い。〈どんな目的でやって来た者にでも乱暴は控えて,神聖なものとしている。…

【領主制】より

…近世以降は,君主のもとへの権力の集中に伴い,支配の最下部機構としての領主制の重要性は薄れるが,それはけっして自由な契約関係に基づく単なる地主・小作制度ではなく,農民の身分的隷属性を前提とした一つの支配形象としての意味は引き続き維持された。【山田 欣吾】
[中世初期]
 民族大移動によってヨーロッパの支配者となったゲルマン人は,すでに長期にわたって接触していたローマ人と,根底的に相いれない社会構造を示してはおらず,家内奴隷などのかたちで階層分化を進めていた。ローマ人のもとでは奴隷制が解体の道を歩んでおり,大所領でも,土地を与えられるなどのかたちで,自立性を確保しつつあった労働力が増加していた。…

※「ゲルマン人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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