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シスマ

百科事典マイペディアの解説

シスマ

ギリシア語schismaに由来し,〈離教〉〈教会分裂〉などと訳される語。教会組織上の分裂であって,教理上での分離を意味する異端とは区別される。歴史上その例は多いが,特に,1378年―1417年に複数の教皇が並立して正統を争った〈大離教(大分裂)〉が有名。
→関連項目コンスタンツ公会議ジギスムントニコラウス[5世]ピサ公会議

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世界大百科事典 第2版の解説

シスマ【schism】

〈離教〉とか〈教会分裂〉と訳される語。もともとは分争,分裂という意味のギリシア語schismaに由来し,とくにキリスト教的な意味はなく,パウロ使い方もそうであった(《コリント人への第1の手紙》1:10,11:18,12:25)。教会一致からの公然たる故意の分離という現行の意味で用いた初例はリヨンの司教エイレナイオスといわれる。シスマは基本的には教義問題にかかわるものではなく,単なる信仰共同体からの分離,教会的同胞愛の一致からの離反であって,信仰,礼拝,典礼は他のものと同じくするから,信仰を異にする異端とは区別される。

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大辞林 第三版の解説

シスマ【Schisma】

教会分裂。教会分離。離教。特に、1378年のアビニョン教皇の分立、1054年の東方正教会とローマ教会の分離などをいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シスマ

大分裂」のページをご覧ください。

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世界大百科事典内のシスマの言及

【コンスタンツ公会議】より

…コンスタンツ(現,ドイツ)で開かれた重要な公会議。1378年以後39年間カトリック教会はローマとアビニョンとに2人の教皇をもって分裂し,歴史上〈大離教(シスマ)〉と呼ばれる事態が続いた。それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。…

【フィレンツェ公会議】より

バーゼル公会議(1431‐39)の開催中,ローマ教皇エウゲニウス4世(在位1431‐47)が,ベネチアに到着(1438年2月)したヨハネス8世以下のビザンティン側代表団を迎えて,まず1438年4月9日フェラーラで開き,39年2月26日以後さらにフィレンツェに会場を移して,ラテン・ビザンティン両教会統一のために催した。 1054年のミハエル・ケルラリオスのシスマ(分裂)以後,ビザンティン側はシャルル・ダンジューのコンスタンティノープル進攻の矛先をかわすためにローマ教会との提携を策し,ミハエル8世がリヨン公会議(1274)に皇帝特使を派遣して,分裂以来(さかのぼっては9世紀末,コンスタンティノープル総主教フォティオス以来)の争点である,(1)ローマ教皇の首位制,(2)聖霊の〈子からも〉(フィリオクエ)の発出,(3)酵母(たね)をいれぬパンの典礼((2),(3)はラテン教会の慣行),を認めたけれども,自国のキリスト教徒の受け入れるところとはならなかった。しかし,14世紀末オスマン・トルコの圧力が強まるにつれて,ビザンティン帝国は西方から軍事援助を得る前提として,教会統一問題の解決に迫られた。…

【ミハエル・ケルラリオス】より

…すなわち酵母(たね)をいれぬパンの典礼,断食週間の土曜日の断食の問題であり,そして後に聖霊の発出問題(フィリオクエ)がこれに加わった。彼は,ローマ教皇レオ9世から派遣されてきた枢機卿フンベルトゥスとハギア・ソフィア教会で論争の末,破門状を投げあって東西教会分裂(シスマ)を引き起こした(1054)。1057年皇帝ミハエル6世に対してイサキオス1世コムネノスを皇帝に推戴する革命の黒幕となるが,翌年同帝と対立して失脚。…

※「シスマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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