ジンバブエ(読み)じんばぶえ(英語表記)Zimbabwe

翻訳|Zimbabwe

共同通信ニュース用語解説 「ジンバブエ」の解説

ジンバブエ

英自治領、白人強硬派によるローデシアを経て、1980年に独立したアフリカ南部の内陸国。黒人解放闘争を率いたムガベ氏が独立時から実権を握った。ジンバブエは「石造りの家」の意味。面積は約39万平方キロで、日本とほぼ同じ。人口約1652万9千人(2017年推定)。在留邦人は75人(16年10月)。2000年以降の経済政策の失敗などで、一時はインフレ率が2億%に達する異常事態に。100兆ジンバブエドル札など、当時の高額紙幣が珍しさから土産として売買され、話題となった。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ジンバブエ」の意味・読み・例文・類語

ジンバブエ

  1. ( Zimbabwe )
  2. [ 一 ] アフリカ大陸南部の内陸にある共和国。一九二三年イギリス連邦の自治植民地、五三年ローデシア、ニアサランド連邦の一部となり、連邦解体後、八〇年四月に独立。タバコ、トウモロコシ、クロム、ニッケルなどを産する。首都ハラーレ(旧称ソールスベリー)。旧称南ローデシア
  3. [ 二 ] ジンバブエ共和国南部にある遺跡。一二~一五世紀ごろ、モノモタバ王国が建設した石造建築群。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジンバブエ」の意味・わかりやすい解説

ジンバブエ(国)
じんばぶえ
Zimbabwe

アフリカ大陸南部の内陸に位置する共和国。正称はジンバブエ共和国Republic of Zimbabwe、独立以前は南ローデシアと称した。国名はグレート・ジンバブエ遺跡(大ジンバブエ遺跡)に由来し、ジンバブエ(ジンバブウェ)はショナ語で「石の家」を意味する。北はザンビア、東はモザンビーク、西はボツワナ、南は南アフリカ共和国と国境を接する。1980年4月18日、イギリスから独立。首都はハラーレ(旧称はソールズベリー)。面積39万0757平方キロメートル、人口約1306万人、人口密度33.4人/平方キロメートル(2012センサス)。通貨はジンバブエ・ドル。公用語は英語。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

自然

北側国境にザンベジ川、南側国境にリンポポ川というインド洋に注ぐ二つの大河川に挟まれた場所に位置する。国土全体が高原上に位置しており、約80%が標高900メートル以上である。東部に位置するイニャンガニ山(2592メートル)が国内最高峰である。

 気候は全体に亜熱帯性であるが、標高が高いため比較的冷涼である。季節は、11月から3月までの雨期、3月から11月までの乾期に分けられる。乾期はさらに、5月中旬から8月までの涼しい乾期と、9月から11月までの暑い乾期に分けられる。

 地質はおもに先カンブリア紀の玄武岩や花崗(かこう)岩などからなる。ジンバブエの中央を南北に走るグレート・ダイク(Great Dyke)とよばれる山脈は火成岩質であり、クロムやニッケル、プラチナなどの資源が産出される。

 国土の約45%が森林に覆われており、おもにブラキステギア属などが優占するミオンボ林や、モパネが優占するモパネ林などの植生がある。国内には11の国立公園があり、ワンゲ国立公園やマナ・プールズ国立公園などには多くの野生動物が生息している。また、ザンビアとの国境に位置するザンベジ川には、幅約1700メートル、落差最大108メートルのビクトリア滝(周辺に居住するトンガ(民族)のことばでは「雷鳴のとどろく水煙(モシ・オ・トゥニャMosi-oa-Tunya)」とよばれる)があり、周辺は国立公園に指定されている。ビクトリア滝は世界三大瀑布(ばくふ)の一つであり、1989年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

歴史

石器時代にはコイサン系の狩猟採集民が居住していたとされ、国内各地に彼らが残したとされる岩壁画が存在する。時期は定かではないが、紀元前後から3世紀ごろまでにはバントゥー系の諸集団が現在のジンバブエにあたる地域に到達したと考えられている。

 10世紀なかばからは、人口増加や集落規模の大型化が進み、首長制国家が各地で形成された。

 金・象牙(ぞうげ)の交易も発展し、交易を通じて支配力を拡大した大国家も誕生した。その一つが、グレート・ジンバブエ国である。この国の遺跡(グレート・ジンバブエ遺跡)は、現在のマシンゴ(マスビンゴ)市郊外、サビ川支流沿いに位置している。11世紀ごろにはショナの集落が形成され、王国は13世紀から15世紀にかけてインド洋交易を通じて繁栄した。遺跡には神殿や住居跡など花崗岩の方形ブロックを空積(からづ)みにした大規模な石造建築が残されており、1986年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。

 グレート・ジンバブエ国の衰退以降、15世紀中ごろから各地でトルワ国やモノモタパ国、17世紀後半からチャンガミレ国が興った。とくにチャンガミレは北東部に進出していたポルトガル人を攻撃・追放し、他の王国の権力を弱め、18世紀におけるジンバブエの支配的な集団となった。その後、19世紀に入るとンデベレが南方から到来した。彼らはチャンガミレを滅ぼし、現在のブラワヨ市周辺にンデベレ国を築いた。

 19世紀末、すでに南アフリカに進出していたセシル・ローズ率いるイギリス南アフリカ会社British South Africa Company(BSAC)が到来した。ンデベレやショナによるヨーロッパ人への抵抗は鎮圧され、BSACによる統治ののち、1923年にイギリスの自治植民地、南ローデシアとなった。南ローデシアには南アフリカやイギリスから多くの入植者が流入し、金やクロムなどを採掘する鉱業を中心に、商業的農業や製造業も発展した。ヨーロッパ系入植者らによる産業が発展するなか、アフリカ人は人種差別的な政策のもと低賃金労働力として位置づけられた。南ローデシアは、北ローデシア(現、ザンビア)やニアサランド(現、マラウイ)、ポルトガル領モザンビーク(現、モザンビーク)などからも労働力を確保していた。

 1953年にはローデシア・ニアサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦)が結成された。これは、南ローデシアの製造業や商業的農業、北ローデシアの銅鉱業と労働力、ニアサランドの労働力という経済的に相互依存関係をもつ3地域を政治的に統合し、効率的に経済を成長させるねらいがあった。北ローデシアでのアフリカ人による連邦反対運動の高まり、およびその後の独立により、1963年に連邦は解体した。

 1960年代に次々と植民地が独立するなか、イギリス政府は南ローデシアにも多数派支配への移行や人種差別の撤廃を要求したが、白人支配体制のもとでの独立を望んでいた南ローデシア政府はこれを拒否し、1965年一方的独立宣言を行った。これを契機に、ジンバブエ・アフリカ人民同盟Zimbabwe African People's Union(ZAPU)やジンバブエ・アフリカ民族同盟Zimbabwe African National Union(ZANU)などの解放組織の活動は武力闘争を主軸とするようになり、1972年からローデシア白人政権との対立が深まった。ローデシアの政治状況は国際社会を巻き込んだ問題へと発展し、最終的には1979年12月に新憲法制定や停戦協定の合意がなされた。1980年2月の総選挙においてジンバブエ・アフリカ民族同盟-愛国戦線Zimbabwe African National Union-Patriotic Front(ZANU-PF)が勝利し、4月18日にジンバブエとして独立した。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

政治

ジンバブエは共和制国家であり、元首は大統領(任期5年)、議会は二院制(下院、上院とも議員任期5年)である。

 独立当時は議員内閣制を採用しており、与党ZANU-PFからロバート・ムガベが首相として選出された。1987年に実権大統領制へと移行し、ムガベは大統領となった。独立以降、ムガベ政権は国内の融和を重視するとともに、社会主義的な政策を採用し、アフリカ人向けの教育や保険サービスの拡充に努めた。ZANU-PFは、主要な野党であったZAPUと1989年に統合協定に調印したため、独立以降は事実上の一党体制が続いた。

 独立時のジンバブエは入植型植民地時代の遺産として、鉱業、商業的農業、製造業といった近代産業部門とそれらを支える鉄道、道路などのインフラを引き継いだ。しかし、近代産業部門やそれを支える資源は、ヨーロッパ系移住民とその子孫である「白人」の所有下にあり、独立後の政府にとってアフリカ系住民「黒人」との不平等や格差を解決することはつねに重要な政策課題であった。

 その代表的な問題が土地である。独立時、白人大農場(約6000)は国土の約40%の土地を所有し、先進技術や大規模な労働力を投入した商業的農業を展開していた。一方、国民の95%以上を占めるアフリカ人は、入植者が収奪したあとに残された土地に追いやられ、条件の悪い土地で小規模な農業を営んできた。土地所有における格差、不平等を解消するための再分配は、さまざまな要因により1980~1990年代を通じて円滑に進展しなかった。1990年代末には元解放軍兵士を中心に、与党の腐敗を糾弾し、土地改革を求める抗議活動が展開された。一部では、白人の農場に侵入し、土地改革の実施を要求するという事態に発展した。重要な支持基盤である元解放軍兵士の要求を無視できない与党は、土地改革案や大統領権限の強化を盛り込んだ新憲法案を提示した。

 しかし2000年2月の国民投票では、政府による新憲法案が否決され、同年6月に実施された国会選挙では、1999年に結成された野党の民主変革運動Movement for Democratic Change(MDC)が議席を大幅に増加させる結果となった。MDCは、1990年代に実施された経済構造改革政策による経済悪化に不満をもつ都市住民を支持基盤としており、とくに大都市で支持を集めていた。

 2000年7月、ムガベ政権は「急速再入植計画Fast Track Land Reform Programme」を発表し、土地接収を強行した。強権的な土地改革を非人道的であるとした主要援助国は制裁措置を発動した。海外資本も国外へ逃避するなか、基幹産業が衰退し、国内経済は悪化の一途をたどった。与党の支持基盤は弱体化し、2008年3月の総選挙では、独立以降、議会の過半数を維持してきたZANU-PFが下院で過半数割れし、MDCが勝利した。大統領選でもMDCの党首、モーガン・チャンギライMorgan R. Tsvangirai(1952―2018)がムガベの得票数を上回ったが、過半数に満たないとして決戦投票が行われることになった。しかし、野党支持者に対する弾圧が激化し、チャンギライは選挙戦から撤退した。この選挙は、国際社会からも公正・自由なものではなかったとして非難された。

 2008年6月に再選挙が行われ、ムガベが引き続き大統領の座についた。2009年2月には与野党連立の包括的政府が成立し、政治改革を進め、新憲法制定ののちに総選挙を行うことが決定した。2013年7月に総選挙が行われ、ムガベが6選を果たし、包括的政府は解消された。

 ムガベの高齢化に伴い、与党内ではムガベの妻、グレースGrace N. Mugabe(1965― )を中心とした一派と、副大統領のエマーソン・ムナンガグワEmmerson D. Mnangagwa(1942― )を中心とした一派の間で後継者争いが生じた。2017年11月6日、ムナンガグワが副大統領職を解任され、党からも追放された。これをきっかけに、同月13日、ジンバブエ軍が党内の不安定な動きに介入する姿勢をみせ、14日未明より軍が国会議事堂などを占拠するとともに、ムガベを自宅軟禁するという事実上のクーデターへと発展した。同月21日、ムガベが辞職し、独立以降37年間続いたムガベ政権は終焉(しゅうえん)を迎えた。2017年11月24日、与党から指名を受けたムナンガグワが大統領に就任し、2018年の選挙でも再選を果たした。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

経済・産業

基盤産業は鉱業(金、プラチナ、クロム、ダイヤモンドなど)と農業(タバコ、綿花、トウモロコシなど)である。土地改革に伴う政治・経済的な混乱により長らく経済が停滞しており、1999年から2008年にかけては年平均GDP(国内総生産)成長率がマイナスを記録し続けた。2009年から2012年にかけては年平均成長率10%以上を維持したが、2013年以降は5%以下、2019年からは新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行による影響もありマイナス成長となった。

 2000年以降は外部からの資金協力の停止などの経済制裁が課された一方で、政府が通貨の発行を加速させたため、インフレ率が高騰し続けた。2008年7月には年率2億3100万%という値を記録し、世界でもまれにみるハイパーインフレとなった。2009年1月には自国通貨の流通を事実上停止し、複数外貨制(おもにアメリカ・ドル、南アフリカ・ランド)を導入した。2016年11月、アメリカ・ドル現金の不足を補うため、アメリカ・ドルと同価で国内のみに流通するボンド紙幣を導入した。また、2019年6月にはジンバブエ・ドルを再導入したが、2020年3月には新型コロナウイルス感染症対策の一環としてアメリカ・ドルを再導入した。2017年の政権交代以降も外貨・現金不足は深刻化している。

 一連の経済危機は、国外、とくに南アフリカ共和国への多くの出稼ぎ労働者を生み出してきた。また、国内では公的・民間部門の衰退に伴い、インフォーマル部門(露天商や行商などに代表される公的な枠組みに捕捉されないさまざまな経済活動)が拡大している。他方、2003年にアジア諸国との関係を重視する「ルックイースト政策」を採用しており、とくに中国からの投資・貿易が重要な役割を担うようになっている。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

社会・文化

国内で最大のエスニック集団はショナ族であり、全土に広く居住している。国内第二の都市であるブラワヨを中心とした南西部にはンデベレ族が多く居住する。そのほかにも、北部のザンビア国境付近にはトンガ族、南部の南アフリカ共和国国境付近にはベンダ族やツワナ族など、さまざまなエスニック集団が居住する。公用語は英語であるが、ショナ語やンデベレ語は地域共通語として広く話されている。

 独立後のムガベ政権が教育を重視してきたことから、アフリカ諸国のなかでも教育水準や識字率が高いことで知られている。初・中等教育は初等7年、中等6年(前期4年、後期2年)で構成されている。前期中等教育を修了し試験に合格した者にはGCE(General Certificate of Education)Oレベルが、後期中等教育を修了し試験に合格した者にはAレベルが付与される。高等教育には大学や教員養成校などがある。

[伊藤千尋 2022年6月22日]

日本との関係

日本は1980年の独立と同時にジンバブエを承認し、以降、両国の関係は続いている。日本からの輸入は15.9億円、主要品目は自動車、医薬品などである(2020)。日本への輸出は36億円、主要品目は葉タバコ、合金鉄、粗鉱物などである(2020)。

[伊藤千尋 2022年6月22日]



ジンバブエ(遺跡)
じんばぶえ
Zimbabwe

南アフリカ、ジンバブエ国の南部にある石造建築群で著名な遺跡。1986年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。高さ10メートルぐらいの石壁に囲まれた「神殿」と、そびえ立つ花崗(かこう)岩の巨石を利用した砦(とりで)のような「アクロポリス」、二つを結ぶ谷間に点在する石造建築群「谷の遺跡」の三つで構成される。19世紀中ごろ、ドイツの地理学者カール・マウフKarl Gottlieb Mauch(1837―75)によって発見された。当初、これらはフェニキア人によってつくられたと考えられたが、のちにアフリカ人の手で残されたものとわかった。「アクロポリス」はカランガ人の建てたモノモタパ王国の首都で12~15世紀のもの、「神殿」は、これを滅ぼしたロズウィ人のもので18世紀まで存続していた。

[山下秀樹]


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百科事典マイペディア 「ジンバブエ」の意味・わかりやすい解説

ジンバブエ

◎正式名称−ジンバブエ共和国Republic of Zimbabwe。◎面積−39万757km2。◎人口−1306万人(2012)。◎首都−ハラレHarare(149万人,2012)。◎住民−ショナ人70%,ヌデベレ人20%,ヨーロッパ人など。◎宗教−キリスト教,民族固有の宗教。◎言語−英語(公用語)のほか,ショナ語,ヌデベレ語などのバントゥー諸語。◎通貨−複数外貨制を導入(米ドル,南アフリカのランドなど)。◎元首−大統領,ムガベRobert Gabriel Mugabe(1924年生れ,1980年3月―1980年12月首相,1987年12月就任,2013年7月6選,任期5年)。◎憲法−1980年4月発効,1987年8月改正(白人特別議席を廃止)。◎国会−二院制。上院(定員93,うち民選60),下院(定員210),いずれも任期5年。最近の選挙は2013年7月。◎GDP−50億ドル(2006)。◎1人当りGNP−340ドル(2005)。◎農林・漁業就業者比率−60.9%(2003)。◎平均寿命−男58.8歳,女60.8歳(2013)。◎乳児死亡率−51‰(2010)。◎識字率−91.9%(2009)。    *    *アフリカ南部の内陸にある共和国。旧称ローデシア。南ア共和国,ボツワナ,ザンビア,モザンビークに囲まれる。国土の大部分が標高500〜1000mの高原で,東部にイニャンガニ山(2595m)がある。北部国境を流れるザンベジ川にカリバ・ダムがあり,南部国境をリンポポ川が流れる。気候は熱帯性であるが高地ではしのぎやすい。金,アスベスト,石炭,クロム,銅などの鉱産に恵まれ,タバコ,食品加工,金属,繊維などの工業が発達する。農産物ではタバコが最も重要で,茶,トウモロコシ,ジャガイモ,綿花などの産も多い。牛・羊の畜産もある。 古くはジンバブエ遺跡が知られるが,19世紀後半に欧州人の侵略が始まり,1889年セシル・ローズがイギリス南アフリカ会社を創立,統治権を確立した。のちローズにちなんでローデシアと命名された。1911年北ローデシア(ザンビア)と分離,1923年英自治領南ローデシアとなった。1953年北ローデシア,ニヤサランド(マラウイ)とともに連邦を形成したが,1963年に連邦は解体した。1965年少数白人のローデシア戦線が英国から一方的独立を宣言して以来,混乱と内戦が続いた。1979年〈黒人多数支配下の独立〉で合意が成立,1980年2月独立総選挙でムガベの率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)が圧勝,4月独立した。1987年の憲法改正によって,国会での白人特別議席が廃止され,ムガベが実権のある大統領職についた。2003年12月イギリス連邦首脳会議が,白人農地を強制的に接収する土地改革に基づいた強権政治に対して,ジンバブエの加盟資格停止処分の継続を決定したため,ムガベ大統領はイギリス連邦からの脱退を通告した。
→関連項目アフリカカブウェグウェルショナズールーズールー語チムレンガヌデベレハギンズムタレモノモタパ王国レッシングローデシア

ジンバブエ(遺跡)【ジンバブエ】

アフリカ南部,ジンバブエ共和国の首都ハラレ南方,約300kmにある巨大な石造建築の遺跡。丘の上の城塞(じょうさい)跡,平野の神殿跡,両者の中間にある住居跡からなる。19世紀にヨーロッパ人の探検家が発見,20世紀以降数回にわたる考古学的な調査が行われた。バントゥー系種族により,10―18世紀に建築されたと推定される。1986年世界文化遺産に登録。
→関連項目アフリカショナジンバブエモノモタパ王国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジンバブエ」の意味・わかりやすい解説

ジンバブエ
Zimbabwe

正式名称 ジンバブエ共和国 Republic of Zimbabwe。
面積 39万757km2
人口 1398万2000(2021推計)。
首都 ハラレ

アフリカ南東部の内陸国。旧称ローデシア Rhodesia。北はザンビア,東はモザンビーク,南は南アフリカ共和国,西はボツワナと国境を接する。国土の大部分は標高 500~1500mのサバナの高原。北西部をザンベジ川,南部をリンポポ川で画され,その支流やサビ川が主要河川。ザンベジ川上流には,ザンビアにまたがる世界有数の人造湖カリバ湖やビクトリア瀑布がある。高地にあるため年平均気温は 15℃前後でしのぎやすい。古くから人類が住み,13~15世紀にジンバブエを首都とするアフリカ人の強国が栄え,金,象牙の貿易が行なわれていたが,15世紀後半に滅亡(→ジンバブエ遺跡)。1855年デービッド・リビングストンがビクトリア瀑布を発見,以後イギリス人が進出し,マタベレランドの王ロベングラとイギリスとの間に鉱業権を中心とした条約が結ばれ,1890年セシル・ローズのイギリス南アフリカ会社の支配下となった。イギリス保護領を経て 1923年南ローデシア自治植民地(ローズの名にちなんで命名)となり,1953年北ローデシア(のちのザンビア),ニアサランド(のちのマラウイ)とともにローデシア=ニアサランド連邦を結成。1964年のザンビアの独立に伴い翌 1965年に少数の白人政権が一方的に独立を宣言,国名をローデシアとした。さらに 1970年共和国移行を宣言したが,イギリスをはじめ国際的に承認されなかった。その後も人口の 5%に満たない白人が政治,経済を支配し,人種差別が著しかったが,黒人組織によるゲリラ戦の末,1980年4月に行なわれた総選挙で黒人組織の愛国戦線が圧勝,白人支配を排してジンバブエ共和国として独立した(→ローデシア問題)。鉱産資源が豊富で,金,ダイヤモンド,アスベスト,銅,石炭,クロム,ニッケルなどを産出。タバコ,トウモロコシ,サトウキビ,チャ(茶),ワタなどの栽培が盛んなほか,食品,繊維などの工業も発達。独立以来長期政権の座にあるロバート・ムガベ大統領は 1990年代から白人が所有する農地の接収を進め,経済の混乱を引き起こした。住民の約 9割がショナ族ンデベレ族などのバンツー語系(→バンツー語系諸族)で,宗教は民族固有の原始宗教,キリスト教など。公用語は英語のほか,諸部族の言語など 16言語が指定されている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジンバブエ」の解説

ジンバブエ
Zimbabwe

中世の巨大石造建築遺跡で有名な,南部アフリカの内陸国。首都ハラーレ
【中世ジンバブエ】ジンバブエとはショナ語で「石の家」を意味する。ザンベジ・リンポポ川流域では700年ころから社会が形成され,のち集権的国家(900〜1250 (ごろ) )に発展。9世紀以後,高度の文明が存在し,インド産のガラス玉や中国製の陶器が出土して,インド洋交易の波及が確認されている。1075年ころからジンバブエ伝統の元祖とされる国家マプングブエが成立し,1250年ころから都市グレート−ジンバブエで巨大な石の壁建設が始まる。15世紀にその最盛期を迎えるが,商業ルートの変化や人口集中による環境破壊などが要因とされ,15世紀半ば,高原地帯北東部にモノモタパ(ムタパ)王国,高原地帯西部にトルワ国が生まれた。石壁建築の伝統を継承するこれらの国に繁栄を奪われ,グレート−ジンバブエは1500年ころ没落した。その後,草原地帯でトルワ国が繁栄するいっぽう,モノモタパ王国は新たに進出してきたポルトガルと抗争するなか,徐々に衰退して18世紀初めにはザンベジ川谷に遷都した。
【近代と独立】1850年代にイギリス人リヴィングストンの探検が行われ,のちにセシル=ローズによって開発が進められ,89年イギリス南アフリカ会社の支配下に置かれた。1923年南ローデシア自治政府が設立され自治植民地となった。1953年北ローデシア(現ザンビア),ニヤサランド(現マラウイ)とともに中央アフリカ連邦を結成(1963年解体)。1965年,南ローデシアの白人スミス政権がアパルトヘイト維持のため,イギリスの承認をへず一方的に独立を宣言。1972年ころからジンバブエ−アフリカ人民同盟(ZAPU)とジンバブエ−アフリカ民族同盟(ZANU)の両組織がゲリラ戦を開始。1976年両組織を中心にジンバブエ解放戦線が結成され,80年4月,アフリカ人主権国家ジンバブエとして独立。ZANUのムガベ議長が首相に選出され(1987年から大統領に就任),非同盟主義のもと社会主義路線を採択した。1988年にZAPUがZANUに吸収されて事実上1党支配が確立された。その後,南アフリカ共和国でのアパルトヘイトの終焉とマンデラ政権誕生で,1994年南アフリカ共和国と国交を樹立。また,国際的な冷戦体制の崩壊後,経済開発推進のため,欧米諸国との関係強化につとめている。1996年ムガベ大統領が3選された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジンバブエ」の解説

ジンバブエ
Zimbabwe

南部アフリカの共和国,旧南ローデシア(ローデシア)。首都ハラレ(旧ソールズベリー)。ショナ人,ンデベレ人などが住む。1889年発足したイギリス南アフリカ会社の植民活動の結果,南ア白人社会の北端として発展。だが1923年南アフリカ連邦と別個のイギリス自治領になる。63年ローデシア‐ニヤサランド連邦(53年発足)が解体すると,65年白人入植者は,黒人支配を嫌って本国からの独立を一方的に宣言,国際世論の非難を浴びた。アフリカ人民族運動が先鋭化し,ザンビアモザンビークを基地として武力闘争が展開された。79年イギリスの介入で停戦,妥協が成立,80年全人種参加の選挙をへて,独立と黒人多数派政権が実現された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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