ハワイ(読み)はわい(英語表記)Hawaii

翻訳|Hawaii

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ハワイ
はわい
Hawaii

アメリカ合衆国の州。北太平洋のほぼ中央に浮かぶハワイ諸島が領域で、主要8島と124の小島からなる。別称「アロハ州」。面積1万6705平方キロメートル(以下キロと省略)は50州中47位、人口121万1537(2000)である。州都はオアフ島のホノルル。全人口の72%がオアフ島に居住し、そのうち42%がホノルルに住む。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

自然

ハワイ諸島(旧称サンドイッチ諸島)は、サンフランシスコから約3800キロ、東京から約6200キロの北太平洋上の、西経154度48分から178度25分、北緯18度55分(合衆国の最南端)から28度25分の間に位置する。北回帰線をまたいで南東から北西へ緩い弧を描き、約600キロにわたって連なる。太平洋の中央をアリューシャンからオーストラリアへ向けて南北に走る、地殻運動によって生じた海嶺(かいれい)の一部が基盤で、火山脈が並行する。ハワイ諸島はその山頂部が海面上に現れているもので、ほとんどが火山島とサンゴ礁である。南東端に位置し、ビッグ・アイランドと別称されるハワイ島(面積1万0414平方キロ)がもっとも大きく、北西へマウイ島(1886平方キロ)、カホーラウェ島(120平方キロ)、モロカイ島(671平方キロ)、ラナイ島(365平方キロ)、オアフ島(1554平方キロ)、カウアイ島(1437平方キロ)、ニーハウ島(190平方キロ)と主要8島が続く。これらのうちカホーラウェ島は軍の射撃場に使われており、住民はいない。また、7島以外の他の小島はすべて無人島である。最高峰はハワイ島のマウナ・ケア山(4205メートル)。
 小説家マーク・トウェーンは、ハワイを「あらゆる大洋に浮かぶ諸島のうちでもっとも美しい島々」と称賛しているが、ロマンチックで牧歌的な風土は、火山地形の特異な景観と亜熱帯の気候と植生、ポリネシア系民族と文化がもたらすものといえる。火山は南にあるものほど新しく、ハワイ島のマウナ・ロア(4170メートル)、キラウエア(1222メートル)はともにアスピーテ(楯(たて)状)型の活火山で、いずれもハワイ・ボルケーノズ国立公園に指定されている。また、マウナ・ロアは1950年に23日間にわたって爆発を続け、近代で最大の溶岩を噴出した火山としても知られる。マウイ島のハレアカラ山は、東京の都心6区がすっぽり入るほど巨大なクレーターをもつ世界最大級の火山である。カウアイ島は諸島中もっとも古い火山島で、ワイアレアレ山には多雨による侵食を受けた断崖(だんがい)や深い谷など、神秘的な風景がある。オアフ島にある有名なパンチボールやダイヤモンド・ヘッドも火山地形である。海岸の美しさはハワイの魅力の一つであるが、強い太陽と紺碧(こんぺき)の海はサンゴ礁、溶岩、砂浜と相まって、また、風化した溶岩がマウイ島の黒砂、金色砂の浜のような彩りを添えて、楽園を演出している。
 気候は概して穏やかな熱帯性で、ホノルルの年平均気温は24.7℃、年降水量は629ミリメートルである。月平均気温の年較差は4℃ほどにすぎず、雨も平均して降り、冬にやや多い程度である。気候の差は季節よりも場所によって生じており、山地が険しいのと、ほぼ一年中北東貿易風が卓越することで、風上側と風下側、山地と平地の気候環境が異なる。たとえば、カウアイ島ワイアレアレ山の北東斜面は年降水量が1万5000ミリメートルを超える世界最多雨地の一つで、高温多湿の熱帯雨林であるが、10キロ足らず離れた反対斜面では1000ミリメートル以下のため、サバンナ気候の耐乾性植物帯をみる。ハワイ島の南西斜面にも同様に広い乾燥草原が広がり、放牧場や農場に使われている。また、標高の高いマウナ・ケア山やマウナ・ロア山の山頂部には積雪をみることがあり、スキーを楽しむことができる。植物の種類は多く、原生種で900種の花木、140種のシダ類が数えられている。ココナッツ、パンノキ、タロイモ、サトウキビ、パイナップルなど多くの有用種が栽培されているが、これらはヨーロッパ人、ポリネシア人などによって持ち込まれたものである。ハワイ原生の哺乳(ほにゅう)動物はコウモリ、アザラシ、ポリネシア・ネズミを数えるのみで、大形動物は皆無である。また、ハワイはヘビのいない島でもある。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

歴史

ハワイ諸島に最初に移住した人々はポリネシア人であるが、彼らは文字をもたなかったので、大航海時代になって西欧人と接触するまでの正確な歴史はわかっていない。考古学や口頭伝承の研究によれば、彼らは紀元500~600年ごろにマルケサス諸島より移住したと考えられる。さらに1000年ごろにソシエテ諸島よりなんらかの影響があった模様である。1770年代に、J・クック船長が最初の西欧人として接触したころのハワイ諸島は、ポリネシアでもっとも多い人口(30万ほどと推定されている)を抱え、首長層、その家来と司祭および職人の層、そして平民層の三層からなる、発達した成層社会を形成しており、トンガのような統一王朝は未成立ながら、いくつかの首長国が互いに競い合っていた。やがて諸島を訪れる白人から火器などの助力を得た首長カメハメハは、ハワイ島を平定し、1795年までに諸島の大部分を支配下に収め、1810年には統一王朝を完成した。カメハメハ大王(?―1819)はビャクダン(白檀)貿易や港湾税を押さえて王国の財源とし、平民を首長の支配から保護する法律を制定したり、いくつもの改革を行った。
 やがて1820年の宣教師の来島や捕鯨船の寄港が盛んになる時代を経て、ますます西欧との接触は増加し、そのため西欧人の勢力や西欧文化の影響に悩まされるようになってくる。とりわけ19世紀なかばより盛んになるサトウキビ産業のために、土地の売買や私有を認めてしまったことは王国の崩壊を早めた。ハワイ人たちは西欧人入植者に土地を奪われ、さらにプランテーションで働くために続々と移民してくる中国人、日本人、フィリピン人などのアジア人労働者に働く場を奪われてしまい、病気やアルコール中毒のため人口も急激に減少し、ハワイ人社会は衰退の一途をたどっていった。サトウキビ業者の多くはアメリカ人で、微妙な列強間の勢力均衡によって保たれていた王国は、やがてアメリカの影響下へと傾斜を深め、さらに業者らはアメリカへの併合を推進していく。1893年には女王リリウオカラニLiliuokalani(1838―1917、在位1891~1893)が武力で退位させられ、サンフォード・ドールSanford B. Dole(1844―1926)を大統領とするハワイ共和国臨時政府が成立した。合衆国は、アメリカ・スペイン戦争(1898)を経てハワイ諸島を併合、1900年準州、1959年には50番目の州とした。かつて激減したハワイ人人口もアメリカ社会への同化を果たして回復しつつあり、今日のハワイは、白人、日本人、中国人、朝鮮人、黒人などをも含む複合社会となっている。19世紀中葉にアメリカが建設したパール・ハーバー(真珠湾)の軍事基地は、1941年(昭和16)に日本軍の奇襲攻撃を受け、これがアメリカの太平洋戦争への参戦を導くこととなった。[山本真鳥]

産業

ハワイの主要産業は、最初ビャクダン貿易に始まり、その後捕鯨基地となってヨーロッパ、アメリカとつながりをもった。ついでサトウキビとパイナップルのプランテーションが開発され、第二次世界大戦までは商業的農業が経済の主流となり、大地主が誕生し、各国から農業移民が流入した。第二次世界大戦が始まると重要軍事基地となり、軍事費が州経済の中心を占めた。戦後は観光産業が急速に拡大し、現在のハワイの産業の第1位は観光業、第2位は軍事で、農業は第3位である。1930年には全就業者の46%を占めた農業は、今日3%以下となっている。
 観光業は、1960年代に入って大型ジェット機が開発され、合衆国本土や日本などから直行便が就航し、大量の旅客を運べるようになってからブームとなった。それまでの、船を利用したぜいたくなハワイ観光が一挙に大衆化し、60年には29万人だった観光客の数は83年には437万人に激増し、1980年当時の観光関連産業の従業者は10万8000人と見積もられた。観光の中心であるホノルル市郊外のワイキキ・ビーチには高級ホテル、リゾート・アパートの列ができ、近年は日本資本の進出も著しい。観光資源としては常夏の気候、ポリネシア系の文化・芸術・風俗、島々の海岸や山岳の景勝など多様で、州はハワイ諸島を国際大型観光地とする政策を掲げている。しかし、観光化が進む一方、自然破壊、生活環境の悪化、地価の高騰なども進み、対策が求められている。
 軍事基地としてのハワイの重要性は、太平洋におけるその位置と、天然の良港であるパール・ハーバー(真珠湾)に負うところが大きく、合衆国がハワイを領土に編入した要因でもあった。パール・ハーバー海軍基地に太平洋軍司令官が常駐するほか、ヒッカム空軍基地、カネオヘ海兵隊空軍基地があり、家族を含めた軍事関係人口は全人口の約1割を占める。
 プランテーション方式による農業はかつてのハワイの主産業であり、いまも重要産業の一つである。たとえば、ラナイ島は全島がドール・パイナップル会社の所有地で、6000ヘクタールの農園を経営し、年間1億2000万個のパイナップルを生産するが、約2000人の住民は事実上パイナップルに依存して生活している。ハワイ島ではサトウキビ栽培と牧畜が伝統産業で、コーヒーやマカダミア・ナッツも取り入れるほか、ランの生産では全米第1位にある。しかし、1980年代初期の世界的な砂糖の供給過剰による損害、パイナップルの販売不振などにより、農業は深刻な課題を抱えており、その転換を迫られている。その他の産業には、粗糖、果物缶詰、織物などの製造業、カジキマグロをとる漁業などがあるが、ほとんど州経済には貢献していない。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

人種と文化

キャプテン・クックが初めてハワイ諸島に到達した1778年ごろ、ハワイ先住民(ポリネシア民族)はおよそ30万と推定されているが、白人の持ち込んだ文化と伝染病によって激減し、純粋のハワイ人は1930年代には7万人、現在では1万人以下といわれる。かわってハワイの住民となっている人種の構成は、2000年の時点で、白人系24.3%、日系16.7%、ハワイ系6.6%、フィリピン系14.1%、中国系4.7%、その他33.6%で、合衆国で白人が過半数を占めない唯一の州である。1920年ごろには日系人が42.7%を占め、最多数となったこともある。外国系住民の多くはパイナップル、サトウキビの農園労働者として移民してきた者の子孫で、白人のなかには軍関係者が多くを占める。第二次世界大戦後までは白人(アメリカ、イギリス系)が支配的権力を握ってきたが、近年では政・教育界で日系人の進出が著しく、観光業などにおいても日系資本の影響がきわめて大きい。
 今日の文化の基調は、1893年まで続いたハワイ王朝によるポリネシア文化、アメリカ支配以後の欧米文化、日系・中国系・韓国系などの移民が持ち込んだアジア文化が混在し、太平洋文化の接点の観がある。また、ハワイでは40もの言語・方言が話されているといわれる。伝統芸能としては、ハワイアン音楽とフラダンスが広く知られる。ホラガイなどの笛と丸太をくりぬいた太鼓などを用いた音楽に、ポルトガル人が持ち込んだギター系のウクレレが加わり、南国的な情緒を醸し出し、観光資源としても欠かせぬものとなっている。教育機関としては、水準の高い州立大学として知られるハワイ大学がホノルルにある。付属のイースト・ウェスト・センターは、とくに太平洋地域の文化・学術の交流センターとして果たす役割が大きく、多くの国から研究者や学生が集まっている。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

日系人

日本とハワイとの関係は、漂流者などによって古くからつくられていたが、移民としてはハワイ王朝時代の1868年(明治1)153人が農業労働者として送られてから始まる。これは当時、ハワイで発展著しかったサトウキビ栽培の労働者不足にこたえるため、横浜駐在領事バン・リードが斡旋(あっせん)したもので、制度上は密出国であった。正式な移民は1871年の日本ハワイ修好通商条約に基づき、1885年、政府の扱いによる第1回「官約移民」944人が送られたのに始まり、1894年までに26回にわたり計2万9139人が渡った。その後は、1894~1900年の民間移民会社による「私的移民時代」(入国者4万6258人)、1901~1908年の「自由移民時代」(同6万8326人)が続く。19世紀末ごろからは、ハワイ政府のアメリカへの傾斜が強まるにつれて、日本人に対する移民排斥の動きが激しくなり、1908年以降は再渡航と家族などの「呼び寄せ移民」以外は新規渡航が不可能となった。移民者たちは当初、出稼ぎ農園労働者として低賃金で酷使され、悲惨な状態が多かったが、なかには技術者や商業者としてハワイ社会に根を下ろす者も出てきた。1908年に排日移民法が成立し、アメリカ本土への転航も禁じられると、ハワイ在住者たちは帰国するかハワイへ永住するかの選択を迫られることになった。このころから日本人のハワイ「永住土着時代」が始まる。日米関係が悪化するにつれて、アメリカ社会に溶け込もうとする日系人にとっては苦しい時代となり、第二次世界大戦が始まると収容所に送られた者も数百人に達した。アメリカに忠誠を尽くそうとする日系二世は進んで兵役を志願し、全員日系人で組織された第100歩兵大隊、第442部隊も編成された。この部隊はフランス・イタリア戦線に送られ、最前線で勇敢に戦い、多くの犠牲者を出したが、アメリカ国民として信頼を得ることができた。生き残りのなかには復員兵援護法の適用を受けて大学に学んだ者も多く、この人たちが、今日のハワイ社会で日系人が公職などで多数重要な地位を占める基礎を築いた。ハワイ州選出の上院議員定数2名のうち1名が日系人であるが(2000現在)、そのダニエル・イノウエは第442部隊に属してイタリア戦線で片腕を失い、戦後ハワイ大学、ジョージ・ワシントン大学に学び、1962年に初当選した。かつてハワイ州選出の上院議員であったスパーク・マツナガも同法の援助を受けてハーバード大学に学び、1975年に当選した。また、ジョージ・アリヨシは1975年から3期州知事を務めた。州司法長官も日系人であり、州議会の過半数が日系人で占められ、州立学校の教師の大半も日系人である。パール・ハーバー攻撃で苦境にたたされた日系人は、その後30年でハワイ社会に確固たる地位を築いたが、今日ではこれが他民族の反発を買うほどで、新しい人種問題とさえいわれている。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

観光

観光業がハワイの最重要産業であるだけに、観光客の受け入れと観光地の整備は万全である。ダイヤモンド・ヘッドやパール・ハーバーを見下ろしながらホノルル国際空港に降り立つと、暖かい空気と色とりどりの花、ハワイアン音楽が観光客を迎えてくれる。アロハシャツやムームー姿の人々が行き交う。オアフ島ホノルルを拠点にして、オアフ島周遊のほか、庭園の島カウアイ、渓谷の島マウイ、ビッグ・アイランドとよばれるハワイ島、友情の島とよばれるモロカイ、パイナップルの島ラナイなどへも軽飛行機便を利用して訪れることができる。
 オアフ島のホノルル市内には、歴史的なものとして港9号桟橋に立つアロハ・タワー(1926建造)と合衆国唯一の宮殿イオラニ宮殿(1882完成)、海浜リゾートとして有名なワイキキ・ビーチ、文化施設としてハワイ大学イースト・ウェスト・センター、ビショップ博物館、ホノルル美術館、ミッションハウス博物館などがある。ダイヤモンド・ヘッド、パンチボールは火山である。市外へ出るとパール・ハーバーが近く、湾内には日本の攻撃で沈没した戦艦アリゾナ号が、慰霊碑としていまも保存されている。さらにカフク砂糖工場、ポリネシア文化センター、シーライフ・パーク海洋公園やワイメア滝公園、火口が沈水してできた、オアフでもっとも美しいといわれるハナウマ湾などが島巡りの見どころである。カウアイ島にはシダの洞窟(どうくつ)、871メートルもの深い渓谷で知られるワイメア渓谷のほか、ハレコ庭園、メネフネ庭園、オルプア庭園、プランテーション庭園などがある。マウイ島には、ハワイの最初の首都であったラハイナの港町に古い町並みが残り、ハレアカラ火山、イアオ渓谷の自然が美しい。ハワイ島は、いまも活動を続けるマウナ・ロア山、キラウエア山などハワイ・ボルケーノズ国立公園の島として知られる。黒一色のカラパナ黒砂海岸、アカカ滝、世界一の規模を誇るラン栽培園などもある。モロカイ島は、最近観光化が始まった、まだ素朴な自然が残る島である。かつてカラウパパ半島には、国際的に知られたハンセン病療養所が設けられていたため禁制の地であったが、いまは一般に開放されている。ラナイ島はパイナップル農園の島で、人々は高原のラナイ・シティに居住しており、標高1027メートルのラナイ・ハレ展望台からの眺めが美しい。
 ほとんど毎月なにかの行事や祭りが行われているが、最大の祭りは9月下旬~10月のアロハ・ウィークである。各島を回ったのち10月第3週のオアフ島で終わり、その間、街頭フラダンス、パレード、カヌー・レースなどが多彩に繰り広げられる。スポーツでは、7月下旬のハワイ国際ビルフィッシュ・トーナメント(カジキマグロ釣り大会、ハワイ島コナ)、11~12月のハワイアン世界サーフィング選手権大会(オアフ島北岸)、2月上旬のハワイアン・オープン国際ゴルフ大会(ホノルル)などが知られる。[伊藤達雄・D・H・コーンハウザー]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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