生没年不詳。古代ギリシアの天文学者。小アジアのニカイア出身。紀元前2世紀後半に活躍。彼の宇宙観は天動説であるが、天文観測でいくつかの重要な業績をあげ、その成果はプトレマイオスの『アルマゲスト』Almagestに採録され、後世の天文学の基礎を築いた。彼は月の視差の測定をした。視差は二つの異なる場所から同一の天体を見たときの方向の違いであり、それを正確に計算するために、弦の表を作製して三角法(とくに球面三角法)を確立した。この視差を求めて地球から月までの距離を地球の半径の約67倍、さらに太陽までの距離を地球の半径の2490倍だとしている。また、さそり座にそれまで記録されていない星を発見、当時は天界は永久不変とされており、この発見をきっかけに全天の1000個以上の星を観測し、明るさを6等級に分類し、その位置を黄経、黄緯で示す恒星目録を作製した。さらにこの目録をそれ以前の星表と比較し、春分点が毎年すこしずつ早くなっていること(歳差現象)を知った。つまり、恒星年と回帰年(太陽年)の長さが違っていた。歳差現象は地球の自転軸が太陽や月の引力作用のために首を振るように変化するために生じるが、彼は天の北極が非常に大きな周期で円を描くためと考えた。
[平田 寛]
ギリシアの天文学者,地理学者。ニカエアに生まれた。彼の著作は今日ほとんど伝わらず,主として,プトレマイオスの《アルマゲスト》のなかでの言及によって,その考えを知ることができるのみである。ロードス島で天文観測に従事したらしく,そのデータとバビロニア天文学の遺産とを利用しながら,数学的計算によって,恒星,太陽,月,惑星の運動に関してさまざまな新しいアイデアを提案した。
円の弧と弦の長さとの関係を表す〈弦の表〉(一種の正弦関数表)を発案したことはよく知られているが,これを用いて,月,太陽までの距離の計算を行い,あるいは,太陽の軌道の中心から離れたところに地球を置く〈離心円〉の仮説を提案するなど,《アルマゲスト》の先駆となる着想の多くが彼に帰せられている。
執筆者:村上 陽一郎 ヒッパルコスはエラトステネスの地理学に対する批判の書《プロス・テーン・エラトステヌース・ゲオーグラピアン》を著した。この書は現存せず,ストラボンの《地理学》や大プリニウスの《博物誌》によりその内容がうかがわれる。彼は地球の大圏の値(円周の長さ)としてエラトステネスに基づき25万2000スタジア(ギリシアの長さの単位で,1スタジアは148~210mくらいに当たる)を採り,子午線と赤道を360等分(1°=700スタジア)した座標により地表上の諸地点の位置を示す方法を説いたが,実際には(とくに経度の)観測が困難なため用いられていない。また,彼は年間最長の日の出から日没までの時間によって平行圏(緯線)を示した。これをギリシア語で〈傾き〉を意味するクリマ(複数はクリマータ)と呼んだが,これは地平線に対する極の傾き,すなわち緯度を示すものである。後世にはこれが特定の平行圏に挟まれた地帯,すなわち気候帯から,さらには気候を意味することばとなった。ストラボンによると彼の示したクリマの最北はピュテアスが報告した24時間(一日中日が沈まない,すなわち北極圏以北の緯度),最南はナイル川中流のメロエ13時間である。
執筆者:高橋 正
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前560頃~前514
アテネの僭主(せんしゅ)ペイシストラトスの子。父の死後そのあとを継いだ兄ヒッピアスの政治を助けるとともに学芸を奨励したが,前514年ハルモディオスとアリストゲイトンに殺された。
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…生没年不詳。前514年のパンアテナイア祭の日にハルモディオスそのほかの同志と共に僭主ヒッピアスとその弟ヒッパルコスの殺害をたくらんだ。しかし計画は失敗し,ヒッパルコスを殺しただけにおわり,彼はつかまって処刑された。…
…古代アテナイの人。美青年でアリストゲイトンという中流市民に愛されていたが,同時に僭主ヒッピアスの弟ヒッパルコスにも思いを寄せられており,アリストゲイトンは僭主の弟に権力づくで彼を奪われることを恐れた。そこで二人は同志を集い,僭主政の打倒をたくらみ,前514年のパンアテナイア祭の日に決行した。…
… 古くから太陽系外の天体すなわち恒星は,惑星などの動きの背景として天球に配置された光点にすぎなかった。ギリシア時代にも,ニカイアのヒッパルコスのように恒星の明るさの等級を定め,1028個の恒星の位置を測定して星表を作成した学者もいたが,これは例外で,恒星がようやく注目されだしたのは17世紀に入って太陽系の正しい姿が明らかにされようとするころになってである。 変光星ミラの観測(1596),ケプラーによる超新星の観測(1604)などに続き,E.ハリーによる恒星の固有運動の発見(1717)によって,恒星が天球に固定された光点ではなく独立した天体であるという考えが確立した。…
…また,月食の進(しんちよく)の状況は地球のどこから見ても同じであるので,これを利用すれば,遠隔の2地点間の経度差を測定することができる。このアイデアは前2世紀のヒッパルコス(ニカイアの)のものとされているが,実際には,17世紀から18世紀の初めにかけて経度を決定するもっとも実用的な方法となった。ただし,月面上での明暗の境界は明りょうでないため,その決定精度は±0.゜1程度にとどまっている(図)。…
…地球の歳差運動によって起こる太陽年(回帰年)と恒星年の1年の差,または〈こま〉や地球の歳差運動のこと。 ニカエアのヒッパルコス(前190ころ‐前125ころ)は自分の恒星位置の観測と,150年前のアレクサンドリアのティモカリスの観測とを比較して,その位置の変化に気がついた。黄緯は一致していたが,すべての星の黄経が約2゜減っていたので,これは黄経の基準にとった春分点が,150年間に2゜ほど逆行(天球上で東から西に進むこと)したためと考え,春分点の移動を毎年約46″(真の値は50″.29)とした。…
…三角法も元来この問題から起こったのであり,歴史的には天文学上の応用から始まったので,球面三角法のほうが平面三角法より先行した。古代のエジプト,バビロニア,中国にも三角法の芽生えが見られるが,前150年ころのギリシアのヒッパルコス(ニカエアの)が三角法の創始者といわれている。現在の三角法の形式はドイツのレギオモンタヌスRegiomontanus(1436‐76)によるといわれ,その諸定理はJ.ネーピア,J.ケプラーを経て,L.オイラーに至って整備されたものである。…
…こうしたエウドクソスの説はその後も若干の追随者が出たが,地球からみた天体の大きさの変化を説明することができなかった。前2世紀にはギリシア最大の天文学者ヒッパルコスが現れ,みずからも観測を行うと同時に,円運動の組合せとして天体の運動を説明した。地球を中心とする大円上を等速度で動く小円(周転円)があり,この小円上を太陽が等速度に動くとし,この2円の組合せにより太陽の運動,したがってその位置をかなり正確に予報することができた。…
…中東地域のメソポタミアでも,前十数世紀から天体観測がなされ,有名なバベルの塔は,その頂上で神官たちが天体を観測した天文台であったという説もある。前6世紀以降の約800年間は,ギリシアで科学的な宇宙論が花を開いた時期であるが,当時のギリシアの天文学者の中で,天体観測の第一人者であったヒッパルコスは,エーゲ海上のロドス島に天文台を作って観測に励んだということである。前150年ころ,彼は長年の恒星位置の観測から,歳差運動を発見している。…
※「ヒッパルコス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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