改訂新版 世界大百科事典 「タケ」の意味・わかりやすい解説
タケ (竹)
bamboo
花の形態からはイネ科に所属されるが,栄養器官の特殊性を重要視する意見によれば,タケ科として独立させられる。タケは単子葉植物でありながら,稈(かん)(茎をさす)が木質で多年生になる特異な生活型を有し,また葉に葉柄があって葉鞘(ようしよう)につながり,主として地下茎で無性的に繁殖し,開花はきわめてまれである。タケ類は,約30属500~1000種以上を含む大きな植物群の一つである。
タケとササ
日本では一般に,大型のものがタケで小型のものがササという類別概念が通用している。常識的にはこの区分でよいが,竹の皮(稈鞘)が稈の完成後に落ちるのをタケとし,永くついているのをササとして両者を区別することもできる。しかし,この特徴による区別だと,丈の高いメダケ類がササとなり,丈の低いオカメザサがタケとなる。また中間的なものもある。稈の節ごとの枝の数では,小型のササ類に1節1枝のものが多く,1節2枝以上のものに大型のものが多い。
地下茎
地下茎はタケの繁殖器官であり,栽培上や生態的研究などに重要な器官である。それには,単軸型(単軸分枝型)と連軸型(仮軸分枝型)が区別される。前者は,地下茎が毎年土中を伸びひろがり,稈は地下茎の芽が地上に伸び出たものである。稈の多くは地上でばらばらに立ち,稈の肉は概してうすい。多くは日本,中国の温帯,暖帯に育ち,たけのこの多くは春先に出る。染色体数は2n=48が多い。連軸型の地下茎はたいてい短く,節間に大きな芽をつけ,その芽が伸びて地下茎とつながった稈となる。そのため稈はかたまって生える。この仲間にはホウライチクなど一部日本の暖地に育つものがあるが,多くは熱帯に分布する。英語名のbambooは,元来はこの株立ちになる熱帯系のタケにつけられたものである。稈の肉は概して厚く,なかには稈の下方はほとんど空洞のないものがある。染色体数は2n=72のものが多い。しかし,単軸型と連軸型の混合的なものもある。稈は地下茎の定芽の生長するものと,稈の根もとからの不定芽が伸び出して稈に生長するものとが混じっている。すなわち,前者では稈がばらばらになり,後者ではかたまって生えたりする。この型はササ類に多く,たけのこはおおむね春先に出る。染色体数は2n=48のものが多い。
分布
タケの仲間が多いのは,温暖なアジアの東南部,アフリカ,南アメリカである。砂漠のような乾燥地帯にはない。日本では,タケは北海道の南部が栽培の北限で,それ以南の全国に育つ。しかしササは熱帯に少なく,むしろ温帯に生い茂り,サハリンや千島列島にまで分布する。
生長,繁殖
たけのこは地下茎の芽がふくらみ,地上に出てから2~3ヵ月で1本のタケとして生長を完成する。したがって太いタケでは伸び盛りに1日120cmも伸びる。たけのこが伸びきると,稈には形成層がないので,なん年たっても少しも太らない。先端の毎年の伸びも木と違い,稈としては伸びず,小枝のようにきわめてわずかなものが多い。しかし東南アジアの熱帯には稈の先端がどんどん伸長してつる性になるクライミング・バンブーclimbing bambooの一群があり,ときには稈の長さが50mをこえることがある。温帯産のタケの寿命は最高20年ぐらいである。
タケの繁殖は,主として地下茎の無性的な繁殖による。この無性繁殖を永年繰り返しているうちにただ1回有性的生殖を行い,花を咲かせ,たいていは枯死する。日本に多いマダケは,記録によると約120年を周期として全面的に一斉に開花し枯死する。しかし,開花してもマダケはほとんど種子ができない。地下茎の断片的な部分が数年生きていて,小さいタケがはえ,これがもとになって新しい地下茎と若竹を生やし,開花後10年もたたぬうちに元の竹林に回復する。これと似た開花,更新をたどるメロカンナ・バッキフェラMelocanna bacciferaがインドのアッサム,バングラデシュ地方に分布している。これも花穂に種子ができず,その枝の別な部分にイチジクほどの大きさのむかご(珠芽)がつく。これが地面に落ちて芽を出し,若竹に生育して殖えていく。モウソウチクは,ふつうは一部分だけの開花だが,ときには竹林のタケがすべて一斉に花咲き,種子ができる。熱帯地方のタケや,温帯・寒帯地方のササ類には部分的な開花や一斉的な開花を繰り返すことが多く,たいてい種子がみのる。ササ類には種子によって繁殖するほか,マダケと同じ方法でも再生するものがある。タケの稈は,開花しなくても寿命がくれば死ぬ。タケの大開花の原因については,周期説,栄養源としての炭素と窒素の比(C/N比)による養分説などあるが,まだ十分解明できず,問題は残されている。しかし,環境条件や栄養条件によってではなく,遺伝的に開花現象が決定されているような例も知られている。
利用
タケは食用から建築用材,器具材,種々の工業原料として広範に利用されている。竹材の用途は数百種類の多岐にわたり,家庭用品,建築用,農林水産用,造園防災用などに活用される。茶道具用の茶筅(ちやせん)と茶杓,剣道用の竹刀,楽器類の尺八,笛,笙,ひちりき,版画用のバレン(タケの皮),タケを素材とする美術工芸品などは竹材でなければならない。これら多くの竹材利用は,タケの空洞,優れた割裂性,強い弾性,タケの皮の滑りなど優れた特性を活用している。1882年にはエジソンが日本のマダケのヒゴを炭化してフィラメントとして白熱電灯をつくった。
工業的な利用としては,紙とレーヨン,活性炭,代替エネルギー,家畜の飼料化などがある。竹パルプから作られる紙は良質であり,炭化した稈のガス吸着力は強い。稈の熱量はkg当り約5000kcalで木材よりも約20%高い。竹材の粉末は栄養分に富み,家畜の飼料にできる。
若くてやわらかいたけのこはどんな種類のものでも食べることができる。しかし,えぐみや苦みが強い種類もあり,食用にされるのはモウソウチクとネマガリダケのたけのこが多い。美味なのはカンザンチク,カンチク,ハチク,ホテイチクのものである。日本ではマダケも食用にされるが,それほど美味ではない。たけのこの栄養分はゆでると100g当り36kcalである。さらに,強力な造血作用をもつビタミンB12を含み,食用繊維は整腸作用をもつといわれる。たけのこは生食のほか缶詰にする。ゆでて干して発酵させたメンマ(シナチク)は栄養価値が高い。たけのこの皮はウシの飼料となる。タケの葉はパンダの好餌であるが,家畜の飼料にも利用される。竹瀝(ちくれき)(タケの油)は薬用になり,ぜんそくに効果があるという。若竹や稈の色や枝ぶりなどは観賞され,日本庭園での重要な植栽植物の一つになっている。また,盆栽のほか生花にも活用される。竹林は土中に地下茎が密に根ばりしているので,大地震のとき安全な逃げ場となり,山崩れや堤防の決壊を防ぐ。また密生した竹林は防風林として役だつほかに,騒音を防ぎ,大気汚染に強く,大気の浄化作用などがある。
栽培
新植のときは母竹を選び,生きた芽を10個ぐらいつけた若い地下茎をつける。適地は水のたまらぬ土壌。植付けの適期は秋(暖地)から春先(寒地)。肥料は有機質を主としてケイ酸分を加える。タケの地下茎の広がりを止めるには,ビニル板の類をすきまなく土中深さ約80cmまで埋めこめばよい。
執筆者:上田 弘一郎
タケと人間
中国
竹は節目正しく,まっすぐに生長し,冬にも青々としていることから,俗気のない君子の植物とされ,此君(しくん),君子,抱節君,処士などの異名をもつ。唐画では,梅,蘭,菊とともに〈四君子〉と称され,気品ある植物としてしばしば画材とされてきた。また,冬の寒さに屈しない植物として,松,梅とともに〈歳寒三友〉に数えられる。一説には,山水,琴酒,松竹を〈三友〉と称し,退廃した世に友とするものとして,その気品がめでられている。竹にまつわる故事では,晋の嵆康(けいこう),阮籍(げんせき),阮咸(げんかん),向秀(しようしゆう),王戎(おうじゆう),劉伶(りゆうれい),山濤(さんとう)の7人が乱れた世俗を避け,老荘の学をもって竹林に清談を楽しんだという〈竹林の七賢〉の話が名高い(七賢人)。また,三国の呉の孟宗が,冬にたけのこを求めた母のために竹林に入って哀嘆したところ,たけのこが生じたという孟宗竹(もうそうちく)の由来は,〈二十四孝〉の一つとして知られる。斑竹の斑紋を涙痕とする由来譚(ゆらいたん)もあり,俗に,舜帝の崩御を悲しんで湘水に身を投じた2妃(湘君・湘夫人)が,舜帝を悼んで流した涙とも伝えられ,湘妃竹,涙竹の異名をもつ。竹の中から子どもが生まれるという伝承も古くより行われ,《後漢書》西南夷伝には,夜郎の国の始祖は,川を流れてきた大竹より生まれた男の子であり,そこで姓を竹と名のったと見える。また,四川省チベット族に伝わる〈斑竹姑娘〉の物語は,竹の中から生まれた美女が,権勢をたのんだ求婚者たちに難題を課して翻弄するというもので,日本の〈かぐや姫〉の説話ときわめてよく似ている。
執筆者:稲畑 耕一郎
日本
竹は,歳寒(さいかん)の三友(さんゆう),すなわち,〈松竹梅〉の一つとして,日本では慶事に用いられるので,日本人と竹との密接なかかわりはよほど古い時代にまでさかのぼるかのように考えられがちであるが,その〈松竹梅〉の取合せが文献に登場するのは室町時代のことでしかなく,竹が庶民生活と離れがたく結びつくのもその時代以後のことである。
もちろん,竹は古代日本にも存在していた。竹の類を用いたと思われる遺物が発見されているし,マダケの日本自生説もある。しかし,古代の文献や古典において竹がどのように表現されているかをみる限りでは,竹はもっぱら貴族支配層によって占有され,賞美されていたものと考えざるをえない。
竹は記紀神話にはやばやと登場する。《古事記》上巻,黄泉国(よみのくに)の段に,伊邪那美(いざなみ)命が黄泉醜女(よもつしこめ)をつかわして伊邪那岐(いざなき)命を追わしめたときに伊邪那岐が〈右の御美豆良(みみずら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄てたまへば乃ち笋(たかむな)生(な)りき〉とある。笋は竹芽菜(たかめな)の義。投げた櫛がたけのこになったというのだから,櫛は竹製だったのであろう。そして,〈斎(ゆ)つ爪櫛(つまぐし)〉というのだから,これはたんなる装飾具ではなくて鬼神や邪霊を避け退けるための呪具(じゆぐ)だったのであろう。しかし,そんなに霊験を発揮する呪具だとすると,この竹製品が簡単に古代人のだれしもの手に入ったとは考えられない。祭祀遺跡から出土される宝石や宝剣がだれしもの手に入ったと考えられぬのと同様である。
竹が呪具=祭器に用いられた例証は《万葉集》にもみえている。巻三の〈大伴坂上郎女,神を祭る歌〉に〈ひさかたの天の原より 生(あ)れ来る神の命(みこと) 奥山の賢木(さかき)の枝に 白香(しらか)つけ木綿(ゆう)とりつけて 斎瓮(いわいべ)を斎ひほりすゑ 竹玉(たかだま)を繁(しじ)に貫(ぬ)き垂り 鹿猪(しし)じもの膝折り伏せて 手弱女(たわやめ)の襲衣(おすい)取り懸け かくだにもわれは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも〉とある。ここに歌われている〈竹玉〉は,竹を短く切ってひもで貫いたもの,もしくは,玉籠の類であったろうが,いずれにしても,そこに神霊が宿ると信じられた。当然,竹は貴重品でなければならないし,これを所有しうる人といったら,ごく一部の特権階級のみに限られてくるのもやむをえなかった。
《万葉集》には,竹に関する歌が,長歌,短歌合わせて20首ほどみえる。ところが,純然たる植物としての竹を詠んだ歌は,このうちわずかに4首しかない。残りの歌は,直接的に竹を詠んだのではなくして,比喩として用いられたり,枕詞として使われたり,それを材料にして作られた呪具=祭具である〈竹玉〉〈竹珠〉について歌われたりしたものばかりである。これらは,明らかに,自然界の一部として存在する竹を諷詠(ふうえい)したものではなく,律令宮廷社会に関係をもった人物および事がらを表象するシンボルとしてのみ歌われている。植物である竹そのものを詠じた短歌も,その3首までは,律令文人官僚貴族によって産みだされた諷詠であった。すなわち,巻五に載る小監阿氏奥島の1首〈梅の花散らまく惜しみわが苑の竹の林に鶯(うぐいす)鳴くも〉と,巻十九にみえる大伴家持の2首〈御苑生(みそのう)の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ〉〈わが屋戸のいささ群竹(むらだけ)吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうべ)かも〉である。
これら例歌が〈わが苑の〉〈御苑生の〉〈わが屋戸の〉というふうに〈竹の占有〉を宣言していることが注意される。長岡京の遺跡から排水溝に使用されたマダケが発見されたが,これも権力者によって占有されていた証拠といえよう。正倉院御物のなかにある笙,尺八,筆などはハチクで作製されたものであるが,これらが特権階級の占有に属していたことも冗言を要しない。
すでに明白になったが,記紀万葉にあらわれる竹は,なるほど用例や頻度数においては僅少だったとは言いきれないけれど,これをもって竹と日本古代人一般の生活との関係が親密だったと推断することはできない。それどころか,柿本人麻呂や田辺福麻呂(たべのさきまろ)や大伴家持が竹を詠じたときには,竹こそは7~8世紀律令宮廷社会の権力と栄光とを含意する文化記号であるとの知的了解を踏まえていた。もちろん,竹によく似た自生品種であるササ(笹)やシノ(篠)は日本国じゅうのどこにも見られたから,いったん律令官人の身分階級を離脱して個人的抒情を歌い上げるときにはもはや竹を詠材にしない。例えば,有名な〈小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来ぬれば〉(巻二)が想起される。律令文人貴族たちは,先進大国である中国の詩文や政治儀式や宗教習俗を懸命に模倣=学習し,中国で竹が神聖化され重要視されているのを知って,みずからもその文化を享受=咀嚼(そしやく)すべく竹を詩歌に詠み込み,それにより,王道イデオロギーを地でゆく大陸政治思想に触れる行為を実践したつもりになっていたと考えられる。その典型的な例証は《懐風藻》に求められる。釈知蔵は〈此の芳春の節(とき)を以ちて 忽(たちま)ちに竹林の風に値(あ)う〉〈茲(こ)の竹林の友に因りて 栄辱(えいじよく)相驚くこと莫(な)し〉と詠じ,境部王(さかいべのおおきみ)は〈雪を送りて梅花笑み 霞を含みて竹葉清し〉と詠じ,背奈王(せなのきみ)行文は〈竹葉禊庭に満ち 桃花曲浦に軽し〉と詠じている。すべて中国詩文の換骨奪胎である。
古代律令貴族文人にとって,竹といえばただちに先進中国文化を思い描かずにおられなかったことは,べつの観点からもみてとれる。《万葉集》に〈昔老翁(おきな)ありき。号(なづ)けて竹取の翁と曰(い)う也。この翁,季春の月にして,丘に登り遠く望むときに,忽に羹(あつもの)を煮る九箇(ここのはしら)の女子(おとめ)に値(あ)いき。百嬌儔(たぐい)無く,花容止(やむこと)無し。……〉の詞書で始まる〈竹取の翁〉の伝説歌謡(巻十六)が載っている。この老翁が,3月,丘に登って仙女に出会い,おのれの華やかな青春を追想し,最後に棄老伝説をのぞかせる筋立てになっている。明らかに,この長歌は《遊仙窟》に題材をとったもので,漢文学の高い素養をもった律令貴族文人でなければとうていつくりえない。しかも作者は,ユートピアをかいま見た老翁を〈号けて竹取の翁と曰う也〉と明記せずにはおかなかった。竹の内包する詩文的=宗教儀礼的意味は,この用例によっていっそう鮮明に限定される。
同じ〈竹取の翁〉を主人公にしているとはいっても,平安朝の産物である《竹取物語》になると,中国文学の受容のほかに,朝鮮半島や東南アジアからの影響も見られることが確かめられている。しかし,《竹取物語》を管理し,これに喜んで耳傾けたのは平安王朝貴族たちに限られた。なにしろ,肝心の竹を私有しうる人の数が少なかったのだから。物尽し風に類纂(るいさん)的叙述をしている《枕草子》をみても,清涼殿東庭に植えられた〈呉竹(くれたけ)〉に関して二,三の言及をしているにすぎない。もっとも,平安末期成立の《日本紀略》弘仁4年(813)の条に〈天下呉竹悉植〉とあり,かなり早期に中国原産ハチクの輸入移植が行われた事実を公式承認してはいるが。
竹がひろく民衆にまで分かち与えられるためには,中世末ないし近世初頭まで待たねばならなかった。日本風景にとって不可欠な要素となっている竹林は,ここ数百年間における民衆の園芸技術的努力に負う部分も多かったといえる。ついでに記すと,これは竹類のなかでもシノ,ササに関する話だが,1832年(天保3)の飢饉のさい,飛驒高山ではスズタケが大開花して実を結び,なんと25万石も採れて人民を救ったという。これこそ,竹と日本人の関係の密接さを物語るものである。現代のわれわれは,ともすれば竹を趣味的に見がちだが,それだけでは不十分である。
最後に語源について触れておくと,貝原益軒《日本釈名(にほんしやくみよう)》(1699)は〈竹(たけ)高きなり。けとかと通ず。筍(たかんな)は旬日の間に長じて,高き事天にそびゆ。是草の中いと高き物也〉と説明する。谷川士清(ことすが)《和訓栞(わくんのしおり)》(1777)には〈○たけ 長をいふハ高きの義也年のたけたる徳のたけたるなと皆同意なり○丈をよむも長き意也○竹ハ一旬にして長高きの意也といへり〉とある。大槻文彦《言海》には〈たけ(名)竹[丈(たけ)高ク生ヒ延ブレバイフ]植物ノ名〉とある。これらの語源説明が駄じゃれに過ぎると考える人には,唐音tiku,呉音tuku,tokuならば簡単にtaku,takeに音声的転化がなされうるとの参考意見を添えておく。
→竹細工 →筍
執筆者:斎藤 正二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報