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ナロードニキ Narodniki

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ナロードニキ
Narodniki

人民主義者とも呼ばれる。 1860年代から,農民の啓蒙と革命運動への組織化により,帝政を打倒し,自由な農村共同体を基礎に新社会を建設しようとしたロシアの革命家たちの総称。ナロードは農民に代表される一般民衆の意味。 90年の初頭まで,ロシア革命運動の主流をなした。彼らはロシア・インテリゲンチアに属し,「人民のなかへ (ブ・ナロード) !」をスローガンとして農民のなかに入り,地主階級の搾取と抑圧を受ける農民の解放と利益の擁護を目標とし,運動を展開した。彼らはその教義のなかにマルクスの共産主義イデオロギーをかなり取入れたが,工業プロレタリアートの存在を無視し,マルクスの歴史の発展に関する理論を修正した。初期には,M.A.バクーニンを代表とするブンターリ (一揆派) と P.L.ラブロフらのプロパガンジスト (啓蒙派) その他に分れていた。 76年「土地と自由 (党) 」が結成され,組織的な政党活動が展開されるかにみえたが,79年には穏健派と急進派との対立が広がり,G.V.プレハーノフらの「全土地割替」派とテロリズムを主張する「人民の意志 (党) 」に分裂した。後者による一連の政治テロが仕組まれ,81年3月の皇帝アレクサンドル2世暗殺でナロードニキ運動は絶頂に達した。 90年代に入ると,ロシア内外のナロードニキのグループが合体して,のちの社会革命党 (エス・エル) の基盤がつくられ,これはボルシェビキと並んでロシアの革命運動において大きな役割を果すこととなった。

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デジタル大辞泉の解説

ナロードニキ(〈ロシア〉narodniki)

19世紀後半、ロシアで革命運動を行ったインテリゲンチア。農村共同体(ミール)を基盤とした独自な社会主義への移行を考え、「ブ‐ナロード(人民の中へ)」をスローガンに農民の啓蒙に努めたが、農民の無関心と官憲の弾圧によって挫折。人民主義者

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百科事典マイペディアの解説

ナロードニキ

人民主義者の意。農村共同体(ミール)をロシア再生の出発点とする独自の社会主義を唱えたゲルツェンに始まる。1870年代にゲルツェンの思想に立つ革命的な青年や学生の運動が起こり,組織としては〈ブ・ナロード(人民の中へ)〉〈土地と自由〉結社を経て,〈人民の意思〉派に発展,1881年皇帝アレクサンドル2世暗殺にまで至った。
→関連項目ウスペンスキーエス・エル党クロポトキンコスタコロレンコザスーリチサンクト・ペテルブルクスラブ派バクーニンプレハーノフミハイロフスキーレーニン

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世界大百科事典 第2版の解説

ナロードニキ【narodniki】

近代ロシアの生んだ独特な革命思想および運動の担い手たちをいう。ナロードニキとは元来,1876年に結成された革命結社のメンバーが自らの立場を称した言葉で,その後もいくつもある分派の中の一つを指す言葉であった。しかし,90年代のマルクス主義者が自分たちが絶縁する過去の革命思想の総体を指す言葉として拡大して使い,これが定着している。ナロードニキ主義とは,後進国ロシアが先進資本主義,自由主義的西欧を拒否して,ロシアの共同体的伝統を手がかりとして,これに先進西欧の生み出した社会主義思想を結合することによって,資本主義発展の道を通らないでも,一挙に社会主義に進みうるし,進まねばならないとする思想である。

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大辞林 第三版の解説

ナロードニキ【narodniki】

一九世紀後半の帝政ロシアで「人民の中へ(ブ-ナロード)」をスローガンに革命運動を行なったインテリゲンチャ。農民共同体(ミール)を基盤に、資本主義を経ずに人民革命で社会主義が実現できると考えた。人民主義者。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ナロードニキ
なろーどにき
народники narodniki ロシア語

19世紀後半のロシア革命運動において主導的役割を果たしたインテリゲンチャ。原語はロシア語のナロードnarod(人民)に由来し、人民主義者と訳される。さまざまな党派、潮流が存在したが、全体的に、人民とくに農民の利害を代弁し、専制と農奴制を批判した。またロシアの資本主義化に反対し、ミール(農村共同体)を基盤とする農民社会主義の実現を説いた。西欧先進諸国とは異なるロシア「独自の道」を目ざすこの理論は、とくにゲルツェンやチェルヌィシェフスキーによって提唱された。
 すでに1850年代後半から非合法的組織が活動していたが、とくに農奴解放後、その反政府活動は激化し、61年末には最初の本格的秘密結社「土地と自由」(第一次)の結成をみた。「土地と自由」は翌年弾圧を受けて壊滅したが、学生を中心とする青年はゲルツェンの「ブ・ナロード」(人民の中へ)の呼びかけにこたえて、次々に非合法活動に走った。1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件)はその一つであった。このような活動の中心にたったのは、旧世代の貴族インテリゲンチャにかわって登場した、聖職者、下級官吏、商手工業者などのラズノチンツィ(雑階級知識人)であった。1860年代末になるとラブロフがその『歴史書簡』において、人民に対する啓蒙(けいもう)活動の必要性を説いたが、バクーニンはこれを批判し、農民の革命本能に火をつけるべきことを主張した。ラブロフやバクーニンの説く「ブ・ナロード」の呼びかけは、1874年の「狂った夏」に最高潮に達した。数千人の青年男女が農民のなかへ入っていった。だが農民は彼らの社会主義実現の主張を理解せず、逆に彼らを警察に突き出した。運動は失敗し、革命派はふたたび地下に潜伏した。
 1876年「土地と自由」(第二次)が結成され、そのメンバーであったザスーリチはペテルブルグ特別市市長を狙撃(そげき)した(1878)。結社はテロ戦術を否定して、プロパガンダ路線を主張する「総割替」派(プレハーノフ、アクセリロードら)と、テロによる政治革命を目ざす「人民の意志」派(ジェリャーボフ、ミハイロフら)に分裂した。後者は1881年3月1日アレクサンドル2世の暗殺に成功した。皇帝暗殺事件後、「人民の意志」派は激しい弾圧により壊滅し、他方「総割替」派は、プレハーノフの亡命、マルクス主義への移行などによって消滅した。このころからマルクス主義者が革命運動の主流となり、ナロードニキの多くは自由主義化し、教師、医師、自治体書記、職人などとして地方自治体における社会改良運動に励むことになった。20世紀に入って成立した社会革命党(SR(エスエル))もナロードニキの伝統を継承している。[栗生沢猛夫]
『ヴァリツキ著、日南田静真他訳『ロシア資本主義論争――ナロードニキ社会思想史研究』(1975・ミネルヴァ書房)』

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世界大百科事典内のナロードニキの言及

【人民の中へ】より

…はじめ都市の労働者と出稼ぎ農民の間で宣伝・教育活動を行い,続いて農村に入り農民の間で社会主義の宣伝と革命に向けての農民の蜂起を扇動した。この運動に数千の知識人・学生が参加し,みずからをナロードニキ(人民主義者)と称した。彼らは大別して2派に分かれ,ラブロフ派は革命の宣伝と準備を,バクーニン派は扇動と農民蜂起を訴えた。…

【ナロード】より

…19世紀の中ごろにとくに顕著になった資本主義的傾向に対抗して,チェルヌイシェフスキーもまた農村共同体に期待をかける革命理論を唱えた。 このような思想の影響のもとに生まれたのが1870年代の〈人民の中へ〉の運動であり,その参加者たちはナロードニキと呼ばれた。この運動のばねとなったのは,長年にわたって民衆を抑圧してきたことに対する貴族階級の深い悔悟の念であった。…

※「ナロードニキ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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