アフリカ大陸南部の内陸に位置する共和国。正称はジンバブエ共和国Republic of Zimbabwe、独立以前は南ローデシアと称した。国名はグレート・ジンバブエ遺跡(大ジンバブエ遺跡)に由来し、ジンバブエ(ジンバブウェ)はショナ語で「石の家」を意味する。北はザンビア、東はモザンビーク、西はボツワナ、南は南アフリカ共和国と国境を接する。1980年4月18日、イギリスから独立。首都はハラーレ(旧称はソールズベリー)。面積39万0757平方キロメートル、人口約1306万人、人口密度33.4人/平方キロメートル(2012センサス)。通貨はジンバブエ・ドル。公用語は英語。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
北側国境にザンベジ川、南側国境にリンポポ川というインド洋に注ぐ二つの大河川に挟まれた場所に位置する。国土全体が高原上に位置しており、約80%が標高900メートル以上である。東部に位置するイニャンガニ山(2592メートル)が国内最高峰である。
気候は全体に亜熱帯性であるが、標高が高いため比較的冷涼である。季節は、11月から3月までの雨期、3月から11月までの乾期に分けられる。乾期はさらに、5月中旬から8月までの涼しい乾期と、9月から11月までの暑い乾期に分けられる。
地質はおもに先カンブリア紀の玄武岩や花崗(かこう)岩などからなる。ジンバブエの中央を南北に走るグレート・ダイク(Great Dyke)とよばれる山脈は火成岩質であり、クロムやニッケル、プラチナなどの資源が産出される。
国土の約45%が森林に覆われており、おもにブラキステギア属などが優占するミオンボ林や、モパネが優占するモパネ林などの植生がある。国内には11の国立公園があり、ワンゲ国立公園やマナ・プールズ国立公園などには多くの野生動物が生息している。また、ザンビアとの国境に位置するザンベジ川には、幅約1700メートル、落差最大108メートルのビクトリア滝(周辺に居住するトンガ(民族)のことばでは「雷鳴のとどろく水煙(モシ・オ・トゥニャMosi-oa-Tunya)」とよばれる)があり、周辺は国立公園に指定されている。ビクトリア滝は世界三大瀑布(ばくふ)の一つであり、1989年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録された。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
石器時代にはコイサン系の狩猟採集民が居住していたとされ、国内各地に彼らが残したとされる岩壁画が存在する。時期は定かではないが、紀元前後から3世紀ごろまでにはバントゥー系の諸集団が現在のジンバブエにあたる地域に到達したと考えられている。
10世紀なかばからは、人口増加や集落規模の大型化が進み、首長制国家が各地で形成された。
金・象牙(ぞうげ)の交易も発展し、交易を通じて支配力を拡大した大国家も誕生した。その一つが、グレート・ジンバブエ国である。この国の遺跡(グレート・ジンバブエ遺跡)は、現在のマシンゴ(マスビンゴ)市郊外、サビ川支流沿いに位置している。11世紀ごろにはショナの集落が形成され、王国は13世紀から15世紀にかけてインド洋交易を通じて繁栄した。遺跡には神殿や住居跡など花崗岩の方形ブロックを空積(からづ)みにした大規模な石造建築が残されており、1986年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。
グレート・ジンバブエ国の衰退以降、15世紀中ごろから各地でトルワ国やモノモタパ国、17世紀後半からチャンガミレ国が興った。とくにチャンガミレは北東部に進出していたポルトガル人を攻撃・追放し、他の王国の権力を弱め、18世紀におけるジンバブエの支配的な集団となった。その後、19世紀に入るとンデベレが南方から到来した。彼らはチャンガミレを滅ぼし、現在のブラワヨ市周辺にンデベレ国を築いた。
19世紀末、すでに南アフリカに進出していたセシル・ローズ率いるイギリス南アフリカ会社British South Africa Company(BSAC)が到来した。ンデベレやショナによるヨーロッパ人への抵抗は鎮圧され、BSACによる統治ののち、1923年にイギリスの自治植民地、南ローデシアとなった。南ローデシアには南アフリカやイギリスから多くの入植者が流入し、金やクロムなどを採掘する鉱業を中心に、商業的農業や製造業も発展した。ヨーロッパ系入植者らによる産業が発展するなか、アフリカ人は人種差別的な政策のもと低賃金労働力として位置づけられた。南ローデシアは、北ローデシア(現、ザンビア)やニアサランド(現、マラウイ)、ポルトガル領モザンビーク(現、モザンビーク)などからも労働力を確保していた。
1953年にはローデシア・ニアサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦)が結成された。これは、南ローデシアの製造業や商業的農業、北ローデシアの銅鉱業と労働力、ニアサランドの労働力という経済的に相互依存関係をもつ3地域を政治的に統合し、効率的に経済を成長させるねらいがあった。北ローデシアでのアフリカ人による連邦反対運動の高まり、およびその後の独立により、1963年に連邦は解体した。
1960年代に次々と植民地が独立するなか、イギリス政府は南ローデシアにも多数派支配への移行や人種差別の撤廃を要求したが、白人支配体制のもとでの独立を望んでいた南ローデシア政府はこれを拒否し、1965年一方的独立宣言を行った。これを契機に、ジンバブエ・アフリカ人民同盟Zimbabwe African People's Union(ZAPU)やジンバブエ・アフリカ民族同盟Zimbabwe African National Union(ZANU)などの解放組織の活動は武力闘争を主軸とするようになり、1972年からローデシア白人政権との対立が深まった。ローデシアの政治状況は国際社会を巻き込んだ問題へと発展し、最終的には1979年12月に新憲法制定や停戦協定の合意がなされた。1980年2月の総選挙においてジンバブエ・アフリカ民族同盟-愛国戦線Zimbabwe African National Union-Patriotic Front(ZANU-PF)が勝利し、4月18日にジンバブエとして独立した。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
ジンバブエは共和制国家であり、元首は大統領(任期5年)、議会は二院制(下院、上院とも議員任期5年)である。
独立当時は議員内閣制を採用しており、与党ZANU-PFからロバート・ムガベが首相として選出された。1987年に実権大統領制へと移行し、ムガベは大統領となった。独立以降、ムガベ政権は国内の融和を重視するとともに、社会主義的な政策を採用し、アフリカ人向けの教育や保険サービスの拡充に努めた。ZANU-PFは、主要な野党であったZAPUと1989年に統合協定に調印したため、独立以降は事実上の一党体制が続いた。
独立時のジンバブエは入植型植民地時代の遺産として、鉱業、商業的農業、製造業といった近代産業部門とそれらを支える鉄道、道路などのインフラを引き継いだ。しかし、近代産業部門やそれを支える資源は、ヨーロッパ系移住民とその子孫である「白人」の所有下にあり、独立後の政府にとってアフリカ系住民「黒人」との不平等や格差を解決することはつねに重要な政策課題であった。
その代表的な問題が土地である。独立時、白人大農場(約6000)は国土の約40%の土地を所有し、先進技術や大規模な労働力を投入した商業的農業を展開していた。一方、国民の95%以上を占めるアフリカ人は、入植者が収奪したあとに残された土地に追いやられ、条件の悪い土地で小規模な農業を営んできた。土地所有における格差、不平等を解消するための再分配は、さまざまな要因により1980~1990年代を通じて円滑に進展しなかった。1990年代末には元解放軍兵士を中心に、与党の腐敗を糾弾し、土地改革を求める抗議活動が展開された。一部では、白人の農場に侵入し、土地改革の実施を要求するという事態に発展した。重要な支持基盤である元解放軍兵士の要求を無視できない与党は、土地改革案や大統領権限の強化を盛り込んだ新憲法案を提示した。
しかし2000年2月の国民投票では、政府による新憲法案が否決され、同年6月に実施された国会選挙では、1999年に結成された野党の民主変革運動Movement for Democratic Change(MDC)が議席を大幅に増加させる結果となった。MDCは、1990年代に実施された経済構造改革政策による経済悪化に不満をもつ都市住民を支持基盤としており、とくに大都市で支持を集めていた。
2000年7月、ムガベ政権は「急速再入植計画Fast Track Land Reform Programme」を発表し、土地接収を強行した。強権的な土地改革を非人道的であるとした主要援助国は制裁措置を発動した。海外資本も国外へ逃避するなか、基幹産業が衰退し、国内経済は悪化の一途をたどった。与党の支持基盤は弱体化し、2008年3月の総選挙では、独立以降、議会の過半数を維持してきたZANU-PFが下院で過半数割れし、MDCが勝利した。大統領選でもMDCの党首、モーガン・チャンギライMorgan R. Tsvangirai(1952―2018)がムガベの得票数を上回ったが、過半数に満たないとして決戦投票が行われることになった。しかし、野党支持者に対する弾圧が激化し、チャンギライは選挙戦から撤退した。この選挙は、国際社会からも公正・自由なものではなかったとして非難された。
2008年6月に再選挙が行われ、ムガベが引き続き大統領の座についた。2009年2月には与野党連立の包括的政府が成立し、政治改革を進め、新憲法制定ののちに総選挙を行うことが決定した。2013年7月に総選挙が行われ、ムガベが6選を果たし、包括的政府は解消された。
ムガベの高齢化に伴い、与党内ではムガベの妻、グレースGrace N. Mugabe(1965― )を中心とした一派と、副大統領のエマーソン・ムナンガグワEmmerson D. Mnangagwa(1942― )を中心とした一派の間で後継者争いが生じた。2017年11月6日、ムナンガグワが副大統領職を解任され、党からも追放された。これをきっかけに、同月13日、ジンバブエ軍が党内の不安定な動きに介入する姿勢をみせ、14日未明より軍が国会議事堂などを占拠するとともに、ムガベを自宅軟禁するという事実上のクーデターへと発展した。同月21日、ムガベが辞職し、独立以降37年間続いたムガベ政権は終焉(しゅうえん)を迎えた。2017年11月24日、与党から指名を受けたムナンガグワが大統領に就任し、2018年の選挙でも再選を果たした。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
基盤産業は鉱業(金、プラチナ、クロム、ダイヤモンドなど)と農業(タバコ、綿花、トウモロコシなど)である。土地改革に伴う政治・経済的な混乱により長らく経済が停滞しており、1999年から2008年にかけては年平均GDP(国内総生産)成長率がマイナスを記録し続けた。2009年から2012年にかけては年平均成長率10%以上を維持したが、2013年以降は5%以下、2019年からは新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行による影響もありマイナス成長となった。
2000年以降は外部からの資金協力の停止などの経済制裁が課された一方で、政府が通貨の発行を加速させたため、インフレ率が高騰し続けた。2008年7月には年率2億3100万%という値を記録し、世界でもまれにみるハイパーインフレとなった。2009年1月には自国通貨の流通を事実上停止し、複数外貨制(おもにアメリカ・ドル、南アフリカ・ランド)を導入した。2016年11月、アメリカ・ドル現金の不足を補うため、アメリカ・ドルと同価で国内のみに流通するボンド紙幣を導入した。また、2019年6月にはジンバブエ・ドルを再導入したが、2020年3月には新型コロナウイルス感染症対策の一環としてアメリカ・ドルを再導入した。2017年の政権交代以降も外貨・現金不足は深刻化している。
一連の経済危機は、国外、とくに南アフリカ共和国への多くの出稼ぎ労働者を生み出してきた。また、国内では公的・民間部門の衰退に伴い、インフォーマル部門(露天商や行商などに代表される公的な枠組みに捕捉されないさまざまな経済活動)が拡大している。他方、2003年にアジア諸国との関係を重視する「ルックイースト政策」を採用しており、とくに中国からの投資・貿易が重要な役割を担うようになっている。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
国内で最大のエスニック集団はショナ族であり、全土に広く居住している。国内第二の都市であるブラワヨを中心とした南西部にはンデベレ族が多く居住する。そのほかにも、北部のザンビア国境付近にはトンガ族、南部の南アフリカ共和国国境付近にはベンダ族やツワナ族など、さまざまなエスニック集団が居住する。公用語は英語であるが、ショナ語やンデベレ語は地域共通語として広く話されている。
独立後のムガベ政権が教育を重視してきたことから、アフリカ諸国のなかでも教育水準や識字率が高いことで知られている。初・中等教育は初等7年、中等6年(前期4年、後期2年)で構成されている。前期中等教育を修了し試験に合格した者にはGCE(General Certificate of Education)Oレベルが、後期中等教育を修了し試験に合格した者にはAレベルが付与される。高等教育には大学や教員養成校などがある。
[伊藤千尋 2022年6月22日]
日本は1980年の独立と同時にジンバブエを承認し、以降、両国の関係は続いている。日本からの輸入は15.9億円、主要品目は自動車、医薬品などである(2020)。日本への輸出は36億円、主要品目は葉タバコ、合金鉄、粗鉱物などである(2020)。
[伊藤千尋 2022年6月22日]