改訂新版 世界大百科事典 「バロック文学」の意味・わかりやすい解説
バロック文学 (バロックぶんがく)
文学においてバロックの概念は,20世紀,特に1910-40年の間と60年代に,文学批評家が現代への問題意識をふまえ,16,17世紀西欧においてマニエリスムに続いて興った激情的かつ力動的な,多くの場合反古典主義的色彩を帯びた文学の傾向を,美術との関連の中でより鮮明に把握するために,美術史より導入したものである。E.オルス(ドールス),H.フォシヨンらはこの概念を,現代をも含めた他世紀の同種の傾向に適用し,また大部分の批評家がその概念の意味範囲を文体から主題,象徴へと拡大している。その理論化は多岐にわたり,共通尺度となる定義づけがないのが現状である。
フランス文学でのおもな理論はレーモンMarcel RaymondとルーセJean Roussetによって提出されている。前者は,16世紀後半の宗教戦争期に,殉教の栄光,魂の苦悩,惨劇への恐怖と怒り,黙示録的幻想等を激烈な調子で歌ったプロテスタントの軍人T.A.ドービニェの《悲愴曲》をバロック詩の筆頭に挙げる。彼は神に敵への報復を強要する。〈あの徒輩は月と天に向かって唾している。天にははや雷も火もペストもないのか。……空からバベルの塔を打つのだ。その額の上の尖塔が大地の姿を醜く変え,地球の丸味を奪ってしまえばよい!〉。彼の強力な想像力は弾圧者たちを怪物に変える。カトリーヌ・ド・メディシスについて〈あの女はペストをまきちらし,バジリック竜の殺人眼で国全体を死と化す。……静まりかえった丑(うし)三つ時に聞えてくる,あれのほえる声,あれの鋭い鳴声が〉と歌う。彼と同傾向の詩人に《聖週間》のデュ・バルタスGuillaume de Salluste Du Bartas(1544-90),《死のスタンス》のスポンドJean de Sponde(1557-95),シャシニェJean-Baptiste Chassignet(?-1635)がいる。彼らは皆,宗教戦争下の信仰と社会制度の危機的状況の中で,激動する魂と異常に鋭くなった感覚と幻覚性を帯びた想像力をもって,造物主や悪魔のビジョンや黙示録的光景を,自己の内的緊張に見合う動的な調子で歌った。レーモンはウェルフリンのたてた美術の領域でのバロックの規準を言語芸術に移しかえつつ,上述の詩人らをバロックと規定した。そしてその作品構造の特徴として,壮大な構想や強い表現性を追求するあまり,作品内部のバランスや中心テーマへの集中をかえりみず,構造に偏りや亀裂が生ずるのもよしとする傾向をあげた。また表現法の特徴として,感嘆文と破格構文の多用,誇張的で対照度の強いメタファー(隠喩)や,〈星より降り来るこの暗きあかり〉(コルネイユ)のごとき自家撞着語法の駆使をあげている。
他方,ルーセは17世紀前半の反宗教改革の芸術の盛況下で形成された,変身と動性と装飾に富む文化動向を重視する。彼はベルニーニやボロミーニの手になるローマのバロック建築と装飾の,曲線の支配や全体の動的統一やファサードの強調といった特徴を文学の次元に移行させつつ,魔女キルケや変幻自在の海神プロテウスが活躍し,魔法の城やアルゴ船の一行や奇怪な動物や聖イグナティオスらが次々に登場する宮廷バレエとか,主人公が狂気を装ったり変装したり,瓜二つとか取違えのために混乱に陥ったりするロトルーやスキュデリーやコルネイユの演劇,旋風,雲,水の泡,震える水面,炎等の束の間の浮動するものを歌ったド・ブリーブ,ラ・メナルディエール,ド・ビオの詩をバロックの典型とした。
イタリア文学についてはジェットGiovanni Gettoは,哲学者で宗教裁判で焚刑にあったブルーノ,《太陽の都》で有名なカンパネラ,マリーノらの名を挙げる。《英雄的狂気》の中でブルーノは身を滅ぼしても真理と美の女神アルテミスを追うアクタイオンのことを〈心誘う灯火に向かって舞い飛ぶ胡蝶は炎にやかれて亡ぶ身の末を知らず〉と歌う。《アドニス》を書いたマリーノはその波乱の人生と奔放なメタファーによって名をあげた。鳥を〈響高い原子,羽の生えた声,羽毛に包まれた生命ある風〉といい,太陽を〈光の大鎌で影の首をはねる死刑執行人〉と,波を〈泡立つアルプス連山〉と表現した。このほかスティリアーニ,テザウロがいるが,いずれもメタファーを詩の本質的な目的と考え,凡庸な発想を嫌悪した。なお,スペイン文学ではゴンゴラ,ケベード,グラシアンらがバロックの代表者として挙げられ,イギリス文学ではT.ブラウン,クラショー,J.クリーブランドらの奇想あふれる作品に対して,しばしば〈バロック〉という評語が冠せられる。
バロックを一時的に限る以上の諸説に対してオルスは古代から現代にかけ,洋の東西を問わず文化様式としてのバロックが飛石的に発現したと説き,その22種の相違点を提示した。熱帯の孤島を舞台にした楽園幻想を物語るJ.H.ベルナルダン・ド・サン・ピエールの《ポールとビルジニー》,北アメリカのインディアンの愛を描いたシャトーブリアンの《アタラ》,〈世紀末バロック〉のランボー,ロートレアモン,ユイスマンスらが彼が挙げる作品と作家である。文明と合理主義に対して野性と無意識の価値を称揚したというのがその共通点である。バロックの現代性については,詩人ボンヌフォアがその超越と死の面を《ラベンナの石》において,作家ビュトールがその感覚的な生と幻想の面を《心変り》において,劇作家クローデルがその世界所有と愛の主題を《繻子(しゆす)の靴》において,詩人サン・ジョン・ペルスがその宇宙感覚を《航海目標》等において示している。また近年,贈与と濫費の享受による文化と人間関係の活性化の視点から,バロック的祝祭が論じられるなど,この概念の生命力はいまだ旺盛である。
執筆者:成瀬 駒男
ドイツ
ドイツ文学においては,バロックは16世紀の後期人文主義から18世紀初頭の啓蒙主義に至るまでの文学時代の名称として用いられる。今日では17世紀文学の時代呼称と考えてよい。シュトリヒFritz Strichが1916年の論文でウェルフリンの芸術史概念に倣って,それまで評価の低かった17世紀文学に固有の制作原理を見いだし再評価して以来,1920年代から40年代半ばまで,17世紀のドイツ文学をバロックという統一概念でとらえる傾向が強まった。さらにバロックを特殊ドイツの現象とみなし,ドイツの国民性ないし民族性を具現した文学と論じる向きもあった。概念の基本は対極性と内的緊張におかれ,極端な対立を包括する点がバロックの特徴とされた。たとえば普遍主義と民族主義,市民の身分意識と宮廷文化,市民の学識と貴族の血統,彼岸志向と生の謳歌,現世否定と死への恐れなどである。だがこうした対立図式は他の時代にも認められるので,今日では総合的かつ精神史的な規定は行われず,むしろバロックを時代概念にとどめ,ヨーロッパ文学の伝統との関連で特異性を把握することが有効と考えられるに至った。
17世紀をほぼ一つの単位とする文学時代の設定が可能なのは,ここで近代文学の志向が生じた点にある。すなわち自国語を用いて,形式および主題においてはラテン的ヨーロッパの文学伝統に密接に結びついた文学生産が意識的に開始されたのである。この動きはイタリア,スペイン,フランスのロマンス語諸国やオランダの文学に触発され,初期においてはペトラルカ,ゴンゴラ,マリーノ,ケベード,グラシアン,あるいはオランダ悲劇等の翻案翻訳によって同化吸収されていった。これら先進諸国では国家統合が遂行されていたため,文化の主要領域である文学は共通の了解のもとに創作受容されていったのに対し,ドイツは約300の領邦国家であり,三十年戦争の影響もあって,地域的差異は大きく,文学生産は多様を極めた。南部のカトリック圏では人文主義時代と変わらずラテン語文学が優勢を占め,劇作家ビーダーマンJakob Biedermann(1578-1639)や詩人バルデJakob Balde(1604-68)らがおり,反宗教改革の傾向も強い。帝国都市ニュルンベルクにはハルスデルファーGeorg Philipp Harsdörffer(1607-58)を筆頭に高踏的な〈牧人と花の結社〉(1644)の詩人たちがおり,東部シュレジエンではオーピッツをはじめにローガウFriedrich von Logau(1604-55),ゲールハルト,グリューフィウス以下ルター色の濃い詩人劇作家が輩出し,辺境でありながらこの時代の文学的中心地の観があった。そのほか各地にすぐれた詩人が活躍したが,わずかな例を除き相互の交流はなかった。それは1617年ワイマールに,フランスのアカデミー(1635)に先駆け,国民文化涵養とドイツ語の純化育成を旨とする〈結実協会(結実結社)Fruchtbringende Gesellschaft〉が設立され,当代知名の詩人や王侯貴族を会員に加えたものの,たちまち各地に同趣旨の言語協会が作られ,活動が拡散したのと事情を同じくする。
こうした背景をとって唯一共通の基盤となったのはラテン語文学を支えてきた詩学と修辞学の伝統である。ドイツ語による詩作のため意図的にこの伝統への接合をはかったのはオーピッツであった。この構想は多くの詩学書によって18世紀前半まで継承された。この意味では,バロックを規範詩学の時代と呼ぶことも可能である。詩学隆盛の理由は,成熟の域に達していた他国文学の水準に追いつくための理論的解決法であったからであるが,さらに修辞学がよって立つ,状況,目的,事柄,そして特に人物にふさわしい言葉と文体の〈適合aptum,decorum〉論が封建的身分制社会での秩序原理と価値法則に即応していたことが挙げられる。これは,平俗,中庸,荘重の三文体の用法を説き,人物は身分ごとに特定の行動様式が,特定の事柄には規範的表現形式が割りふられる。この考えの根底には〈言葉ともの(詩では主題)verba et res〉の相即観がある。詩において主題と内容の選択がなされると,それに伴いジャンルと叙述形式が指定されている。たとえば王侯英雄の事跡は高雅な叙事詩,恋愛は甘美な抒情詩,悲劇は君公の悲運,栄華と失墜を荘重に,喜劇は俗衆の愚昧を平俗にという約束である。求められるのは,表現されたものの背後にあるキリスト教的救済の真理,身分に示される神の秩序,あるいは節義と運命,空しさの挙示である。それゆえ詩人の創意はアレゴリーやメタファーの案出に向かい,格言的言回しの巧妙が競われる。したがって,修辞学的三原則のうち,正確,明快よりも文彩がもつ比重が大きい。しかも聖書はもとよりラテンおよびギリシアの古典,さらに教父神学の知識すら前提となり,〈学識者〉文学の特徴をもつことになる。こうした諸要素の結晶が,抽象的な表題,情景や場面を示す絵,多くエピグラム風の説明の三要素からなるエンブレマータという特有なジャンルである。他方,世紀半ばより数を増した小説も,英雄・宮廷小説,牧人小説,悪者小説および風刺小説と三文体に対応する面をもっているが,ことに英雄小説は時代のあらゆる知識を集成した百科全書的な内容をもち,その表現と相まってまさに典雅な学識文学の真骨頂を示す。広く賛嘆され,ライプニッツも賞賛したウルリヒAnton Ulrich(1633-1714)の《アラメナ》(1669-73)は全5巻約3900ページである。それと対極をなす悪者小説の代表は,今日世界文学の傑作に数えられるグリンメルスハウゼンの《ジンプリチシムスの冒険》(1669)だが,同時代では文学とみなされず,世紀末にようやくその真価が認められた。こうしたところにもバロックの特殊性をみることができる。
→マニエリスム[文学]
執筆者:轡田 収
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報