フランスの小説家。5月20日、ロアール川沿いの都市トゥールに師団糧秣(りょうまつ)部長の長男として生まれる。貴族を意味するdeは作家になってから僭称(せんしょう)したもの。南仏の農家出身の父は、社会問題や長寿法に関心をもち、100歳まで生きると信じていた愉快な啓蒙(けいもう)思想信奉者だったが、パリの商家出の母が30歳以上も年下だったために、夫婦仲が冷たく、バルザックは里子に出されたり、バンドームのオラトリオ会派寄宿学校に入れられたりして、母の愛を受けることが少なかった。
8歳から14歳までのバンドーム時代は孤独に苦しみ、級友からも仲間外れにされて読書と夢想に没頭し、やがて濫読のため衰弱して両親に引き取られた。1814年家族とともにパリに移り、翌年パリ大学法学部に入学、かたわら法律事務所の書記を勤めた。しかし文学への志を捨て切れず、2年間の猶予を得て、レズディギエール街の屋根裏部屋で悲劇『クロムウェル』の執筆に精魂を傾けたが、失敗に終わった。20年、郊外に移った家族のもとに帰り、仮名で、ときには友人と合作の形もとり、八編の長編を書いたが、後年彼も否認したとおり、当時流行の荒唐無稽(むけい)な暗黒小説、感傷小説を模倣したまったく通俗的な駄作ばかりで、それで経済的な独立をかちとろうとした企図も挫折(ざせつ)した。25年には出版業に手を出し、これが赤字になると印刷業、活字鋳造業にまで間口を広げて、最後に破産宣告を受けた。その際の5万3000フランという莫大(ばくだい)な負債を返済するため、背水の陣を敷いて創作に戻ったおかげで、フランス最大の小説家が誕生したわけだが、浪費癖のため、この負債は一生彼に付きまとった。
[平岡篤頼]
第一作『ふくろう党』(1829)は、W・スコットとアメリカの小説家J・F・クーパーの影響下に、大革命時代のブルターニュ農民の反乱を描いた歴史小説だが、かなりの好評を博し、ついで、それと対照的に皮肉でふざけた『結婚生理学』(1829)も話題となったことが、作家としての地位を確定した。社交界に出入りし、各種新聞雑誌に風俗スケッチ的戯文を寄稿しながらも、彼独特のリアリズムの出発点ともいうべき短編集『私生活情景』(1830)、哲学的寓意(ぐうい)小説『あら皮』(1831)、「哲学ノート」などを書いた少年時代以来の思索の体系化の試みともいうべき小説『ルイ・ランベール』(1832)、人道主義的なユートピア小説『田舎(いなか)医者』(1833)などといった多彩な作品群を矢つぎばやに発表した。この時期の多産な仕事ぶりは超人的といってよく、『トゥールの司祭』(1832)、『シャベール大佐』(1832)、『海辺の悲劇』(1835)など多くの短編のほかに、『ウージェニー・グランデ』(1833)、『絶対の探究』(1834)、『ゴリオ爺(じい)さん』(1835)などの力作長編で近代小説の祖型ともいうべきリアリズム文学を確立した。ロマンチックな暗黒小説に学んだ劇的な筋立てや背後に隠されたものへの偏愛、現実社会の卑俗な事象への旺盛(おうせい)な好奇心が、作者のたぐいまれな幻視的資質のなかでみごとに融合し、彼の奔流のような創作エネルギーを吸収して、現実世界にも匹敵する規模へとその虚構世界を成長肥大させていったのだった。
[平岡篤頼]
そこでバルザックは、『ふくろう党』以後の全作品に『人間喜劇』Comédie humaineという総題を与え、社会事象を「結果」として描く「風俗研究」、その原因を追求する「哲学研究」、原理を究明する「分析研究」に三大別し、なかでもいちばん分量の多い「風俗研究」は、さらに「私生活情景」「地方生活情景」「パリ生活情景」など六つの「情景」に分類した。そして、これから書く作品をも含めた総体を19世紀フランスの風俗史たらしめようとする野心に取りつかれ、たびたびの変更を経て、『人間喜劇』序文(1842)でそのプランを説明している。すなわち、生物界に統一性を想定した生物学者ジョフロア・サンチレールに示唆され、バルザックは、人間社会にも階級、職業、性格、環境で区別される「種」が存在すると考え、戸籍簿と競争するようにそれらを描き尽くすのでなければ、社会の全体像を把握できないと主張した。
しかし、とりわけ彼が考案した画期的な手段は、『ゴリオ爺さん』で初めて採用した「人物再出」の手法で、先行する作品の主人公を新しい作品の脇役(わきやく)的人物として、あるいはその逆の形で再登場させ、作品間に縦横の立体的関係の網目を織り上げようとするものだった。その結果、彼が書き残した91編の作品は、それぞれ独立した小説でありながら、かならず他の作品を想起させ、同じ2000人余の登場人物が住む一つの世界の内部に有機的に位置づけられるという印象を与える。『ゴリオ爺さん』以前の作品の登場人物も、そのため名前を取り替えられ、体系として多少の食い違い、矛盾を生じたが、『人間喜劇』の世界の生成発展とともに徐々に形成され整備されていった体系であるだけに、そこに再現された、王政復古(1814)から七月王政(1830~48)に至るフランス社会の総括的な展望に多元的な力動感を与えるのに貢献した。
若いときからスウェーデンボリらの神秘哲学の影響を受けたバルザックは、また、主人公が男女両性を具有する秘義小説『セラフィータ』(1835)を書いたが、思想的にはむしろ、欲望すること、思考することが生命を破壊するというエネルギー説を基調とし、無際限な知的探究心(ルイ・ランベール)、発明欲(バルタザール・クラース)、父性愛(ゴリオ爺さん)などのために生命力を燃え尽きさせる情熱的人物の運命を好んで描く。サント・ブーブに対抗して書いた悲痛な恋愛小説『谷間の百合(ゆり)』(1836)のモルソフ夫人は貞潔な恋のために力尽きる。『従妹(いとこ)ベット』(1846)のユロ男爵は、果てしない好色のあげくに、貞淑な妻を絶命させる。作者バルザック自身、果てしない創作欲に精力を使い果たして死ぬから、この観察の最良の実例となるわけだが、彼はまた、金銭のうちに社会の動向を左右するエネルギーの象徴をみ、各種の銀行家、高利貸を登場させ、金銭欲から発したさまざまな陰謀、画策、攻防のドラマを活写した。貴族にあこがれ、立身を夢みて、政治的には王党派的見解を口にしたが、のちにエンゲルスらにたたえられる透徹した史観を盛り込みえたのも、連作長編『幻滅』(1837~43)と『浮かれ女盛衰記』(1838~47)で活躍する脱獄囚ボートランや『従兄(いとこ)ポンス』(1847)の主人公のように、批判者、犠牲者、あるいは貧しい庶民の視点から、激動する社会の実相を見据えたからだと思われる。
[平岡篤頼]
22歳のとき、倍も年上の人妻ベルニー夫人Mme de Bernyと恋に陥り、10年間近くも彼女から精神的、物質的援助を受けたバルザックは、ほかにも女性遍歴があったが、1832年ポーランドの大貴族ハンスカ夫人Mme Eve Hanskaを知り、彼女と結婚することを生涯の念願とした。そして、たまの逢瀬(おうせ)のほかは文通に終始し、膨大な量の書簡を書き残した。しかし、重なる過労と休みない執筆のために健康を害し、1850年になってやっと彼女と結婚したものの、半年後の8月18日に死亡した。
精力的な創作活動のかたわら、フランス国内ばかりでなくヨーロッパ各地を旅行して回り、青年時代の失敗にも懲(こ)りずに個人雑誌を発行してみたり、代議士やアカデミーに立候補するかと思うと、製紙や製材業に手を出したり、銀山採掘に色気をみせたりする不屈の事業家気どりであったが、成功したものは一つもない。だが、そうした破綻(はたん)の経験が彼の文学にもたらした栄養は計り知れないものがあろう。彼の文学がフロベールやボードレールやドストエフスキーやプルーストに与えた影響も計り知れない。
[平岡篤頼]
『水野亮他訳『バルザック全集』全26巻(1973~76・東京創元社)』▽『安士正夫著『バルザック研究――「人間喜劇」の成立』(1960・東京創元社)』▽『寺田透著『バルザック――「人間喜劇」の平土間から』(1967・現代思潮社)』▽『アラン著、岩瀬孝・加藤尚宏訳『バルザック論』(1968・冬樹社)』
フランスの小説家。トゥールに生まれる。父親は当時,陸軍トゥール師団糧秣部長。1807年より13年まで,バンドーム中学に学ぶ。16年パリ大学法学部に入学,同時に見習書記として法律事務所に勤務。19年文学志望を表明,職業の選択をめぐって両親と対立したが,結局,2年の猶予期間を得,パリのレスディギエール街の屋根裏部屋にこもって文学修業に専念した。20年韻文悲劇《クロムウェル》を完成,さらに22年より27年にかけて,《ビラーグの女相続人》その他多数の通俗小説を偽名で発表した。1825年,出版業,印刷業,活字鋳造業などの実業に乗り出すが,いずれも失敗に終わり,28年に業務の清算が行われ,約6万フランの借金を背負った。29年,《ふくろう党》および《結婚の生理学》を発表して文壇に登場。社交界に出入りするとともに,多数の雑誌に短編小説や雑文を寄稿するようになった。《ふくろう党》は,ブルターニュ地方の反革命的反乱を扱っており,歴史小説の手法を近い過去に適用したものといえる。次いで《ウージェニー・グランデ》(1833),《ゴリオ爺さん》(1835),《谷間のゆり》(1836),《幻滅》(1843),《従妹ベット》(1846),《従兄ポンス》(1847)などの作品を次々に発表し,42年から48年にかけて《人間喜劇》16巻,補巻1を刊行した。これは,初期習作,劇作,雑文,《風流滑稽談》などを除き,《ふくろう党》以後のすべての小説を,一種の全集としてまとめたものである。他方バルザックとポーランドの貴族ハンスカ夫人との交際は1832年に始まっているが,41年同夫人が寡婦となったので,夫人との結婚が彼の人生の最大の関心事となった。49年はもっぱらハンスカ夫人の領地,ウクライナのベルディチェフで過ごし,50年3月同夫人と結婚,5月パリに帰着,8月に世を去った。
バルザックの生きた時代は,フランス市民社会の成立期に当たり,身分的秩序の崩壊と競争原理の出現,生活水準の向上,現世的・個人中心的な思想の一般化など,ひとことで〈近代化〉とよばれる現象が生じたが,このような社会変動こそバルザックの小説の背景にあったものである。彼は興隆する市民階級のエネルギーと欲望を描き,フランス市民社会の最初の描き手となった。同時にまた市民的〈近代化〉の最初の批判者ともなった。なぜならば,《ゴリオ爺さん》をはじめとして,バルザックの作品には,個人の心情を容赦なく押し潰す近代社会の過酷な原理が描かれているからである。彼は政治的には君主制主義者,宗教的には正統的カトリシズムの支援者だったが,そのような思想は,フランス革命以後に成立した社会的・思想的原理への批判を含むものと解すべきである。バルザックの作風は,ひとことでいえば写実主義であるが,《あら皮》《セラフィータ》などの哲学小説をはじめとして,幻想的な傾向がうかがわれる作品もある。
執筆者:高山 鉄男
フランスの作家。古典主義時代の明快で柔軟な散文を作りあげた作家として評価される。アングレームに生まれ,パリとポアティエで学んだ後,オランダのライデンに留学。1621-22年にはローマに滞在する。このころからパリの知人,とくにランブイエ侯爵夫人のサロンにあてて手紙を書き始める。24年に刊行された《書簡集》は異常ともいえる成功を収め,それをめぐって論争が巻き起こるほどであった。以後シャラントの所領にひきこもって文筆活動を行った。彼はローマ時代の格調高い文体を,新しい感受性をこめてフランス語の散文に写し取る努力をした。詩や文法の面で厳しくフランス語を鍛えたマレルブの後を継ぎ,フランス語を散文の面で高度な思考に耐え,雄弁による感動を与えうるものとして高めた功績は大きい。作品としては書簡文のほか,対話,論考《君主論》(1631)などがある。文壇ではシャプラン,コンラールらとともに古典主義文学の指導者であった。50年以降新しい世代からは比喩の多い誇張した文体を批判された。
執筆者:福井 芳男
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1799~1850
フランスの小説家。「人間喜劇」という総合的な題で小説90編余(『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』など)を書いた。奔放な想像力と明察をもって人間および社会をみごとに描き,写実主義の祖とされている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…知識ないし思想の伝達に用いられるものである言語を媒材とするところから,文学はたんに想像力や感情を刺激して快感を与えるのみにとどまらず,それと同時に,知識や教訓をつたえる力をもつことになる。バルザックの小説は,その時代のすべての職業的歴史家,経済学者,統計学者の著書全体よりも多くのことを教える,とエンゲルスはいったが,このようなことは他の芸術においてはけっしてありえぬことである。聖書は宗教書であると同時に文学であることはいうまでもない。…
…ゲーテはG.ブルーノの思想や錬金術を熱心に研究しており,その《色彩論》にも錬金術の間接的影響を認めることができる。フランスでは,錬金術と結びついた色彩象徴を詩作に用いたA.ランボー,〈黒い太陽〉という錬金術的イメージを主題の一つに据えたG.deネルバル,《セラフィータ》で両性具有の神秘を描いたバルザックやJ.ペラダンなど無数の詩人や作家があらわれた。ボードレールやのちのA.ブルトンもその影響下にあった詩人である。…
※「バルザック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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