改訂新版 世界大百科事典 「ジュンガル」の意味・わかりやすい解説
ジュンガル (準噶爾
)
Jungar
17世紀初から18世紀中葉の間,天山・アルタイ両山脈間のジュンガル盆地に分布したオイラート系の遊牧部族とその国家。この国家を清朝では準噶爾部あるいは略して準部と称した。17世紀初にオイラート族は少なくとも五つの部族から成る連合体で,ホシュート部族長が盟主の地位にあった。この世紀20年代からチョロス部族長のハラフラ(1634没)が台頭してホシュート部族長の地位を脅かすにいたった。チョロス部族の遊牧区がオイラートの左翼(モンゴル語でジュンガル)にあたっていたことから,この部族集団はジュンガルとも呼ばれるようになった。ハラフラの子バートル・ホンタイジ(在位1634-53)はオイラート諸部を従えてジュンガル王国を建設した。彼は1636年チベットの黄帽派ラマ教主ダライ・ラマ5世の要請により,黄帽派と対立する紅帽派ラマ教勢力を討つため,ホシュート部のグシ・ハーンを青海地方に派遣した。グシ・ハーンの兵力はそのままこの地方に駐留をつづけて青海ホシュート部の起源となった。
次いでバートル・ホンタイジは宿敵の外モンゴルのアルトゥイン・ハンと和平を結んで(1640)東方からの脅威を取り除くと,西方の中央アジア方面へ積極的に軍事進出をはかった。いっぽう彼は国内体制の整備にも努めたが,なかでも重要なのは,〈大法典〉(1640)の制定と黄帽派ラマ教の国教化である。バートル・ホンタイジの子センゲ(在位1653-71)を経て,センゲの弟ガルダン(在位1671-97)にいたり,ホシュート部族の勢力を一掃して名実ともにジュンガル王国の独裁者となった。このため78年ダライ・ラマ5世よりボショクト・ハンの称号を授けられた。ガルダンは72年以来ロシアと外交・通商関係を保ち,78年から80年代半ばにかけて東トルキスタンを征服し,88年外モンゴリアに侵入したことから清の干渉を招き,90年(康煕29)から清と抗争に入った。96年清の康煕帝の率いる軍に決定的敗北を喫して,97年アルタイ山中で急死した。しかしジュンガル王国はガルダンの後を継いだその甥ツェワン・アラプタン(在位1697-1727)とガルダン・ツェリン(在位1727-45)父子の時代が最盛期で,この間にチベットの内紛に干渉して兵をラサに入れ(1717),また外モンゴリアの領有を清と争った(1731-32)。
ガルダン・ツェリンの没後,王国に内紛が相次ぎ,その勢力は急激に衰えた。ツェワン・ドルジ・ナムジャル(在位1745-50),ラマ・ダルジャ(在位1750-52),ダワチ(在位1752-55)と,支配者は短期間にめまぐるしく交替した。ツェワン・アラプタンの外孫にあたるアムルサナがダワチと対立して清に投降すると(1754),清軍は彼の手引によって1755年(乾隆20)王国の本拠地イリを攻略し,次いで清に背いたアムルサナを攻めた。アムルサナはシベリアに逃れ,そこで病死した。こうして57年ジュンガル王国は完全に滅亡した。ジュンガル王国は文化面では,ラマ教に代表されるチベット文化の影響を最も多く受け,清,ロシアの影響がこれに次いだ。
執筆者:若松 寛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報