日本大百科全書(ニッポニカ) 「フッカー」の意味・わかりやすい解説
フッカー(John Lee Hooker)
ふっかー
John Lee Hooker
(1917―2001)
アメリカのブルース歌手、作曲家、ギタリスト。生年については1920年という説もある。
ミシシッピ州北東クラークスデール近くに生まれる。義理の父ウィル・ムーアWill Mooreはギター弾きで、家には知り合いだった著名なミュージシャン、ブラインド・レモン・ジェファソン、ブラインド・ブレークBlind Blake(1895―1937)、チャーリー・パットンらが訪れていたし、また同郷のギタリスト、トニー・ホリンズTony Hollins(1900―59)らにも感化されて育つ。しかしフッカーは田舎の生活になじめず、メンフィスやシンシナティを経て1943年にはデトロイトへ出て、最大の黒人歓楽街ヘースティングズ・ストリートで歌うようになる。
48年地元の音楽プロデューサー、バーニー・ベスマンBernie Besmanのもとでレコーディングを開始。ロサンゼルスのモダン・レーベルからシングル「サリー・メイ」「ブギ・チレン」を発表。特に後者の、ギター1本で弾き歌う独自のブギ・ウギは、第二次世界大戦後、南部の田舎から北部の都市やってきたばかりの聴衆にもっとも好まれ、センセーションを呼んだ。フット・ストンピング(足の踏みならし)が重くビートを刻むスロー・ブルースは、はらわたから出るようなヘビーなうなり声で他の追随を許さない独自の境地を築き、戦後現れた最高のブルースマンとして際立った存在となった。同レーベルからは「ホウボー・ブルース」、ホリンズの曲である「クロウリング・キング・スネイク」、また「アイム・イン・ザ・ムード」といった大ヒットを飛ばした(いずれも『ザ・グレート・ジョン・リー・フッカー』The Great John Lee Hooker(1963)に収録)。
40年代終わりから50年代初めにかけては、キング、チェスといった比較的大手からスペシャルティ、スタッフ、ダンスランドに至るさまざまレーベルに、テキサス・スリム、ジョン・リー・ブッカー、ジョニー・ウィリアムズ、バーミングハム・サム、リトル・ポークチョップといった偽名、変名を使って、専属契約などどこ吹く風とばかりにレコーディングをする。それらはいずれも水準が非常に高く、エレクトリック楽器を使ったカントリー・ブルースの極致をも示した。そうした無軌道ぶりは55年のシカゴのビージェイ・レーベルとの契約で終止符が打たれ、バンド形式の活動に移行していく。
また、リズム・アンド・ブルース・マーケットとは別に、フォーク・ソングを経て黒人ブルースへ向けられた関心により、フッカーは58年にフォーク・ブルース・アーティストとしてリバーサイドでアルバムを録音し、それを機にブルース、フォーク両面で活動していく。前者では「ブーン・ブーン」(『バーニン』Burnin'(1962)に収録)の大ヒットが生まれた。60年代に入るとアニマルズやヤードバーズといったブリティッシュ・ロック・グループに賞賛され、特に「ブーン・ブーン」のアニマルズによるカバーは大ヒットした。この結果「オリジナルのブルースマンのものより売れてしまう、ロック・グループによるカバー」という図式の成立により、ブルースの急速な一般化がもたらされた。
ブルースへの関心が黒人以外にも広がる60年代中期にフッカーはインパルス、チェス、ブルースウェイといったレーベルからつぎつぎにアルバムを発表する。ホワイト・ブルース・グループのキャンド・ヒートと共演した『フッカーン・ヒート』Hooker'n Heat(1970)は、フッカーのブギ・ウギ・ビートが展開され、ヒット・アルバムとなった。日本ではこのアルバムでフッカーの存在を知ったロック・ファンが多い。これ以降、ロック・ミュージシャンとの共演も増え、ブルースの魅力を一般ファンにも伝えた映画『ブルース・ブラザーズ』(1980)にもストリート・シンガー役で登場、84年(昭和59)には来日も果たした。
『ヒーラー』Healer(1989)を経て90年代にはEMI系メジャー・レーベルのポイント・ブランクからもアルバムを発表、ヒップな老黒人ブルースマンといったイメージでそれまでにないファン層もつかんだ。MTV時代に十分アピールのできる伝統的ブルースマンとして、生涯を通じて出したアルバムも100枚以上に達し、晩年までブルースが古くて新しい音楽であることをアピールした。
[日暮泰文]
『Charles MurrayBoogie Man; The Adventures of John Lee Hooker in the American 20th Century(2000, St. Martin's Press, New York)』
フッカー(Sir Joseph Dalton Hooker)
ふっかー
Sir Joseph Dalton Hooker
(1817―1911)
イギリスの植物地理学者。サフォーク県ヘールズワースに生まれる。父のウィリアムSir William Jackson Hooker(1785―1865)はキュー植物園長を務めた。1839年グラスゴー大学で医学博士の学位を得たのち、ロスの南氷洋探検隊に副外科医として参加。のち、インド北部の辺境地方への探検旅行を行った。著書は『南極地方植物誌』Flora Antarctica(1844~1847)その他がある。『種の起原』の著者ダーウィンは、フッカーを「私の生涯を通じて最良の友の一人」とよんで深く信頼した。フッカーはライエルといっしょに、渋るダーウィンを励まして彼の主著の出版を決行させた。また、ハクスリーとともに、進化論的哲学者スペンサーに生物学上のアドバイスを与えた。後年、父を継いでキュー植物園長に就任した。
[渋谷寿夫]
フッカー(Richard Hooker)
ふっかー
Richard Hooker
(1553/1554―1600)
イギリスの神学者。オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジを卒業後、1577年同カレッジのフェローとなる。1585年ピューリタンの対立候補を抑えてテンプル教会の牧師(マスター)に選任された。1591年にその職を離れてのち、イギリス国教会を擁護する『教会統治法論』8巻の著述に専念し、1600年11月2日カンタベリー近郊で没した。『教会統治法論』はピューリタニズムとカトリシズムに対抗して、国教会の正統性を、聖書、キリスト教会の伝統、理性に基づいて主張したものだが、そこに集成された当時の自然法論と立憲的政治論は、ロックらに影響を与え、思想史上重要な位置を占めている。また散文としての評価も高い。
[金井和子]