デジタル大辞泉 「ハクスリー」の意味・読み・例文・類語
ハクスリー(Huxley)
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翻訳|Huxley
イギリスの小説家、批評家。祖父トマスは進化論のために闘った生物学者、兄ジュリアンは動物学者でユネスコの事務局長も務めた国際的著名人、異母弟アンドリューはノーベル医学生理学賞をもらった生理学者というような知的名門の出である。7月26日、南イギリス、サリー州のゴダルミングで生まれる。イートン校在学中に角膜炎にかかって失明状態になり、そのために医学の志望を放棄した。オックスフォード大学卒業後、1916年象徴派の影響の濃い詩集『火の車』を出し、以降も数冊の詩集を出版したが、21年に風刺小説『クローム・イェロー』を書いて第一次世界大戦後のイギリス戦後派の代表的な小説家となった。これ以降、冷徹な知性で人間の理性と本能との分裂を喜劇的に描くのが彼の一貫した特徴となる。次の小説『道化踊り』(1923)は、生存の目的を失って生の倦怠(けんたい)に悩む20年代の知識人や有閑マダムを風刺的に描いた作品。
1923年イタリアに移住、30年まで滞在して創作活動に従い、この間D・H・ローレンスと親交を結んだ。28年に発表した『恋愛対位法』は、音楽の対位法を小説に導入した実験的小説で彼の代表作である。32年の『見事な新世界』は、人間は全部人工授精で製造されるという未来社会を描いて統制国家、管理社会の恐ろしさをユーモラスに風刺したもので、逆(アンチ)ユートピア小説の傑作として知られる。38年、眼疾の治療のために赴いたアメリカのカリフォルニアに定住。半自伝的小説『ガザに盲(めし)いて』(1936)以後は神秘主義に著しい関心を示しだし、あらゆる聖者が到達した「無執着(ノン・アタツチメント)」という境地において個人と全宇宙は統一されるという信念を抱いたようである。作品にはほかに長編『くだらぬ本』(1925)、架空小説『猿と本質』(1946)、エッセイ『永遠の哲学』(1946)、『ガザに盲いて』の主題を詳述した評論『目的と手段』(1937)や旅行記その他がある。63年11月22日、ケネディ大統領が暗殺された同じ日に喉頭癌(こうとうがん)のためハリウッドの自宅で没した。
[瀬尾 裕]
『高畠文夫訳『すばらしい新世界』(角川文庫)』▽『上田勤編著『ハックスレイ研究』(1954・英宝社)』▽『成田成寿編『20世紀英米文学案内17 ハックスリー』(1967・研究社出版)』
イギリスの動物学者。ロンドンで医学を修めたが、もともと物理学に関心があったために、生体機能の物理・化学的側面を扱う生理学に興味をもった。生計をたてるために海軍の軍医となり、ラトルスネーク号でオーストラリア方面に航海し(1846~1850)、とくにクダクラゲ類について優れた研究を行った。帰国後、王立鉱山学校教授となり、化石の研究や生理学、比較解剖学に従事。王立学会員となり、1883年から同会長を務めた。腔腸(こうちょう)動物の内・外胚葉(はいよう)が、高等動物の内・外胚葉と相同であることを示し、またオーケンLorenz Oken(1779―1851)、ゲーテらの、頭骨は脊椎(せきつい)骨の変形したものであるとする「頭骨脊椎骨説」の誤りを正した。C・R・ダーウィンとは、航海から帰国後まもなく知己となり、終生親交を結んだ。ダーウィンの『種の起原』(1859)が出版されるやただちにダーウィン説に賛同し、ダーウィン自身にかわってこの説の普及者となることを決意し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれた。とくに、1860年のイギリス学術協会において、ダーウィン説の反対論者であったウィルバーフォースSamuel Wilberforce(1805―1873)司教を論破したことは、その後の進化論の受容に大きな影響を与えた。しかしハクスリーは、ダーウィン説を無批判に受け入れたわけではなく、その欠陥も鋭く指摘し、またダーウィンが避けた人間の起源の問題にも言及した。主著に『自然における人間の位置』(1863)、『進化と倫理』(1893)などがある。
[八杉貞雄]
『T・ハクスリ著、佐伯正一他訳『自由教育・科学教育』(1966・明治図書出版)』
イギリスの生理学者。ロンドンに生まれる。祖父は著名な動物学者トーマス・ハクスリーで、異母兄に動物学者のジュリアン・ハクスリーと小説家のオルダス・ハクスリーがいる。ケンブリッジ大学で物理学、化学、数学を学び、のちに生理学を専攻した。第二次世界大戦中は軍事研究に従事したが、終戦後の1946年にケンブリッジ大学に戻り、生理学の講義と研究を続けた。1960年にロンドン大学の生理学主任教授となり、1969年には王立協会研究所の教授を兼任した。
ケンブリッジ大学で、A・L・ホジキンとともに、イカの巨大軸索を用いて、神経線維の興奮伝導に伴うイオンの移動を研究、細胞膜のイオン透過性の変化に注目し、ナトリウムイオンの変化が神経線維の興奮とその伝達に重要な役割を果たしているという説を確定した。そのため、1963年に「神経細胞の膜の興奮と抑制のイオン機能に関する発見」という受賞理由でノーベル医学生理学賞を受けた。共同研究者のホジキンおよび同様の研究をしていたエックルズとの同時受賞であった。
[編集部]
イギリスの動物学者。T・H・ハクスリーの孫。オックスフォード大学卒業後、アメリカでイネの研究所に勤務。帰国後ロンドン大学教授(1925)、王立科学研究所教授(1926~1929)、ロンドン動物園長(1935~1942)、ユネスコ事務局長(1946~1948)などを歴任。生物学者としては主として、鳥類の行動学・遺伝学・相対成長に関する研究などを行い、また多くの科学啓蒙(けいもう)書を著した。1958年にナイトの爵位を与えられた。主著に『進化とは何か』(1953)などがある。
[八杉貞雄]
『太田芳三郎訳『ジュリアン・ハックスリー自伝』全2冊(1973・みすず書房)』▽『長野敬・鈴木善次訳『進化とはなにか――20億年の謎を探る』(講談社・ブルーバックス)』
イギリスの小説家,エッセイスト。動物学者のT.H.ハクスリーを祖父に,マシュー・アーノルドを母方の大叔父にもつ知的名門の生れ。兄J.S.ハクスリーは動物学者。イートン校を経て,オックスフォード大学に進む。自然科学方面にも強く,百科全書的な博識家として知られる。最初は詩作を主としたが,1920年代から小説に手を染め,自意識的な青年を中心に第1次大戦後の虚無的雰囲気を風刺的に描いた《クローム・イェロー》(1921),《道化踊り》(1923)などで作家としての地位を確立した。23年から30年までイタリアに住み,D.H.ロレンスと親しく交際。構成を音楽の形式になぞらえた知的風俗小説《恋愛対位法》(1928)を出版。社会的・政治的緊張の高まった30年代に入ると,テクノクラシーのもとでの管理社会を風刺した逆ユートピア小説《すばらしい新世界》(1932),恒久平和を目ざす倫理的・宗教的立場から傍観を批判する《ガザに盲(めし)いて》(1936),とらわれのない〈無執着〉の倫理を説く評論《目的と手段》(1937)を発表。第2次大戦直前,眼疾治療のためアメリカに移住した。インド哲学にも関心を示し,神秘主義的な色彩の強い小説《幾夏を過ぎて》(1939),《時は止まらねばならぬ》(1944)や,原子爆弾投下後の未来小説《猿と本質》(1946)を発表するとともに,愛と無執着を説く浩瀚(こうかん)な詞華集《永世の哲学》(1945)を公刊し,メスカリンを服用した幻視体験の実験記録ともいえる《知覚の扉》(1954)によって人間の潜在的能力への洞察を深めた。さらに62年,《すばらしい新世界》と対照的なユートピア小説《島》を著して,西洋の自然科学と東洋の精神文化の〈二つの世界を最善に生か〉し,瞑想的経験と仕事を通しての自己実現に至る道を探った。ハリウッドで死去。
執筆者:鈴木 建三
イギリスの動物学者。医学を学び〈ハクスリー層〉と呼ばれる内毛根鞘(しよう)の細胞層を発見。1845年王立医学校の一員となり,翌年,イギリス海軍の軍艦〈ラトルスネーク号〉に船医として乗りこみ,オーストラリア方面に航海(1846-50)。49年クラゲ類の比較解剖学の論文発表。51年ローヤル・ソサエティ会員となる。C.ダーウィンの進化論発表後はこれを強力に支持し,〈ダーウィンのブルドッグ〉と自称してダーウィン攻撃に対して立ち向かう。《自然界における人間の位置》(1863)を著し,人間の起源についての考えを明示したほか,啓蒙的な講演会などで進化論の普及に努めた。デボン紀の魚類についての古生物学的業績のほか,ゲーテなどが提唱した〈頭蓋椎骨説〉を脊椎動物の発生学的研究から批判して,頭蓋骨と脊椎骨は異なることを示した業績がある。彼の業績を記念し,1900年王立人類学研究所は人類学のすぐれた研究者に対してハクスリー・メダルを贈ることをきめた。
執筆者:江上 生子
イギリスの生物学者。T.H.ハクスリーの孫。オックスフォード大学卒業後,英米両国で研究。ロンドン大学教授となり(1925),またロンドン動物園長を務めた(1935-42)。鳥類の行動学,進化論の〈総合学説〉の確立,相対成長の理論化など,多くの分野で指導的な役割を果たす。第2次大戦後は国連のユネスコ事務局長となる(1946-48)。数多くの著作や放送を通じて生物学の普及にも努めた。この面での代表作は《生命の科学》(H.G. ウェルズらと共著,1929),《進化とは何か》(1933)など。《自伝》(1970,1973)もある。なお,異母弟アンドリュー・フィールディングAndrew Fielding Huxley(1917- )は神経の興奮伝導の研究により1963年度ノーベル生理学・医学賞を受けた。
執筆者:長野 敬
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イギリスの生理学者.生物学者T.H. Huxleyの孫.作家のAldous Huxley,生物学者のJulian Huxleyらの異母弟.ケンブリッジ大学で生理学を学び,1941年同大学で修士号を取得.海軍などでの戦時研究を経て,同大学研究員.1960年ロンドン大学教授となる.1939年からA.L. Hodgkinとともにイカの巨大軸索を用いて神経学的な研究を行った.かれらは神経細胞に電極を挿入して膜電位を測定し,興奮部位で逆転していることを明らかにした.さらに,かれはHodgkinとともに,活動電位が Na+ の膜透過性の増加によって引き起こされるとするイオン説を提唱した.この業績で,1963年Hodgkin,J.C. Ecclesとともにノーベル生理学・医学賞を受賞.1952年以降は筋収縮の研究に移り,1954年J. Hanson,H.E. Huxleyとは独立にすべり説を提唱した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… そして翌35年,これらフランス知識人はファシズムに対する文化の擁護を訴え,6月パリに24ヵ国230名の文学者を集め,第1回〈文化擁護国際作家会議〉を開催する。外国からの参加者には,ハインリッヒ・マン,ブレヒト,ムージル,ゼーガース,ハクスリー,バーベリ,エレンブルグらがいた。〈作家会議〉は,翌年ロンドンで書記局総会,37年7月内戦下のマドリードとパリで第2回大会を開催し,さらにネルーダ,スペンダー,オーデンらの参加をみた。…
… 第2には,反ユートピア(ディストピア)論の登場である。J.ロンドン《鉄のかかと》(1907),E.I.ザミャーチン《われら》(1924),A.L.ハクスリー《すばらしい新世界》(1932),G.オーウェル《1984年》(1949)などの代表例が挙げられる。これらは,理想国家として建設されたはずのユートピアが,かえってその強大な支配力によって人間を不自由化する,というモティーフにもとづいており,社会主義計画経済やケインズ主義政策などの定着の反面であらわになった矛盾に,敏感に反応した文学的表現といえる。…
…イギリスの小説家A.L.ハクスリーの小説。1928年刊。…
…しばしば実質的行為が象徴的な行為に変化し,単純化,本質的部分の繰返し,一部の要素の強調といった形で現れる。この概念はJ.ハクスリーがカンムリカイツブリの求愛行動の観察をもとに提出したもの(1914)。一般に儀式的な行動は配偶時や闘争時に多くみられ,またその行動と結びついた身体の形や色,模様などが特殊化することが多い。…
…生物の成長に関して,からだ全体の成長と部分(器官)の成長との関係,ある部分の成長と他の部分の成長との関係,あるいは体重の増加と身長の増加のように異なる次元の成長の関係を相対成長という。成長における形態の変化を表すもので,D.W.トムソンの著書《生長と形Growth and Form》(1917)に端を発し,イギリスのJ.S.ハクスリーとフランスのテシエG.Teissier(1900‐72)によって一般化された。前者は不等成長heterogony,後者は不調和成長disharmonic growthの語を用いたが,後にアロメトリーallometry(異調律,相対成長)に統一された。…
…J.S.ハクスリー(1938)によって提唱された形質の連続変化を意味するこう配clineの一つで,生物の種内または種間変異が地理的な場所により少しずつ異なり,ある形質を測定すると一定方向に連続的な変化を示す現象をいう。日本列島でも,北から南へいくにつれて連続的に変化する多くの例が知られている。…
…95年,日清戦争で中国が敗北して後,彼は政治論文〈世変の亟(すみ)やかなるを論ず〉〈原強〉〈救亡決論〉〈闢韓(へきかん)〉の4編を発表,中国富強の根本は,民力を鼓舞し,民智を開き,民徳を新たにすることにあり,その障害となっている科挙制度や専制政体の廃止を説き,ひいては,思想的基盤である朱子学,陽明学の非実用性を鋭く批判し,西洋の学問や議院制の必要を主張した。 98年,ハクスリー《進化と倫理》(1894)の漢訳を《天演論》と題して出版した。生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。…
… 種の問題の前には分類学的業績《蔓脚(まんきやく)類》(1854)がある。《種の起原》には人間の問題は扱われていなかったが,T.H.ハクスリーの《自然界における人間の位置》(1863),ドイツでダーウィンの考えを普及したE.ヘッケルの《自然創造史》(1868)の出たあと,《人類の起源》(1871),《ヒトと動物の感情の表現》(1872)を著し,人間とそれ以外の動物の関連を論じた。晩年には植物学上の業績が多く,《食虫植物》《攀援(はんえん)植物の運動と習性》(ともに1875)などで,植物と動物の進化論上のつながりを探った。…
…イギリスの科学者T.H.ハクスリーの《進化と倫理Evolution and Ethics》(1894)を,清末の思想家厳復が文言の中国語に訳したもの。1896年(光緒22)に稿本が完成し,翌年日刊新聞《国聞報》に載り,98年単行出版された。…
…現在では,ヨーロッパ,アジアとアフリカを含めて旧世界,南北アメリカは新世界と呼び,ユーラシア大陸は旧北区,北アメリカは新北区,両者を合わせて全北区とし,アフリカはエチオピア区,インド,南アジアは東洋区,南アメリカは新熱帯区,オーストラリアは太平洋諸島を含めてオーストラリア区と呼ぶのが一般的である。動物地理区分の提唱はスクレーターP.L.Sclaterの鳥類(1858),哺乳類(1894)についてのものが最初で,A.R.ウォーレス(1876),T.H.ハクスリー(1868)などが続いたが,いずれも鳥獣の分類地理学的な検討に基づくものであった(図1)。ダールF.Dahlなどによる生態的環境区分を考慮し,北極圏,南極圏などを認める方式も提唱された(1925)。…
…一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す。原語の中の〈知られえぬagnostic〉という言葉は,T.H.ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神にagnōstō theō〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。…
※「ハクスリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」