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シチリア王国 シチリアおうこくRegno di Sicilia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シチリア王国
シチリアおうこく
Regno di Sicilia

11世紀末にノルマンのロジェール1世シチリアを征服したのち,その子ロジェール2世が 1130年同島に創始した王国。 94年神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が王位についてホーエンシュタウフェン朝の統治が始った。その子フリードリヒ2世中央集権的統治機構をつくり上げ,政治的,文化的な隆盛をもたらした。彼の死後,混乱のなかで庶子のマンフレートが王位を奪取したが,これに敵対する教皇クレメンス4世は 1265年アンジューシャルル (シャルル1世 ) にシチリア王位を与え,66年シャルルはベネベントの戦いでマンフレートを破って王位の確保に成功。しかし,82年「シチリアの夕べの祈り」事件でシャルルは王位を追われ,アラゴンペドロ3世 (大王) がシチリア王 (ピエトロ1世) となった。これまでシチリア王は本土のナポリ王を兼ねていたが,この年からアンジュー家のナポリ王国とアラゴン家のシチリア王国とに分裂することになった。 1442年アラゴン王兼シチリア王アルフォンソ5世 (度量王,シチリア王としては1世) がナポリを征服してナポリ王も兼ねるようになると,彼は自己を両シチリア王と称した。アラゴン王国スペイン王国となったのちもスペイン王が引続いてシチリア王を兼ねた。この間スペイン支配に対するシチリア島民の反乱が 1647年パレルモで,74年メッシナで起きたが,いずれも失敗。 18世紀初頭のスペイン継承戦争の結果,シチリアは 1713年サボイア家に譲渡された。続いて 20年オーストリアがシチリアを得たが,ポーランド継承戦争の結果,35年からスペインのブルボン家が新たにシチリア王国ナポリ王国を支配した。ナポレオン体制崩壊後の 1816年,フェルディナンド1世 (シチリア王としては3世,ナポリ王としては4世) は,従来形式上別個だったシチリア王国とナポリ王国を正式に合併して両シチリア王国とした。 20年と 48年の革命を経たのち,60年5月 G.ガリバルディが「赤シャツ千人隊」を率いて上陸,独裁制をしいた。同年 10月シチリアとナポリで住民投票が実施されてサルジニア王国への併合が決り,両シチリア王国は消滅した。

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百科事典マイペディアの解説

シチリア王国【シチリアおうこく】

中世,南イタリアシチリア島を中心とした王国。1130年対立教皇アナクレトゥス2世がノルマン人のシチリア伯ルッジェーロ2世に,教皇援助の代償として王号を許したのが起源。
→関連項目アンジュー[家]カンパニア[州]ナポリパレルモ

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世界大百科事典 第2版の解説

シチリアおうこく【シチリア王国 Regno di Sicilia】

12世紀以降シチリアを支配した王国。シチリアは9世紀から11世紀までイスラム勢力の統治下にあったが,1040年以降首長たちの間に内紛が生じた。このころメッシナに定住していたノルマン人がこの内紛に乗じてシチリアに進出,1061年から91年までに全島を征服した。その指導者ルッジェーロ1世は〈シチリアとカラブリアの伯〉を称し,その子ルッジェーロ2世は〈シチリアとプーリアの王〉となり,ここにシチリア王国が成立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シチリア王国
しちりあおうこく
Regno di Siciliaイタリア語

中世においてシチリア(シシリーSicily)島とイタリア半島南部を支配した王国。9世紀前半からイスラム勢力の支配下にあったシチリア島は、11世紀後半にノルマン出身の騎士ロベルト・グイスカルド(ロベール・ギスカール)とルッジェーロ(1世)の兄弟によって征服され、後者の子ルッジェーロ(2世)が1130年にシチリア王に即位したことによって新しい王国が成立した。ノルマン騎士はまずイタリア半島に定着し、それからシチリア征服を開始したため、シチリア王国の首都はパレルモにあったが、領土は半島南部と島の双方にまたがっていた。そのためシチリア・プーリア王国とよばれることもある(正式名称ではない)。
 ルッジェーロ1世・2世は宗教的寛容政策をとり、イスラム時代の統治機構を利用しながら権力の集中を進めた。こうしてシチリア王国は、カトリック世界の一端に位置しながら、イスラム文化およびそれ以前のビザンティン文化の影響を維持した特異な文化の中心となった。1189年にノルマン朝の男系が絶えると、ホーエンシュタウフェン朝のハインリヒ(6世)が婚姻関係から王位についた。その子フリードリヒ2世は、シチリア王国を教皇庁の封建臣下の位置にとどめておこうとする教皇インノケンティウス3世と争い、シチリア王国を足場に皇帝権の確立を企てた。この時代にシチリア王国は繁栄の頂点に達し、ノルマン朝以来の国際的文化はイタリア各地の都市文化に大きな影響を与えた。フリードリヒの死後、教皇によってフランスからシャルル・ダンジューが招かれ(1266)、アンジュー朝が成立した。しかし、1282年のいわゆる「シチリアの晩鐘」の反乱によって、シチリア島はアラゴン家の手に帰し、アンジュー家は南イタリアを維持することになり、シチリア王国は二つに分裂した。この両王朝ともシチリア王を称したが、アンジュー朝の場合は一般にナポリ王国(1282以降)とよばれる。1442年、アラゴンのアルフォンソ5世がナポリを征服し、両国家を結合してアルフォンソ1世を称した。さらに1503年にスペイン王フェルナンド5世(カトリック王)が国王に即位し、シチリア王国は事実上スペインに合併された。[清水廣一郎]

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世界大百科事典内のシチリア王国の言及

【シュタウフェン朝】より

…一方,神聖ローマ皇帝権を昔日の姿において再興しようとする彼の皇帝政策は,ローマ教皇側の反撃のみならず,力強く成長したイタリア諸都市の抵抗,英仏王権の反発をよびおこした。とりわけ,ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの結婚を通じて,シチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198‐1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。…

【ナポリ王国】より

…11世紀末から12世紀にかけて,イタリア半島南部とシチリア島はノルマン人によって征服され,結合された(1140)。こうして成立したシチリア王国はホーエンシュタウフェン家(シュタウフェン朝。1194‐1266),アンジュー家(1266‐1435)と受け継がれた。…

※「シチリア王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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