アメリカの映画監督。本名オフィーニーSean Aloysius O'Feeney。両親はアイルランド移民で、2月1日メーン州に生まれる。1914年、監督兼俳優として活躍していた兄フランシスを頼って映画界入り。大道具係、俳優などを経験したのち、1917年『颱風(たいふう)』で監督となる。もっぱらハリー・ケリー主演の短編西部劇をつくっていたが、鉄道建設を描いた西部開拓劇『アイアン・ホース』(1924)で認められる。本格的に活躍するのはトーキー時代になってからで、ダドリー・ニコルズ脚色によるアイルランド独立運動の密告者を描いた『男の敵(てき)』(1935)でアカデミー監督賞を受けた。ニコルズとのコンビは、1939年に西部劇の最高傑作といわれる『駅馬車』を生み出す。これに続く1940年代の活躍は目覚ましい。ジョン・スタインベック原作の『怒りの葡萄(ぶどう)』(1940)、ウェールズの炭鉱夫一家を描いた『わが谷は緑なりき』(1941)で、アカデミー監督賞を2年連続受賞。この二作は労働者を主人公にしているが、フォード自身はかならずしも社会主義的な思想をもっていたわけではない。アイルランド系らしい正義感と家族愛が社会の矛盾に目を向けさせたとみるべきであろう。1946年に監督した西部劇『荒野の決闘』は保安官ワイアット・アープと家畜泥棒クラントン一家の対決の実伝を描いて、『駅馬車』に勝るとも劣らぬ名作である。騎兵隊三部作といわれる『アパッチ砦(とりで)』(1948)、『黄色いリボン』(1949)、『リオ・グランデの砦』(1950)は優れたアクション演出とともに、軍隊を家族的共同体とみるフォードの特色がよく出ている。同時に西部劇の第一人者としての名声も確立された。『駅馬車』で抜擢(ばってき)して以来、ジョン・ウェインをいつも主役に起用するなど、映画をつくるうえでも家族的な結び付きを好む傾向がみられた。『静かなる男』(1952)は、父祖の地アイルランドへの愛着に満ちた作品で、四度目のアカデミー監督賞を受けた。1973年8月31日癌(がん)のためカリフォルニア州の自宅で没した。
[品田雄吉]
颱風 The Tornado(1917)
快中尉 The Trail of Hate(1917)
腕力家 The Scrapper(1917)
武力の説教 The Soul Herder(1917)
愛馬 Cheyenne's Pal(1917)
誉の名手 Straight Shooting(1917)
光の国へ The Secret Man(1917)
覆面の人 A Marked Man(1917)
鄙より都会へ Bucking Broadway(1917)
幽霊騎手 The Phantom Riders(1918)
布哇(ハワイ)の一夜 Wild Women(1918)
深紅の血汐 The Scarlet Drop(1918)
砂に埋れて Hell Bent(1918)
鉄窓を出て Three Mounted Men(1918)
恋の投縄 Roped(1919)
回春録 A Fight for Love(1919)
空拳 Bare Fists(1919)
復讐の騎手 Riders of Vengeance(1919)
さすらひの旅 The Outcasts of Poker Flat(1919)
鞍上の勇者 Ace of the Saddle(1919)
正義の騎手 Rider of the Law(1919)
西部の紳士 A Gun Fightin' Gentleman(1919)
恵みの光 Marked Men(1919)
A街の貴公子 The Prince of Avenue A(1920)
二十九号室 The Girl in Number 29(1920)
西方の勇者 Hitchin' Posts(1920)
野人の勇 Just Pals(1920)
熱血の焔 The Freeze-Out(1921)
疾風の如く The Wallop(1921)
吹雪の道 Desperate Trails(1921)
雷電児 Action(1921)
百発百中 Sure Fire(1921)
ジャッキー Jackie(1921)
嘆くな乙女 Little Miss Smiles(1922)
村の鍛冶屋 The Village Blacksmith(1922)
侠骨カービー Cameo Kirby(1923)
意気天に沖す North of Hudson Bay(1923)
豪雨の一夜 Hoodman Blind(1923)
アイアン・ホース The Iron Horse(1924)
オーロラの彼方 Hearts of Oak(1924)
雷光 Lightnin'(1925)
香も高きケンタッキー Kentucky Pride(1925)
サンキュー Thank You(1925)
雪辱の大決戦 The Fighting Heart(1925)
シャムロック大競馬(誉れの一番乗) The Shamrock Handicap(1926)
3悪人 3 Bad Men(1926)
青鷲 The Blue Eagle(1926)
マザー・マクリー Mother Machree(1928)
四人の息子 Four Sons(1928)
血涙の志士 Hangman's House(1928)
赤毛布(あかげっと)恋の渦巻き Riley the Cop(1928)
名物三羽烏 Strong Boy(1929)
黒時計聯隊 The Black Watch(1929)
最敬礼 Salute(1929)
最後の一人 Men Without Women(1930)
悪に咲く華 Born Reckless(1930)
河上の別荘 Up the River(1930)
大海の底 Seas Beneath(1931)
餓饑娘 The Brat(1931)
人類の戦士 Arrowsmith(1931)
大空の闘士 Air Mail(1932)
肉体 Flesh(1932)
戦争と母性 Pilgrimage(1932)
ドクター・ブル Doctor Bull(1933)
肉弾鬼中隊 The Lost Patrol(1934)
世界は進む The World Moves On(1934)
プリースト判事 Judge Priest(1934)
俺は善人だ The Whole Town's Talking(1935)
男の敵 The Informer(1935)
周遊する蒸気船 Steamboat Round the Bend(1935)
虎鮫島脱獄 The Prisoner of Shark Island(1936)
メアリー・オブ・スコットランド Mary of Scotland(1936)
鍬と星 The Plough and the Stars(1936)
軍使 Wee Willie Winkie(1937)
ハリケーン The Hurricane(1937)
四人の復讐 Four Men and a Prayer(1938)
サブマリン爆撃隊 Submarine Patrol(1938)
駅馬車 Stagecoach(1939)
若き日のリンカン Young Mr. Lincoln(1939)
モホークの太鼓 Drums Along the Mohawk(1939)
怒りの葡萄 The Grapes of Wrath(1940)
果てなき船路 The Long Voyage Home(1940)
タバコ・ロード Tobacco Road(1941)
わが谷は緑なりき How Green Was My Valley(1941)
ミッドウェイ海戦 The Battle of Midway(1942)
真珠湾攻撃 December 7th(1943)
コレヒドール戦記 They Were Expendable(1945)
荒野の決闘 My Darling Clementine(1946)
逃亡者 The Fugitive(1947)
アパッチ砦 Fort Apache(1948)
三人の名付親 Three Godfathers(1948)
黄色いリボン She Wore a Yellow Ribbon(1949)
幌馬車 Wagon Master(1950)
リオ・グランデの砦 Rio Grande(1950)
静かなる男 The Quiet Man(1952)
栄光何するものぞ What Price Glory(1952)
太陽は光り輝く The Sun Shines Bright(1953)
モガンボ Mogambo(1953)
長い灰色の線 The Long Grey Line(1954)
ミスタア・ロバーツ Mister Roberts(1955)
捜索者 The Searchers(1956)
荒鷲の翼 The Wings of Eagles(1956)
月の出の脱走 The Rising of the Moon(1957)
ギデオン Gideon's Day(1958)
最後の歓呼 The Last Hurrah(1958)
騎兵隊 The Horse Soldiers(1959)
バファロー大隊 Sergeant Rutledge(1960)
馬上の二人 Two Rode Together(1961)
リバティ・バランスを射った男 The Man Who Shot Liberty Valance(1962)
西部開拓史~「南北戦争」 How the West Was Won - The Civil War(1962)
ドノバン珊瑚礁 Donovan's Reef(1963)
シャイアン Cheyenne Autumn(1964)
若き日のキャシディ Young Cassidy(1965)
荒野の女たち 7 Women(1965)
海ゆかば Remember Pearl Harbor(1974)
『ダン・フォード著、高橋千尋訳『ジョン・フォード伝』(1987・文芸春秋)』
ゼネラル・モーターズ(GM)と並ぶアメリカの大手自動車メーカー。正式名称はフォード・モーター・カンパニー。同社の主要ブランドには、大衆車、小型トラックのフォードのほか、リンカーンLincolnなどがある。一時期、アストン・マーチンAston Martin、ジャガーJaguarも主要ブランドとしていた。
1903年設立の同名のミシガン州法人の全資産を継承して、1919年デラウェア州法人として設立された。このミシガン州法人の中心的設立者はヘンリー・フォード1世であったが、彼の持株比率は25.5%にすぎなかった。フォード1世は他人と会社を「共有」することを望まず、ほかの株主の持株を買い増し、自己の持株比率を高めることに努力した結果、ついに1919年には残余の41.5%の買い取りに成功し、フォード・モーター・カンパニーの全株式がフォード一族の手に落ちることになった。1999年時点でもフォード家は議決権株式の40%を所有しており、完全な家族支配下にある巨大企業の数少ない例の一つとみなされている。
ヘンリー・フォードが自動車生産を始めた当時、自動車はまだ金持ちのおもちゃにすぎなかった。それを文字どおり大衆の足にするためには、徹底した大量生産と、それによる価格の大幅引下げが必要であった。1908年、この要請にこたえてつくられたのがフォードT型車(T型フォード)である。それはオートメーションの先駆となった「フォードシステム」を確立し、大量生産が可能になったことによって生まれた大衆車である。全米自動車販売高に占めるT型フォードの比率は、1909年の9.38%から1913年には37.64%に上昇し、1921年には55.45%と業界を圧倒するに至った。この間、T型フォードの価格は1909年の850ドルから1921年の355ドルに低下したが、販売台数は逆に1万2292台から93万3720台に増加した。だが、GMの多車種生産、モデルチェンジ化政策の前にフォードの単一車種大量生産政策は徐々に大衆の支持を失い、ついに1927年には業界ナンバー・ワンの座をGMに譲ったばかりか、第二次世界大戦前には後発のクライスラーにも追い抜かれるようになった。
第二次世界大戦後、とくにヘンリー・フォード2世が実権を握るようになってからは、業界第2位の地位の奪取に成功した。しかし、1980年代はヨーロッパや日本メーカーの追い上げにあい業績は振るわなかった。1990年代に入り、フォードは多国籍化した世界的な生産配置をフル活用し、ふたたび大きな利益をあげるようになった。1997年にタイに組立工場を建設し、ベラルーシ、中国、べトナムでも自動車生産を始め、世界35か国以上で営業を行っている。同社は、1987年に世界最大のレンタカー会社ハーツThe Hertz Corp.を傘下に収めたほか、1999年にはスウェーデン最大の自動車メーカーであるボルボの乗用車部門を買収し、GMと並ぶ世界シェアとなった。また、同年ヨーロッパ最大の自動車の修理・補修部品販売チェーンの買収、マイクロソフトとの提携によるインターネットでの新車販売事業開始など、フォードは業界再編の動きのなかで、自動車製造を中核とした総合的なサービス会社へと業態変革を図っている。
日本では、1979年(昭和54)にマツダ(旧東洋工業)に資本参加し、1996年には資本の3分の1を取得してフォードの傘下に収めた。
[佐藤定幸・萩原伸次郎]
フォードは2000年にエクスプローラーに使用されていたブリヂストン・ファイアストン社製タイヤの欠陥によるリコール問題にみまわれた。また、主力の大型車やピックアップトラックの販売減少が響いて業績が悪化し、2007年にはアストン・マーチン、ジャガー、ランドローバーといったブランドを次々に売却した。さらに、2008年(平成20)にマツダの持ち株を大量に売却し、出資比率を13%とした。2008年の売上高は1601億ドル、欠損は126億ドルに及ぶ。
[編集部・萩原伸次郎]
アメリカの実業家、自動車王。アイルランド移民の農夫の父と、オランダ人とスカンジナビア人の混血の母との間に、ミシガン州ディアボーンに生まれる。幼いころから機械技術に天分を発揮し、15歳で蒸気エンジンを製作、20歳になる前に時計修理のベテランとなる。最初の自動車の製作・試走に成功したのは、エジソン照明会社(後のゼネラル・エレクトリック社を構成する1社)に主任技師として在職中の1896年で、33歳であった。
1899年にはエジソン社を辞し、デトロイト自動車会社(1903年、キャデラック自動車会社となり、1909年ゼネラル・モーターズ社に吸収)の技術主任に就任するが、経営陣と意見を異にし、1902年に同社を去る。1903年フォード自動車会社を設立、自ら副社長兼技術主任を務める。同社の車は比較的軽量で扱いやすく好評を博したが、名声を決定的にしたのは1908年10月1日に発表したT型である。1910年にはミシガン州ハイランドパーク工場が操業開始、そこで1913年から世界最初のコンベヤーライン式の組立てをスタート、T型は日産1000台に達した。
年産30万台を達成した1914年には、T型の購入者に40~60ドルのリベートを償還すると発表、一方、工員には1日8時間労働を採用するとともに同種産業の平均の2倍以上にあたる日給5ドルを支給、あわせて利益分配計画も発表、世間を驚かせた。フォード社のシェアは1919年に55%を超え、1923年には年産200万台に達した。初め850ドルで売り出したT型は、最盛期の1925年には260ドルまで下がり、1927年5月31日までの19年間弱に実に1500万7033台を生産した。これは1972年にフォルクスワーゲン・ビートル(カブトムシ)に破られるまで、1型式の自動車の生産記録として生き続けた。しかしこの高率賃金も、流れ作業から生ずる労働者の疎外感と労働密度の強化、それを裏書きする労働移動率の増大という事態への対応策としては十分なものではなく、経営戦略の面においても彼の理念は市場の変化を無視したT型車への固執となり、やがて階層別の多車種生産に乗り出したGMとの競争で敗れるに至った。
1919年に社長の座を息子のエドセルEdsel Ford(1893―1943)に譲ったが、病弱なエドセルは1943年に49歳で他界、80歳のヘンリーはふたたび社長に返り咲いた。第二次世界大戦の終わった1945年、孫のヘンリー・フォード2世Henry Ford Ⅱ(1917―1987)に譲り、2年後に没した。遺産は10億ドルといわれたが、その多くはフォード財団に寄贈された。
[高島鎮雄]
『H・フォード著、稲葉襄監訳『フォード経営――フォードは語る』(1968・東洋経済新報社)』▽『下川浩一著『フォード』(『世界企業6』所収・1972・東洋経済新報社)』▽『C・E・ソレンセン著、福島正光訳『自動車王フォード』(角川文庫)』
アメリカ合衆国第38代大統領(在任1974~1977)。ネブラスカ州オマハ生まれ。母親の再婚によりミシガン州グランド・ラピッズで育つ。ミシガン大学ではフットボールの選手、エール大学で同コーチをつとめながら法律を専攻。第二次世界大戦では海軍に勤務、のち郷里で弁護士を開業。1948年共和党から下院議員に当選、13期務める。保守派に属し、1965年から党の下院院内総務。さしたる立法の業績もなく、下院議長となることが見果てぬ夢であったが、1973年副大統領アグニューが汚職で辞任したあと初の任命による副大統領となり、さらに翌1974年8月ウォーターゲート事件で辞任したニクソンの後を受け大統領に昇格。アメリカ史上最初の「選挙の洗礼を受けない大統領」である。誠実な人柄で国民の政治への信頼を取り戻したかにみえたが、就任1か月後ニクソンに恩赦を与えたため人気は急落。経済不況とベトナムでの敗北により威信を落としたが、1975年5月にアメリカ船がカンボジアに拿捕(だほ)された「マヤグエス号事件」で乗組員救出に強硬策をとりタカ派ぶりを示した。1974年(昭和49)11月現職アメリカ大統領として初めて訪日。1976年の大統領選でカーターに惜敗して再選はならなかった。ニクソン恩赦が命取りになったといわれる。
[袖井林二郎]
『バッド・ヴェスタル著、新庄哲夫・杉原素明訳『フォード大統領 知られざる素顔』(1974・講談社)』▽『関西テレビ放送編『フォード回顧録』(1979・サンケイ出版)』
イギリスの劇作家。法学院ミドル・テンプルに学んだ事実のほか、生涯については未詳。1610年ごろから他の劇作家たちとの共作で生計の資を得たと考えられる。独自の作品は悲喜劇『恋人の憂愁』(1628初演、以下同じ)、恐怖悲劇の傑作『はり裂けた胸』(1629ころ)、近親相姦(そうかん)の悲劇『あわれ彼女は娼婦(しょうふ)』、『愛のいけにえ』(ともに1632ころ)など。いずれもエリザベス朝末期のデカダンス色が濃い。彼の悲劇は愛をテーマとしているが、激しい情念が自然に燃え上がるのではなく、劇全体を支配するのは沈鬱(ちんうつ)な哀愁のムードであり、血と暴力と乱倫というセンセーショナルな道具立てとは裏腹の沈思と沈黙こそが、ドラマの核となっている。また、史劇『パーキン・ウォーベック』(1633ころ)は、ある王位僭称者(せんしょうしゃ)の誇大妄想を衝(つ)き、人間の偉大性を問う異色作。史劇に新機軸をもたらした作品として注目される。
[笹山 隆]
『小田島雄志訳『あわれ彼女は娼婦』(『世界文学大系89 古典劇集』所収・1963・筑摩書房)』
イギリスの小説家、評論家。父はドイツ系の音楽評論家。18歳でカトリックに改宗、J・コンラッドと『相続者』(1901)などを共作。1908年『イングリッシュ・レビュー』、24年『トランスアトランティック・レビュー』を創刊編集。新しい文学運動を精力的に紹介した。小説家としても『善良な軍人』(1915)、第一次世界大戦をテーマに広い文明的な視野をもった四部作『行進の終り』(1924~28)などあり、再評価の動きが強い。
[鈴木建三]
アメリカの映画監督。西部劇の古典《駅馬車》(1939)の名監督として知られ,日本でも戦前から〈西部劇の神さま〉と呼ばれてきた。アイルランド系アメリカ人で,サイレント時代に映画界に入り,多数の西部劇,アクション映画,メロドラマなどを手がけ,1924年,大陸横断鉄道建設を描いた西部開拓劇《アイアン・ホース》によって注目された。〈与えられた題材を何でもうまく料理する〉ハリウッドの典型的な職人監督として,活劇,コメディ,社会劇,人情劇,戦争映画など多彩な主題を魅力ある娯楽作品に仕上げた。そこにはすべてが彼自身の企画・製作であるかのような個性があふれ,ヒューマンな感動を伴う豪快かつユーモラスな男性的ストーリーを簡潔直截な歯切れのよい演出で語る〈フォードの世界〉がある。胸のすくアクション,詩情あふれる風景描写,爆笑の幕あい狂言的シーン,さらに,親子・兄弟あるいは年長者と若者の心のふれあい。人と人が支え合い信じ合い,見守り見守られつつ時はめぐるという考え方が,フォードの作品群を支える〈背骨〉のようなものであり,彼がしばしば軍隊に題材を取るのもその思想が生かしやすい舞台であるからにすぎず,短絡的に軍国主義的・好戦的映画作家と断じる総括は皮相に走るものというべきだろう。同郷意識が強く,アイルランド系の俳優たちを連続起用した。ジョン・ウェイン,モーリン・オハラ,ビクター・マクラグレンなどの人々は〈フォード一家〉と呼ばれてファンに親しまれた。
開拓史上有名な土地争奪戦(いわゆる〈ランド・ラッシュ〉)を背景に,若い恋人たちを守って戦う心優しい無頼漢たちを描いた《三悪人》(1926),愛するわが子たちを次々に戦争に奪われるドイツの母の悲劇を描いた《四人の息子》(1928),伝染病と戦い,愛妻を失う一医師の人生を描いた《人類の戦士》(1931),アイルランド独立戦争のさなか自由へのあこがれから親友を売って自滅する愚直な男を描いた《男の敵》(1935),〈ウィル・ロジャース三部作〉とよばれる人情味あふれる豪快な喜劇,すなわち《ドクター・ブル》(1933),《プリースト判事》(1934),《周遊する蒸気船》(1935),スタインベックの名作の映画化《怒りの葡萄》(1940),ウェールズの一鉱山の盛衰とそこに生きた一家族の明暗を描いた《わが谷は緑なりき》(1941),詩的西部劇の傑作として名高い《荒野の決闘》(1946),ときにシリアスにときにユーモラスに西部辺境の騎兵隊の生活を描いた〈騎兵隊三部作〉として知られる《アパッチ砦》(1948),《黄色いリボン》(1949),《リオ・グランデの砦》(1950),アイルランド気質あふれるコミカルな人情劇《静かなる男》(1952),インディアンに奪われた少女を探し求める男の執念と孤独と憎しみの旅路を描いた《捜索者》(1956),古き西部の終焉を描いた《リバティ・バランスを射った男》(1962),白人に追われるインディアンの一群の生れ故郷への悲惨な大移動を描いた《シャイアン》(1964)……。フォードの作品歴は,契約監督時代と独立プロ時代に大きく分けられ,前半は22歳(1917)から第2次世界大戦直後の51歳まで,後半は52歳(1947)から71歳(1966)までとなる。最高の密度と完成度を示した作品は前半に多いといわれるが,壮年期のフォードの見せた力量は抜群であり,また,サイレントからトーキーへ,モノクロからカラーへ,さらにワイド・スクリーンへと,映画は改革されるたびに試行錯誤したが,フォードはいずれの場合もほとんど迷わずに音,色彩,大画面などの新要素を使いこなした。晩年の作品は内容がしだいにペシミズムに傾き,演出力もやや冗長に流れすぎるといわれもしたが,最後の作品になった《荒野の女たち》(1966)では処女作のような若々しさにあふれた演出ぶりを見せた。
→西部劇
執筆者:岡田 英美子
アメリカの自動車王でフォード・モーター社の創業者。アメリカの天才的技術者,企業的成功者として,発明王エジソンとならんで語られるヒーローの一人。農家に生まれるが機械いじりが好きで16歳で機械工となる。1887年エジソン電気会社の主任技師となるがこれを辞して自動車製造に専念,1903年ミシガン州ランシングにフォード・モーター社を設立,何回かの失敗ののち08年,今日に伝わる有名な大衆車〈フォードT型 モデルT〉の開発に成功した。このT型は,当時あまりにも高価で〈金持の玩具〉といわれた自動車を,その低価格で真の大衆の足とした画期的なものであった。事実T型フォード車の価格は,08年の850ドルから24年には290ドルにまで引き下げられた。この低価格実現の秘密は彼のつくり上げた組立てラインにあり,自動車組立てに初めて大量生産方式を導入したものとして有名である。フォード社はその後成長を続け,24年には160万台を販売して市場占有率50.2%という絶頂期を迎えた。このころフォードは労使共栄の理念を打ち出し,日給5ドルという破格の賃金と8時間労働制を導入して世間を驚かせた。企業の成功は同時に労働者の繁栄であると説くフォードの主張は,〈フォーディズム〉として世界に喧伝された。しかし30年代以降になると,低価格の1車種生産に固執したためゼネラル・モーターズ社に抜かれる。このころ労働争議が生じるが,フォードはその信念から組合の組織化に反対,ために大争議に発展するが一歩も譲らず,労働者から強い非難をうける。天才的だが独裁的な19世紀型企業家の最後の一人といわれる。45年に引退,慈善事業にも貢献した。本拠であるミシガン州ディアボーンにディアボーン美術館を,またフォード財団,フォード病院などを設立したのは有名。
執筆者:鳥羽 欽一郎
イギリスの劇作家。デボンシャーに生まれたこと,1602年に法学院に籍をおいたこと以外,その生涯については知られていない。幾人かの劇作家と共作したと考えられるが,彼単独の作品としては悲喜劇《恋する人の憂愁》(1628初演。以下初演年),悲劇《はり裂けた胸》(1629ころ),《あわれ彼女は娼婦》《愛のいけにえ》(ともに1632ころ),歴史劇《パーキン・ウォーベック》(1633ころ)などがある。彼の悲劇はいずれも愛をテーマとしているが,中心的人物の白熱した情念が自然に燃焼することを許されず抑圧される結果,一種異常な扇情的雰囲気が沈鬱な哀愁を帯びて立ち現れるところに特徴がある。血と嗜虐的暴力あるいは近親相姦といった衝撃的な劇の道具立てとは裏腹な沈思と沈黙が,彼のドラマの最も重要な要素であり,ここにシェークスピアのロマンティシズムとは異質の耽美(たんび)的デカダンスを見取る向きもある。《パーキン・ウォーベック》は誇大妄想的王位僭称者である主人公の内面の人間的偉大さに光を当てて,歴史劇に新機軸を打ち出した作品として高く評価される。
執筆者:笹山 隆
イギリスの小説家,ジャーナリスト。美食家としても知られる。父はドイツ系の音楽評論家フランシス・ヒューファー,祖父はラファエル前派の創始者の一人である画家F.M.ブラウン。国際色豊かな文学的な環境に育ち,早くから文筆に従事,18歳でカトリックに改宗。J.コンラッドと《相続者たち》(1901)などを共作。1908年《イングリッシュ・レビュー》を創刊編集,T.ハーディ,J.ゴールズワージー,J.コンラッドからT.S.エリオット,R.フロスト,P.W.ルイスまでの多彩な作品を掲載,また24年にはパリで《トランス・アトランティック・レビュー》を創刊編集,J.ジョイス,E.ヘミングウェーの作品を掲載するなど,新しい文学の理解者としてつねに精力的に,その紹介に努めた。また小説家としても《りっぱな軍人》(1915)を執筆。第1次世界大戦に中尉として出征,毒ガスにより負傷して帰国後は,この大戦をテーマにし広い文明的視野をもった四部作《行進の終り》(1924-28)などのすぐれた作品を発表し,近年再評価の動きが強い。
執筆者:鈴木 建三
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1913~2006
アメリカ第38代大統領(在任1974~77)。共和党員。長く下院議員を務め,選挙の洗礼をへずに,1973年に副大統領,翌年ニクソンの辞任で大統領に就任。就任直後,ニクソンに特赦を与え世論の不評を買った。外交では対ソ・デタントを継承,内政ではスタグフレーションに苦しんだ。76年の大統領選挙でカーターに敗北。日本を訪問した最初のアメリカ大統領である。
1863~1947
アメリカの実業家。機械工から身を立て,1903年フォード自動車会社を設立。08年T型車を発売し,13年近代的な組み立てラインによる大量生産方式を開始して大成功を収め,「自動車王」の名を得る。高賃金などの労働条件を提示する一方,労働組合の組織化にはあくまで反対する保守的な立場に立った。多額の寄付により文化や学術活動にも寄与。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…アメリカ第2位の自動車メーカーで,いわゆるビッグ・スリーの一社。略称フォード。世界の自動車メーカーのなかでは最も多国籍企業化が進んでいる。…
…その歴史は必ずしも明確ではないが,1873年イギリスのR.デービッドソンによる四輪トラックが最初といわれており,80年代にはフランスで本格的な電気自動車が製作されている。アメリカにおいてはT.A.エジソンとH.フォードによる電気自動車開発の功績が大きく,90年ころから急速に普及をみた。その後ほぼ20年間にわたって蒸気自動車と競いあい,99年にはフランスで〈ジャメ・コンタント号〉をベルギーのC.イェナッツィが運転して,105km/hという当時の最高速度記録を樹立,電気自動車の優位性を誇示した。…
…社会,教育,公共事業の推進を目的に,1936年H.フォードとその子エドセルによって設立されたアメリカ有数の多目的財団。その事業範囲は,(1)教育と研究,(2)資源と環境,(3)公共放送,(4)国内問題,(5)国際活動,の多岐にわたる。…
…アメリカ第2位の自動車メーカーで,いわゆるビッグ・スリーの一社。略称フォード。世界の自動車メーカーのなかでは最も多国籍企業化が進んでいる。…
…ハムレット,マクベス,リア王,フォールスタッフなど,強烈な存在感のある人物を数多く造った点でも,彼の右に出るものはいない。
[屈折と終息]
シェークスピアの同時代人には,〈気質喜劇〉と呼ばれる卓抜な風刺劇の作者ベン・ジョンソンがいたが,ほかにも,《白魔》《モールフィ公爵夫人》のJ.ウェブスター,《復讐者の悲劇》のC.ターナー,《あわれ彼女は娼婦》のJ.フォードなど,すぐれた才能がひしめいていた。加虐,嗜虐,近親相姦といった屈折し倒錯した主題を,マニエリスム的な手法で劇化した彼らの作品には,ルネサンス末期の魂の苦悩と,痛ましい抵抗の身もだえが満ちている。…
…初期の歴史劇から晩年のロマンス劇にいたるその複雑な作家的展開の過程において,言語・舞台芸術としての演劇のあらゆる可能性が試され,開花させられていると言って過言ではない。彼と同時代またはその後の劇作家には,風刺喜劇の型を確立したベン・ジョンソン,ロンドンの民情を背景にメロドラマを多作したトマス・デッカー,高揚された詩的表現を用いて迫力に富む流血悲劇を作り上げたジョン・ウェブスター,冷徹皮肉な人間性の観察者トマス・ミドルトン,純化された情念の輝きを耽美的に追求したジョン・フォードなどがいる。彼らの作品は移り変わる観客の嗜好と人気の波にもまれつつ,時に10に及ぶ数の劇場で上演され続けたが,ピューリタン革命勃発後の1642年にロンドン中の劇場が閉鎖されることになって,エリザベス朝演劇はその幕を閉じた。…
…またナチス・ドイツから逃れてきたラング,サーク,シオドマーク,ワイルダーらの映画監督を受け入れ,そのほか,アメリカ映画音楽の基礎を築いたチェコ生れのE.V.コーンゴールド,オーストリア生れのM.スタイナー,俳優ではイギリス人のケーリー・グラント,フランス人のシャルル・ボアイエ,スウェーデン人のイングリッド・バーグマン等々,つねに〈外国人〉を輸入し〈アメリカ映画〉を補強してきたことがその事実を物語っている。しかも,とりわけアメリカ映画的なアメリカ映画である西部劇の作り手がアイルランド人の移民の子であるジョン・フォードであり,アメリカン・ロマンスの名作であり〈もっともアメリカ的な愛国精神〉に貫かれた映画として知られる《カサブランカ》(1942)の監督が,ハンガリー人のマイケル・カーティスであるというところにアメリカ映画の特質があるといえよう。しかも,30年代には,ほとんどすべてのスターがアングロ・サクソン系の名まえを名のった。…
…1939年製作。映画史上もっとも有名な西部劇であり,ジョン・フォード監督の代表作の1本。西部劇が〈B級映画〉のみで完全に衰退しきっていた1930年代の末に,その斬新なスタイルとテーマ,そして空前の激しいアクションで大ヒットし,西部劇の新しい時代を開いて,その後《大平原》《無法者の群》《砂塵》等々と続くハリウッドの〈大作西部劇の新サイクル〉の嚆矢(こうし)となった。…
…1935年製作。ジョン・フォードが初めて手がけたアイルランドもの。出来心から友人のIRA党員をイングランドの軍人組織に売り,罪の意識と党による報復の恐怖に苦悶する男を,ビクター・マクラグレンが好演。…
…1946年製作のアメリカ映画。ジョン・フォードの戦後初めての作品で,西部劇の名作。トーキー以後,この作品までにフォードが撮った西部劇は《駅馬車》(1939)1本だけであったが,この映画のヒットの後,翌47年から50年までの3年間に《アパッチ砦》《三人の名付親》(ともに1948),《黄色いリボン》(1949),《幌馬車》《リオ・グランデの砦》(ともに1950)の5本を次々とつくり,この時期にその名が西部劇と切り離せないものになる(日本では〈西部劇の神様〉と呼ばれる)。…
…正義のヒーローが悪漢どもを倒し,ヒロインを救うという勧善懲悪のパターンで,大人気を博し,やがて〈ホース・オペラhorse opera〉と呼ばれるB級西部劇,トム・ミックスやバック・ジョーンズから〈歌うカウボーイ〉と呼ばれたジーン・オートリーやロイ・ロジャーズに至るお子さま向け西部劇の原型になった。 リアリズム志向の西部劇は,インディアンと白人の混血児の悲劇を描いたセシル・B.デミル監督《スコウマン》(1913),虐げられつつ滅びゆくインディアンの悲哀を描いたモーリス・トゥールヌール監督《モヒカン族の最後》(1920)やジョージ・B.サイツ監督《滅びゆく民族》(1926)といった人種問題に目を向けた作品や,《鬼火ロウドン》(1918)あたりから《曠原の志士》(1925)に至るウィリアム・S.ハート監督の人間味と詩情のあふれる〈ハート西部劇〉や,開拓民のキャラバン隊の大移動を描いたジェームズ・クルーズ監督《幌馬車》(1923)や鉄道建設を描いたジョン・フォード監督《アイアン・ホース》(1924)といった西部開拓史そのものに取材した〈叙事詩〉的大作に受け継がれた。1930年には早くも70ミリ作品に挑んだラオール・ウォルシュ監督《ビッグ・トレイル》,そしてオクラホマ20年の開拓史をつづったウェズリー・ラッグルズ監督《シマロン》(1931)のような大作がつくられている。…
…1956年製作のジョン・フォード監督の西部劇。《荒野の決闘》(1946)から《シャイアン》(1964)に至るフォードの戦後の西部劇の頂点とみなされ,フォード自身のことばによれば〈家族の一員になることができなかった1人の孤独な男の悲劇〉を描いた詩情あふれるフォード西部劇の集大成でもあり,また,人種偏見と憎しみに生きる孤独な男の心のなかに突如愛とヒューマニズムがよみがえる瞬間をみごとに感動的に演じてジョン・ウェインの最高作ともみなされる作品である。…
…のちこの組織は戦時情報局に吸収されているが,ジョン・スタインベックの脚本によるハーバート・クライン《忘れられた村》(1941)が自主製作されたことも注目される。戦争中は,フランク・キャプラ製作・監修の《われらはなぜ戦うか》シリーズ(1942‐45)を中心に,ジョン・フォードの《ミッドウェーの戦い》(1942)をはじめ,ウィリアム・ワイラー,ジョン・ヒューストン,アナトール・リトバク(1902‐74)等々,ハリウッドの監督による戦争ドキュメンタリーがつくられた。 イギリスでは,情報省の支配下で,ハリー・ワットの《今夜の目標》(1941),ロイ・ボールティングの《砂漠の勝利》(1943),キャロル・リードとガースン・ケニン編集による英米合作の《真の栄光》(1945)などがつくられた。…
…1941年製作のアメリカ映画。ジョン・フォード監督作品。美しい自然に包まれた人情豊かなウェールズの炭鉱町で生まれ育った少年(ロディ・マクドウォール)の口から,炭坑に生きる父(ドナルド・クリスプ)や兄たち,強い母や優しい姉(モーリン・オハラ),若い牧師(ウォルター・ピジョン)のことが回想の形式で語られる。…
※「フォード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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