基本情報
正式名称=コンゴ共和国République du Congo
面積=34万2000km2
人口(2011)=410万人
首都=ブラザビルBrazzaville(日本との時差=-8時間)
主要言語=フランス語,リンガラ語,コンゴ語
通貨=CFA(中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale
中部アフリカの共和国。コンゴ川(ザイール川)の西岸に位置しており,南西部が大西洋に面した南北に長い国土をもっている。首都ブラザビルは,19世紀末にこの地域をフランスが植民地化するのに尖兵として貢献した探検家ド・ブラザにちなんで命名された。
執筆者:小田 英郎
コンゴの東半分はコンゴ盆地の一部をなしている。しかし国土の中南部にはガボン国境地方からコンゴ民主共和国につながる低い山地があり,コンゴ盆地と大西洋沿岸低地との分水界をなしている。この分水界より西はクイル川が主水系をなし,大西洋に注いでいる。国土の中央を赤道が走り,気候は地域差があまりないが,赤道以北では熱帯雨林気候が,以南では熱帯サバンナ気候が卓越する。標高が低く年中高温であるが,降雨の年間分布には短い乾季がある。そのため,北部国境付近やクイル川流域平野,中央高地などにサバンナ植生がかなり分布し,熱帯雨林はコンゴ盆地の一部にみられる。
執筆者:端 信行
住民はおもにバントゥー語を話すグループに属する。北からサンガ族,バンギ族,テケ族,ビリ族,コンゴ族など約15の部族に分かれ,コンゴ族が最も多く約40万を数える。バントゥー系部族のなかでも北隣のガボンからの移住者約14万人が北部に居住している。もともとピグミーが先住民であり,現在も各地に分散居住している。
ポルトガルの航海者が渡来したとき,すでに南から移住してきていたバントゥー系部族がロアンゴ王国,カコンゴ王国を形成していたが,これらはコンゴ王国の属国であったという。これらの王国はヨーロッパとの奴隷貿易によって繁栄したが,その交易は沿岸の王国と内陸部の首長との間に築かれた〈交易パートナー〉の結びつきに基づいていた。元来,沿岸の塩と内陸の農産物との交易は,この伝統的な交換ネットワークによって行われていた。奴隷貿易もこの方式をとり,ヨーロッパの奴隷船も沿岸の港に接岸するだけで,奴隷が沿岸までもたらされるのを待った。18世紀には沿岸部に多数の港が開かれ,小さな諸王国が林立し,これらの港に置かれたヨーロッパ諸国の商館は,それぞれの首長によって保護された。コンゴ,ザイール(現,コンゴ民主共和国),アンゴラの沿岸から運び出された奴隷は1350万人に達すると推計され,現在の5.5人/km2という人口密度の希薄さもこの後遺症といわれている。その後1920年代にコンゴ・大西洋鉄道の建設で労働者が徴発され,人口移動がおこった。これらの収奪が,比較的早くから反植民地運動や,第2次大戦後の共産主義運動がおこった理由と考えられている。
現在,人口の多くは首都ブラザビルと港市ポアント・ノアールに集中する一方,村落人口が激減しており,都市部への食糧供給が重要問題となっている。熱帯雨林が全土のかなりをおおうため,キャッサバを中心とする農業が行われている。教育の普及はかなり進んでおり,児童の就学率も高い。人口の約半分にキリスト教が浸透し,ミッション・スクールも海岸地方に多い。公用語はフランス語であるが,そのほかコンゴ語,テケ語が有力である。ラジオ放送はフランス語,商業上の共通語の一つであるリンガラ語,コンゴ語で行われている。
執筆者:赤阪 賢
ヨーロッパの勢力の進出以前は,コンゴ王国やロアンゴ王国などが現在の国土の南部にまでその領土を拡大していたが,それらの諸王国はいずれも17世紀までに衰微してしまった。ヨーロッパ勢力のうち最初にコンゴに進出したのは15世紀末のポルトガルで,コンゴ河口付近を根拠地に沿岸地方に勢力を張り,奴隷貿易を盛んに行った。当初コンゴ国王はポルトガルの文物の導入に積極的な姿勢を示し,自らキリスト教に改宗してアフォンソと称したりもしたが,彼の意思に反して奴隷貿易が拡大していくなかで,国も乱れていった。17世紀にはいるとフランスが進出し,奴隷や象牙の取引に従事したが,フランス革命以後その勢力は衰えた。19世紀末のアフリカ分割の時代にはいると,フランス政府は探検家ド・ブラザを派遣してガボンのオゴウェ川流域からさらにコンゴ川流域にまで勢力をのばし,同じ時期にベルギー国王レオポルド2世によってコンゴに派遣され,ベルギー領コンゴの形成に貢献した探検家スタンリーと競い合うかたちで,フランス領コンゴの礎石を築いた。欧米列強はベルリン会議(1884-85)で正式にこの地域に対するフランスの領有権を認めた。フランスは1910年にチャド,ガボン,ウバンギ・シャリ(現,中央アフリカ共和国),コンゴを統合してフランス領赤道アフリカに再編成し,ブラザビルを主都と定めた。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね,白人企業は徹底した搾取を行った。このため,植民地政府や白人企業に対するコンゴ人民衆の不満が高まり,暴動もしばしば発生した。また1920年代以降ベルギー領コンゴに生まれた,キンバングの指導するキンバンギズム運動,ネオ・キンバンギズム運動などのメシア的解放運動の影響がフランス領コンゴにも広まった。パリ在住のコンゴ人マツワAndré Matswaの〈友愛運動〉が熱狂的に支持されたのも,フランスのコンゴ支配の厳しさへの反作用であったといえる。
1946年に南部でコンゴ進歩党(PPC)が,北部でフランス社会党の支部が結成され,後者はのちにアフリカ社会主義運動(MSA)と称するようになった。56年にはユールーAbbé Fulbert Youlou(1917-72)によってアフリカ人利益擁護民主同盟(UDDIA)が創設され,その結果PPCは影響力を弱め,UDDIAとMSAが拮抗する状況が生まれた。57年の地域議会選挙ではMSAが勝ちを制したが,58年の選挙ではUDDIAが多数を占め,同年フランスが第五共和政へ移行すると,コンゴは11月を期してフランス共同体内の自治共和国となり,UDDIAの指導者ユールーが首相に就任した。2年後の60年8月15日,コンゴはコンゴ共和国として完全独立を達成し,ユールーが初代大統領に就任した。
ユールー政権は自治共和国時代からの親西欧路線を維持した。とりわけ旧宗主国フランスとの関係は緊密で,60年12月には旧フランス領穏健派12ヵ国を集めてブラザビル会議を主催し,これら諸国によるアフリカ・マダガスカル連合(UAM)創設(1961年9月)の契機を生み出すのに貢献した。ユールーは61年3月に大統領に再選されると,国防相,内相を兼任するなどしだいに権力の集中化傾向をみせはじめた。その一方で国内経済は下降線をたどり,国際収支は悪化し,失業率は高まり,民衆の不満は増大していった。しかもユールー政権は63年4月に野党を禁止してUDDIAの一党制に移行したため,政治的緊張は限界に達し,同年8月の3日間にわたるゼネストと軍部の政治介入の結果,ユールーは大統領を辞任し,代わってマサンバ・デバAlphonse Massemba-Débatを首班とする臨時政府が登場した。マサンバ・デバは親西欧・親仏路線を廃棄し,労働組合と軍部を主柱に親共派・急進派民族主義者をも含む広範な支持基盤のうえに,左派的な政権をうちたてた。マサンバ・デバは同年12月に大統領に選ばれ,翌64年1月には新たに革命国民運動(MNR)を創設して再び一党体制を確立した。同党は科学的社会主義を標榜し,非資本主義的発展の道を目指すことを宣言するなど,そのイデオロギー的座標はユールー時代とは正反対であった。しかし当初安定しているかにみえたマサンバ・デバ政権も,その支持基盤の分裂と対立によって弱体化し,68年9月に彼は辞任に追い込まれた。代わってヌグアビMarien Ngouabi(1938-77)少佐が政権を握り,翌69年1月に大統領に就任した。基本的にはマサンバ・デバ政権成立当時の枠組みを残しながらも,軍部左派主導の時代に移行したのであった。
軍部左派主導の政治は,ヌグアビ大統領の時期(1968-77)からヨンビ・オパンゴJoachim Yhombi-Opango大統領の時期(1977-79)を経てサスー・ヌゲソDenis Sassou-Nguesso大統領の時期(1979以降)へと移っていったが,これら政権の交代は大統領の暗殺(ヌグアビ)や解任(ヨンビ・オパンゴ)によるものであった。この間1969年にヌグアビは,マルクス=レーニン主義に基礎をおき民主集中制をその組織原則とするコンゴ労働党(PCT)を創設して三たび一党体制を確立し,軍部左派主導政権の強化をはかった。ついで国名が70年1月からコンゴ人民共和国と改められた。
また1979年制定の憲法の規定により,大統領(任期5年)には唯一の合法政党であるPCTの議長が自動的に任命され,また党中央委員会が憲法改正の発議権や革命裁判所判事の任免権をもち,一院制の人民全国議会の議員は,PCTの作成した候補者名簿に基づいて普通選挙により選出されるなど,党の権力は著しく強大となった。その一方で,サスー・ヌゲソ政権は79年の発足以来,政治犯の釈放,亡命コンゴ人への帰国呼びかけなど,強権政治緩和の動きを示し,外交面でも東西のバランスをとる方向への軌道修正をみせた。その後,84年7月のPCT第3回大会の憲法改正案採択によって大統領の権限が強化され,同大会で党中央委員会議長に(したがって自動的に大統領に)再選されたサスー・ヌゲソの制度的な権力基盤はいっそう強固なものとなった。しかし世界的な民主化の時代に入った直後の90年12月PCTは一党制放棄を決定し,91年6月国名はコンゴ共和国と改称された。92年3月の国民投票で複数政党制と二院制議会が導入された。92年8月の大統領選挙では社会発展パン・アフリカ連合(UPADS)のパスカル・リスバが現職のサスー・ヌゲソを破り,93年5月の議会選挙でもUPADSが多数を占めた。その後両派の武力衝突が激化し,94年1月に停戦協定が結ばれたが,97年7月に再度内戦が激化し,10月にサスー・ヌゲソ派が首都を制圧した。
石油,天然ガス,カリ塩,鉄鉱石,銅なども産出するが,基本的には農業国であり,主要産品はキャッサバ,サツマイモ,ラッカセイ,サトウキビ,バナナ,コーヒー,カカオなどで,木材も産出する。ただし主要輸出品目となると,石油,木材,コーヒー,ココア,ダイヤモンドなどに集中し,輸入品目は食料品,機械などである。主要貿易相手国は,輸出でアメリカ,フランス,イタリア,ドイツ,輸入面でフランス,アメリカ,イタリア,ドイツなどとなっている。なお79年のサスー・ヌゲソ政権登場以降,外交面での西側との関係改善の努力と並行して,経済面でも西側諸国からの援助や投資を積極的に導入する政策を推進し,90年には世界銀行,国際通貨基金(IMF)の指導で構造調整計画(公務員削減,国営企業の民営化など)を実施しはじめた。しかし,輸出額の約85~90%を占めるにいたった石油の生産が80年代半ばから低下しはじめ,さらに86年の石油価格の暴落などもあって,コンゴ経済は大きな打撃を受けた。増大する対外累積債務も経済を強く圧迫しており,95年12月,IMF,世界銀行と新たな構造調整計画導入に合意した。ACP(アフリカ・カリブ・太平洋)諸国の一員としてEUと連合しているほか,中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)に加盟している。
執筆者:小田 英郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ中西部、赤道にまたがる国。北は中央アフリカ、カメルーン、西はガボン、東と南はコンゴ民主共和国(旧ザイール)に接し、南西部は大西洋に面している。面積34万2000平方キロメートル、人口302万(2000推計)、369万7490(2007センサス)。首都ブラザビルは、コンゴ川を挟んで、コンゴ民主共和国の首都キンシャサと向かい合う。サハラ以南のアフリカで生まれた最初の人民共和国で、中国や旧ソ連との結び付きが強かったが、1991年に国名をコンゴ共和国に改めた。経済的には、かつての宗主国フランスとの関係が深い。
[赤阪 賢]
国土の大部分はコンゴ盆地の北西部を占める。東部はコンゴ川とウバンギ川が沖積平野を形成して湿地が多い。この平野は西に向かって高度を増し、標高900メートルの高原となる。西部は複雑な地形をなし、ニアリ川の河谷が開け、海岸平野との間にマヨンベ丘陵が走る。
気候は赤道直下のため高温多湿の典型的な熱帯雨林気候である。年降水量は1000~2000ミリメートルで、北へ行くほど雨量が多くなる。赤道の北側は熱帯降雨林だが、南部はサバナ景観を示す。首都ブラザビルの年平均気温は25.6℃、年降水量は1371ミリメートルで、6~8月の3か月が乾期である。海岸平野はベンゲラ海流の影響を受けるためやや涼しく、乾期が長くサバナ地帯となっている。
[赤阪 賢]
人口密度は1平方キロメートル当り約9人で希薄であるが、さらに人口の75%が、ポアント・ノアールとブラザビルの間の南部サバナ地帯に集中している。とくに首都ブラザビルの人口は約94万(1995)で、急速に増加している。ついで、大西洋に面した港町のポアント・ノアールが人口約58万、それに続くルオボモは人口約8万、ヌカイは人口4万程度の小都市である。村落からの人口流入が激化し、人口の60が都市居住者となっている。
コンゴ川下流は急流となっており、船の航行は不能だが、ブラザビルのマレボ湖から上流は、ウバンギ川を含めて2400キロメートルにわたり航行可能で、交通の大動脈となっている。また、ブラザビルと大西洋岸のポアント・ノアール港を結ぶコンゴ大西洋鉄道が敷設されている。この鉄道に沿ってプランテーションの開発や都市化が進んでいる。これらの交通の動脈によって、コンゴは植民地時代から、大西洋と内陸とを結ぶ中継貿易で経済的に発展した。
[赤阪 賢]
古代にはこの地は紀元前後に、ネグリロ系先住民を追うバントゥー系諸族の北方からの移住の波に洗われた。15世紀末にポルトガルの航海者がコンゴ川の河口地域に到達したころ、ロアンゴ王国、カコンゴ王国が形成されていた。これらはコンゴ王国の属国であったが、ヨーロッパ商人の奴隷貿易により繁栄した。従来、沿岸の王国と内陸の首長との間には、塩と農産物の交易関係が結ばれていた。奴隷貿易もこのネットワークに基づき、ヨーロッパの奴隷船は沿岸の港で待機して内陸の奴隷を受け取った。18世紀には沿岸に多数の商港が開かれ小王国が形成された。コンゴ(現コンゴ共和国)、ザイール(現コンゴ民主共和国)、アンゴラの沿岸から搬出された奴隷は1350万人に及ぶ。1870年フランス人の探検家ド・ブラザがコンゴ川(ザイール川)流域を探検し、スタンリー・プールに到達して、バテケの首長と協定を結び、1882年にはこれを根拠にコンゴ川右岸にフランス領コンゴ植民地を建設した。その後、1920年にフランス領赤道アフリカが形成され、ブラザビルが首都に定められた。第二次世界大戦後、コンゴはフランス海外領に昇格し、1958年にはフランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月15日コンゴ共和国として独立した。
[赤阪 賢]
独立時には、親欧米色の強いフルベール・ユールーFlubert Youlou(1917―1972)が初代の大統領に選出された。しかし、1963年8月のクーデターで大統領ユールーは追放され、アルフォンス・マサンバ・デバAlphonse Massamba-Débat(1921―1977)が大統領に就任した。彼はコンゴ革命民族運動(MNR)の一党支配下で社会主義化を推進し、ソ連や中国との国交を樹立し、対欧米関係は悪化した。1968年デバは大統領を辞任し、北部出身のマリアン・ヌグアビMarien Ngouabi(1938―1977)が軍部を背景に実権を握った。彼は1969年に大統領に就任、マルクス・レーニン主義を主唱するコンゴ労働党(PCT)を結成し、新憲法を制定、国名をコンゴ人民共和国と改めた。その後も政情不安が続き、1970年3月のクーデター未遂事件、1971年12月のストライキを契機に、ヌグアビは軍を直接掌握し独裁体制を強化した。しかし1977年3月ヌグアビは暗殺され、大佐であったオパンゴJoachim Yhombi-Opango(1939―2020)が実権を握った。1979年3月国防相のドニ・サスヌゲソDenis Sassou-Nguesso(1943― )が新大統領に就任したが、1980年代なかばの石油価格の低下の影響を受け、経済政策の失敗を招いた。1990年9月には賃上げ要求のストライキが全国に波及し、長年のPCTの一党独裁への批判が噴出した。1992年に複数政党制と議会の二院制が導入され、大統領選挙の結果、パンアフリカ社会民主主義連合(UPADS)党のパスカル・リスーバPascal Lissouba(1931―2020)が選出された。1993年5月の総選挙をきっかけに与野党間の対立が武力衝突にエスカレートしたが、翌年1月に停戦協定が成立した。各政党の抱える民兵の武装解除や軍・警察への編入など、和平の努力がなされたが、1996年2月の元民兵の暴動に続き、1997年には、ふたたび与野党の支持者間で武力衝突が再燃した。1997年6月、7月に予定されていた大統領選をめぐってリスーバ大統領派とサスヌゲソ前大統領派の間で内戦勃発(ぼっぱつ)。サスヌゲソ派はアンゴラ軍の支援を受け、同年10月首都ブラザビルを中心に全土を制圧した。大統領のリスーバら政府有力者は国外に脱出した。同月、サスヌゲソはふたたび大統領に就任した。
[赤阪 賢]
コンゴの経済は石油など恵まれた鉱物資源の開発に依存している。国土は農地が少なく、農村人口も都市への人口流入に伴い減少している。農業はキャッサバ(マニオク)、プランテン・バナナ(料理用バナナ)、トウモロコシなどの主食用作物のほか、コーヒー、カカオ、サトウキビなどの商品作物を栽培している。しかしいずれも生産量は少ないため、都市への食糧供給が追い付かず、食糧は輸入に頼っている。国土の60%近くが森林のため、林業は、石油の発見以前は、輸出の70%を占める重要産業であった。1970年代の初めには、リンバ材、オクメ材、マホガニーなどの生産は年間83万立方メートルに及んだが、海岸に近いマヨンベ丘陵などでは乱伐がたたり、産出額は伸び悩んでいる。
1960年代より石油の開発が進み、1969年にはポアント・ノアール沖の海底油田が発見された。以後石油生産量は急増して、1995年には1033キロリットルに達し、国家収入の50%以上を占めるに至っている。石油の埋蔵量は2億3000万キロリットルと推定されている。ポアント・ノアールには石油精製所も完成し、1985年には500万トンが処理可能となった。その他の地下資源も豊富で、ポアント・ノアール近郊のサンポールのカリウム鉱山は世界有数の生産量を誇り、かつては国の輸出総額の15%を占めた。そのほか、亜鉛、銅、鉛、金が南部のムファティ鉱山から産出される。
貿易収支は、輸出が19億3600万ドル(1997推定)で、そのうち石油が85%を占める。輸入は9億2500万ドルである。輸出相手国はアメリカとフランスでほぼなかばを占め、輸入相手国はおもにフランスである。
[赤阪 賢]
住民はおもにバントゥー系の農耕民で、北からサンガ、バンギ、バテケ、ビリ、バコンゴなど15の民族グループに分かれる。そのうち、南部のバコンゴ(40万人)がもっとも多く、ついでスタンリー・プール近くのバテケ(19万人)、北部のバンギ(14万人)などが比較的に大きな人口をもっている。さらに隣国のガボンからの移住民も14万人ほど北部に居住している。また、ネグリロ系先住民も東部の湿地帯の森林で、伝統的な狩猟採集の生活様式を残している。バントゥー系諸族のうち、ビリがロアンゴ王国、スンディがカコンゴ王国を形成した。またコンゴ王国の解体後、バコンゴも北上して定住した。
奴隷貿易の時代に大量の人口が奴隷として運び出された後遺症が、人口密度の希薄さに表れている。また、1920年代にはコンゴ大西洋鉄道の建設工事のため、村落部から大量の住民が徴発され、多数が強制労働によって死亡するとともに、人口移動の傷跡が社会の根底部に残ったといわれる。これらに原因した国土の荒廃が、比較的早い時期に反植民地運動が起こり、第二次世界大戦後はその運動が共産主義的色彩の強いものになった理由と考えられている。
義務教育が進んでおり、6歳から16歳までの児童・生徒の就学率は、アフリカ諸国でも高い水準にある。1990年には、小学校の生徒50万3000人、教師7626人、中学校の生徒17万3000人、教師4774人を数える。さらに、技術専門学校、教員養成学校のほか、ブラザビルには1972年に創設された大学があり、1万2045人の学生が学んでいる。キリスト教の布教が浸透しており、人口の約半分はキリスト教徒(うちカトリックが80%)である。イスラム教も2%を占める。海岸地方にはミッション・スクールが多く分布している。公用語はフランス語であるが、ラジオやテレビでは、フランス語、リンガラ語、コンゴ語の番組が製作されている。
[赤阪 賢]
対日貿易は、自動車、鋼管・板、魚缶詰や電化製品などの輸入が789万ドル、木材、コバルト・マットなどの輸出が835万ドルの実績がある(1997)。1993年には、日本から道路整備のため22万ドルが無償供与された。経済協力に比べて技術協力はあまり進んでいない。
[赤阪 賢]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
中部アフリカの大西洋側に位置する。植民地期にはフランス領赤道アフリカを構成したが,1960年に独立した。首都ブラザヴィルは,コンゴ川を挟んでコンゴ民主共和国の首都キンシャサの対岸にあり,第二次世界大戦中はド・ゴール率いる自由フランス政府の拠点の一つであった。91年にそれまで標榜していたマルクス‐レーニン主義を放棄して民主化に踏み切ったが,政情が不安定化し,97年には社会主義時代に大統領を務めたサス・ンゲソが激しい内戦ののちに政権に復帰した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…中央部北方を赤道が横切っている。1960年にベルギーから独立した当時はコンゴ共和国と称したが,64年にコンゴ民主共和国となった。コンゴ川をザイール川と改名したのに伴って71年に国名をザイール共和国に変更したが,97年5月にコンゴ民主共和国にもどした。…
※「コンゴ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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