フランクフルトアムマイン(その他表記)Frankfurt am Main

デジタル大辞泉 の解説

フランクフルト‐アム‐マイン(Frankfurt am Main)

フランクフルト

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精選版 日本国語大辞典 の解説

フランクフルト‐アム‐マイン

  1. ( Frankfurt am Main ) ドイツ中部、ヘッセン州の都市。鉄道、道路、航空路の集中する交通の要地で、商工業が盛ん。ドイツ連邦銀行ヨーロッパ中央銀行が置かれる国際金融都市。中世、ドイツ国王の選挙および戴冠式が行なわれた古都でもある。ゲーテの生誕地。フランクフルト。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

フランクフルト・アム・マイン
Frankfurt am Main

ドイツの中西部に位置するヘッセン州最大の都市で,ライン・マイン広域圏の中心都市。合併した32町村を含め,市域面積は249km2,人口は64万(2002)。

 タウヌス山地を背にし,肥沃なウェッタラウ低地の南端を占め,気候温和で,ライン川に注ぐマイン川河畔というヨーロッパの交通の十字路にあたる。中世以来,政治,経済,文化の要地となり,今日なお国際的な商業・金融都市として名高い。連邦銀行や内外の代表的金融機関,商事会社,メーカー,外国公館,諸官庁が市内に集まるだけでなく,ヨーロッパ連合(EU)の通貨ユーロの総元締めたるヨーロッパ中央銀行(ECB)本部が設置され,ヨーロッパ経済の中心となっている。人目を引く近代的高層ビル群,広い遊歩道,華やかなショッピング・センターをもち,アメリカ的都市〈マインハッタン〉の異名もある。活気に満ちた証券取引所と見本市(早春市,秋の大市,書籍市,自動車市,衣料市など)は,ドイツ経済のバロメーターである。東西の河港に接して,化学,精密機械,電機その他の工場が立ち並び,なかでも染料・化学薬品会社ヘキストFarbwerke Hoechst AGは世界的に知られる。表玄関たる中央駅は,鉄道の幹線,ローカル線とバス路線の分岐点として,ドイツ随一の交通量を誇る。1963年地下鉄工事が着手され,68年より逐次新路線の開通をみている。市域の南西端では,ハンブルクとバーゼル,ケルンとミュンヘンを結ぶ二大高速道路(アウトバーン)が交差し,ライン・マイン空港は,ロンドン,パリに次ぐヨーロッパ第3位の発着便がある。

 学術・文化面をみると,文豪ゲーテの名を冠し,近年は社会哲学者アドルノ(1903-69)らのフランクフルト学派で著名となった総合大学(1914年創立。1982-83年には21専攻,学生数約2万7000)とショーペンハウアー,G.フライタークなど有数のコレクションを蔵する付属図書館,第2次大戦以後ドイツ語で書かれた全世界の出版物を収集するドイツ図書館,金印勅書をはじめ貴重な史料を保存する市立文書館,イエズス会派の聖ゲオルク哲学・神学大学,音楽大学,教育大学があり,マックス・プランク協会のヨーロッパ法史,生物物理学,脳の各研究所,パウル・エーリヒ実験治療研究所,フロベニウス民族学研究所も置かれている。また,シュテーデル美術館,ゲーテの生家を復元した記念博物館,ゼンケンベルク自然史博物館,新装なったオペラハウス,市立劇場,熱帯植物園など多彩な文化施設が備わる。フランクフルト・ソーセージとヘンニガー・ビール,ザクセンハウゼン市区のリンゴ酒は,観光客を魅了する。週末のマイン川河畔のぼろ市も名物である。

 こうした経済的・文化的繁栄の反面,フランクフルトはさまざまな社会問題を抱える。駅前の歓楽街は大都市犯罪の温床といわれ,1974年には高級住宅地ウェスト・エンドの高層化による再開発をめぐって市当局と市民とが衝突して新たな課題が生まれた。また,外国人労働者(トルコ人,ユーゴスラビア人など)とその家族の急増は,ドイツ人市民の間に彼らの排斥と擁護をめぐる論議を呼び起こしている。ボンや西ベルリンと並び,緑の党の運動や反核平和運動の中心地でもある。

今日の市域は,先史時代から人類が定住し,紀元1世紀末ローマ帝国の支配下に入り,現在の大聖堂の立つ丘の周辺に浴場をもつ軍営施設が置かれた。まもなく国境防衛線リメスlimesの構築とともに放棄され,その北に軍都ニダNidaの建設をみた。3世紀中葉アラマン族の侵入をうけたが,6世紀初頭フランク族の王クロービスが,これを南方に駆逐して以来,河畔の地はライン・マイン流域に広がる王領管理の中心となった。〈フランク族の(マイン川)渡河点〉を意味する地名Franconofurdは,この時期につけられたといわれ,これが現在のフランクフルトの呼称のもととなった。文書史料にこの名が最初に登場するのは794年のことで,この年カール大帝は,ヨーロッパ全土から聖俗高位者をこの地に呼び集め,その王宮広間で,バイエルン大公タッシロ3世の廃位,キリスト猶子説と聖画崇拝の禁止など重要問題を討議した。ルートウィヒ1世(在位814-840)は,王宮を改築し,以後東フランク諸王の主要な宮廷所在地となった。852年ルートウィヒ2世ドイツ人王は,そのかたわらに救世主礼拝堂を建て,856年ロタール2世(在位855-869),887年アルヌルフ(在位887-899)が,堂内で玉座に推戴された。

10世紀に神聖ローマ帝国が成立し,ザクセン,ザリエル両朝は,ドイツ北東部に統治の重心を移していた。シュタウフェン朝に至り,1147年ハインリヒ(6世。在位1147-50),52年フリードリヒ1世(在位1152-90)と引き続き,フランク族の由緒ある当地で国王に選出せられ,ライン・マイン流域を城塞と都市の網の目によって覆う帝国直属の領国形成も進められた。最初のマイン河橋と王城ザールホーフの建設は,その計画の一環であり,フランク時代以来の王宮集落は,12世紀中葉城壁を巡らせ,13世紀までには活発な市場交易をともなう都市に成長した。それは,上町Oberstadtと下町Unterstadtに分かれ,国王の家人,商人,手工業者などが居住し,1150年からユダヤ人の存在も知られる。対岸には,1220年以降ドイツ騎士修道会や騎士たちの居館が並び,菜園耕作人やブドウ栽培人,漁夫,船頭の住むザクセンハウゼンSachsenhausen市区が出現した。40年フリードリヒ2世(在位1212-50)は,特許状をもって秋の大市Messeを公認し,王領地の穀物やブドウ酒,毛織物をはじめ各種の取引がいっそう盛んになった。1300年ごろシャンパーニュの大市が衰退するや,フランクフルトは,その遺産を受け継ぎ,ハンザ商業圏と南ドイツ・地中海商業圏との結節点として発展した。30年ルートウィヒ4世(在位1314-47)が,早春の第2大市の開催をも許すに至って,ドイツ中世最大の商品市場となり,それにともなう国際的な信用決済も行われた。

その間に,1239年以降救世主礼拝堂は,ゴシック様式バルトロメウス大聖堂に改築された。1356年カール4世(在位1346-78)発布の金印勅書は,大聖堂を帝国法上公式の国王選定場所と定め,1562年からは戴冠式もあわせ行われることとなった。1219年市民の手によってレオンハルト教会が,13世紀末には国王の礼拝堂としてニコライ教会が建てられたが,これは後に市参事会の教会となり,貧困民に対する市の喜捨物交付所としても用いられた。また,13世紀中葉カルメル会,ドミニコ会,フランシスコ会の修道院,14世紀初頭に聖母教会が建設された。聖界施設の増加と相並んで,都市自治も拡大した。13世紀初頭,王領管理人(フォークト)に代わって,都市代官職Schultheissが設けられ,市民の参審人とともに国王裁判所と都市行政を管轄した。1219年都市独自の印章が用いられ,大空位時代の54年ライン都市同盟,66年にはウェッタラウ都市同盟に参加した。また同年市参事会が,1311年市長の職名が史料に初出し,この年からは,市民権新取得者の登録簿も残っている。20年には徴税自主権が認められた。1297年都市法における母都市として,それまでに獲得した自由と法を一括して近隣のワイルブルクに開示した。このころ,そのほかにフリートベルク,ゲルンハウゼン,リンブルク,ウェツラーなどをも娘都市とする〈都市法家族〉が形成されたと思われる。その後,1509年ローマ法をとり入れた改革都市法典が編纂され,78年改訂が加えられた。

 1333年市域は2倍以上に拡張され,新たな市壁の内部に農圃や果樹園を含むノイシュタットNeustadt市区が生まれた。72年カール4世の入質した都市代官職を買い受け,事実上の帝国自由都市となった。89年騎士戦争に巻き込まれ,クローンベルクで大敗し,防御を固めるため,市壁から3km外側に堡塁Landwehrを巡らせた。1405年市民家屋の改造により,ゴシック様式切妻の風格ある市庁舎レーマーRömerが誕生した。

都市の繁栄は人口の増大をもたらし,14世紀末に約1万に達した。しかし,市民間の貧富の差は拡大し,新たな問題を生んだ。1355年以降富裕な門閥商人の寡頭市政に対し,毛織物工をはじめとする手工業者は,抗議行動を繰り返した(〈ツンフト闘争〉と呼ばれる)。1462年市内のユダヤ人は,ノイシュタット市区への集団移住を命ぜられ,旧市壁の外側にシナゴーグを中心とするユダヤ街が生まれた。1525年ドイツ農民戦争のさなか,蜂起した中・下層市民は宗教改革上と市政改革および経済生活上の要求を46ヵ条の訴願書にまとめて参事会に突きつけ,33年ルター派都市に改宗する原動力となった。16世紀後半以降スペイン支配下のネーデルラントから多数のカルバン派教徒が亡命してきた。彼らは,毛織物や絹織物,ガラス製造やダイヤモンド研磨などの新技術を伝え,金融業にも活気を与えた。しかし,市政参加の道は閉ざされ,食糧騰貴で困窮化した手工業者とともに,菓子職人フェットミルヒVincenz Fettmilchの指導の下に結集し,市参事会を解散させ,門閥商人と結びつき高利貸を営むユダヤ人を追放した。1612年から2年間にわたるこの反乱は,ついに皇帝権力の介入により鎮圧されたが,その過程で結ばれた市民協約をもとに,1732年訴訟が起こされ,都市財政を監査する市民代表の市政参加が実現した。

宗教戦争が続く17世紀,フランクフルト首席説教師シュペーナーPhilipp Jakob Spener(1635-1705)は,敬虔主義に立つ祈禱集会collegia pietatisを催し,貧民や孤児の救済活動を進めるなど,ヨーロッパ精神界に大きな影響を及ぼした。その在職時代,カタリナ教会は,最初のルター派教会建築としての改装をほどこされ,他の教会の模範となった。そのかたわらに,1730年バロック様式の哨兵隊本部,41年パリの建築家ロベール・ド・コットRobert de Cotteが帝国郵政長官邸として設計したトゥルン・タクシス宮の完成をみた。ゲーテは,カタリナ教会で堅信礼をうけ,自伝《詩と真実》には,64年の皇帝ヨーゼフ2世(在位1764-90)の戴冠式の有様など,少年の日の思い出を生き生きと描いている。92年フランクフルトは,フランス革命軍に占領され,1806年神聖ローマ帝国の滅亡によって,ライン同盟首班ダールベルクKarl Theodor Anton Maria Dalberg(1744-1817)の支配に服した。10年フランクフルト大公領の首都とされたが,14年K.シュタイン(1757-1831)の尽力で,ドイツ連邦の自由都市となった。このおりに古い市壁と三十年戦争期に構築されていた稜堡は取り壊され,美しい緑地帯に変えられた。

1816年トゥルン・タクシス宮は,ドイツ連邦議会の所在地となった。自由と統一を求める民族運動のなかで,この反動的な議会の改廃を求める急進派学生と手工業者は,33年哨兵本部を襲って政治犯を解放し,一斉蜂起を企てたが失敗し,ただちに弾圧をうけた。36年プロイセン中心のドイツ関税同盟に強制加入させられ,自由な商業政策は不可能になった。48年三月革命が勃発するや,5月には,古典主義様式に改装なったパウルス教会(旧フランシスコ会派修道院)に憲法制定国民議会(フランクフルト国民議会)が召集され,フランクフルトが統一ドイツの首都となる期待を抱かせた。しかし,シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題に対する議会の処理を不満とした市民は,バリケードを築くなど勇敢な抗議行動を展開したが,連邦軍に鎮圧され,以後反革命の体制が整えられた。63年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)は,再びこの地に諸侯を集め,連邦の改革を試みた。66年普墺戦争が始まり,誇りある自由都市はプロイセンの領土に併合された。その間,1825年マイン河橋のかたわらに市立図書館が開館した。初代館長ベーマーJohann Friedrich Böhmer(1795-1863)は,《フランクフルト市古文書集》を編纂したのみならず,ペルツ(1795-1876)とともに,シュタインの発案になる《モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ》の刊行という大事業に乗り出した。1816年銀行家シュテーデルJohann Friedrich Staedel(1728-1816)の遺産と絵画コレクションをもとにドイツ有数の美術館が開設され,29年には画家ファイトPhilipp Veit(1793-1877)の主宰する美術学校も併設された。

フランス革命の嵐のなかで大市こそ衰えたものの,自由都市時代に金融業が再生した。なかでも銀行業の発達はめざましく,その特色は私立銀行にあった。ロートシルトMayer Amschel Rothschild(1743-1812)は,ユダヤ人街に生まれ,5人の息子たちとともにヨーロッパ金融市場を支配し(ロスチャイルド家),ベートマン兄弟Johann Philipp Bethmann(1715-93),Simon Moritz von Bethmann(1768-1826)は,運輸業から銀行家となった。彼らは,諸侯や外国政府に融資し,国債発行を助け,信用を築きあげた。1854年フランクフルト銀行が都市独自の発券銀行として設立された。ビスマルクのドイツ帝国の建設(1871)にともない,ベルリンの銀行業が優位に立ったが,それでも,ドレスデン銀行,ドイツ銀行などの支店開設が続いた。

商業・金融都市としての伝統は,手工業者たちの反対運動とあいまって,産業革命による新工業部門の発展を阻害した。1864年の〈営業の自由〉の導入以後に,ようやく工場が建設され,労働者は近隣の山地から集められた。しかしその立地は,ボッケンハイムBockenheim,ヘヒストHöchst,レーデルハイムRödelheimなど市外地であり,これらはようやく77年以降の町村合併によって漸次市域に編入された。1841年南ドイツ通貨会議の決定により,52年金銀選鉱会社がつくられ,今日の貴金属・化学・製薬会社デグッサに発展した。62年ヘヒストに,マイスター・ルキウス・ブリューニング社の染料工場が建てられ,70年フェルンハイムに設立された関連企業と1925年に合併し,IG(イーゲー)染料となった。しかし,第2次大戦後占領軍の解体命令によって多数の企業体に分けられ,その管理棟は,ヨーロッパ駐屯アメリカ軍司令部に使われている。鉄道と橋梁建設では,1855年発足したフィリップ・ホルツマン建設会社が世界的評価をうけ,81年メルトンWilhelm Mertonが金属会社を創設した。91年の電気工業博覧会を契機として,この部門も盛んとなった。人口の増加も急激で,1843年の5万6000から,80年13万7000,1910年41万5000と増えつづけ,25年には46万8000に達した。しかし,工場と同様に,労働者は市郊外に居住したため,ベルリンなどのようなスラムが市内に形成されず,それゆえ第2次大戦後まで,ブルジョア都市の性格が強く,住民の社会闘争も他と比べラディカルな傾向を欠いたといわれる。

ワイマール共和国時代(1919-33)には,都市計画家,デザイナー,商業美術家などが,居住環境の美化をめざして〈新生フランクフルトDas neue Frankfurt〉を結成し,市の建設役マイErnst May(1886-1970)は,低所得者層のために,郊外にドイツ最初の大集合住宅レーマーシュタットRömerstadtを建設し,〈フランクフルトの実験〉と称された。ナチスの統治下では,1933年ヒトラーが,帝国アウトバーンの着工式に来訪し,36年ライン・マイン空港が新設をみた。第2次大戦では,連合軍の空爆により市の中心街はほぼ全壊し,戦後の再建は別個の現代都市をつくりあげた。ドイツ連邦共和国の誕生にあたり,首都に予定されたが決定をみず,〈影の首都〉と呼ばれるに至った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

フランクフルト・アム・マイン
ふらんくふるとあむまいん
Frankfurt am Main

ドイツ中部、ヘッセン州の商工業都市。人口64万3700(2002)。ライン川の支流マイン川沿いにあり、中心市街地は右岸に位置する。古来、ライン川の河谷平野と北ドイツ平原を結ぶ交通路の渡頭集落として成長し、神聖ローマ帝国の政治の中心として発達した。経済的には、宗教戦争後、イギリス、オランダ、フランスなどから宗教亡命者(ユグノー)を受け入れたことで商工業が発達し、毛織物取引、金融の中心となり、この伝統が現在にも引き継がれている。

 マイン川河畔のレーマー(旧市庁舎)とレーマー広場を中核に半円形に発達する市街地には、金融、保険、経済団体、官公署などの事務所が集中し、1960年代以降は高層ビルが多くなった。南郊の森林地帯にはヨーロッパ有数の規模を誇るフランクフルト・アム・マイン国際空港があり、地下鉄で都心に近い中央駅と連絡。自動車道路(アウトバーン)網もよく整備され、鉄道とともに国内各地はもとより近隣諸国への交通を容易にしている。当市で生まれた文豪ゲーテの名を冠した総合大学(1914設立)をはじめ、学術・文化施設も多い。周辺はドイツ有数のライン・マイン工業地域で、化学、電気機器、金属加工、ビール醸造、自動車などの工業が発達。また各種の国際見本市の開催地として有名で、春と秋の定期市のほか、楽器・ガラス・工芸品などの消費財見本市、服飾繊維品の「インターシュトッフ」、国際毛皮見本市、国際自動車ショーなどのいずれかがつねに開催されており、とくに秋の書籍見本市には世界中から書籍・出版業者、文献収集家などが集まる。

[朝野洋一]

歴史

古代ローマの城塞(じょうさい)や軍団の兵舎と推定される遺構があり、ローマ以来の歴史を伝えているが、6世紀にフランク王国の王宮所在地となったときから発展の基礎が築かれた。カロリング朝の諸王もここを戦略上の要衝として重視し、神聖ローマ帝国の時代には、とくに11世紀から13世紀にかけて定住者も増え、環状の市壁が築かれ、市場も開設されて中世都市としての確立をみた。歴史上最大の特色は、この都市が帝国国制上の重要な機能を果たしたことで、12世紀以来しばしば皇帝選挙の開催地となったほか、1562年以来皇帝の戴冠(たいかん)式が大聖堂で行われ、また15世紀末の帝室裁判所の設置まではフランクフルトの都市裁判所が帝国裁判所の役割を果たした。経済面でも、帝室貨幣鋳造所や市場開催などで繁栄し、人口は1387年までに約1万人に達した。しかし、市参事会の寡頭制的支配はたび重なるツンフト(同職ギルド)闘争にもかかわらず維持され、これが製造工業の発展を妨げた。逆に印刷術の普及による書籍出版とその販売、株式取引所と銀行の創設による金融業の発達(たとえばロスチャイルド家の繁栄)がヨーロッパにフランクフルトの名を高からしめた。

 フランス革命期に一時フランスに占領され、1806年には帝国都市としての自由を失ったが、1815年自由都市として再生、1816年以降ドイツ連邦議会の開催地ともなった。1848年の三月革命期には、市内の聖パウロ教会でドイツ最初の国民議会が開かれ、「統一と自由」の運動の拠点となった。だが、1866年のプロイセン・オーストリア戦争の結果、ドイツ連邦は解体し、小ドイツ的統一が進み、フランクフルト自体もプロイセン国家に併合されるに及んで、政治や金融面でのドイツの中心はベルリンに移行していった。しかし、ライン川、マイン川の交易路と鉄道の発達や、工業地帯ボッケンハイムの市への編入などで商工業は飛躍的に発達、住民数も1861年の7万2000から1933年の55万6000へ急増した。第二次世界大戦で莫大(ばくだい)な被害を受けたが、戦後の復興は目覚ましく、「ゲーテの家」の復原、国民の募金による聖パウロ教会の再建など、史跡の保存にも力が注がれた。

[末川 清]


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百科事典マイペディア の解説

フランクフルト・アム・マイン

ドイツ西部,ヘッセン州南部,マイン川下流の商工業都市。連邦鉄道本庁,会計検査院など金融・交通関係政府機関所在地で,ヨーロッパ第3の国際空港をもつ。ユーロ圏発足に際し1998年ヨーロッパ中央銀行が置かれた。金属・機械・電子機器・化学・繊維・食品工業が行われる。出版業が盛んで毎年国際書籍見本市が開かれる。ゲーテ大学(1914年創立),ゲーテの生家(第2次大戦後再建)がある。またアドルノに代表されるフランクフルト学派でも知られる。起源は古代ローマの城砦(じょうさい)で,1372年自由市,1562年―1806年は皇帝の戴冠式が行われた。1848年革命の際には,憲法制定のためのフランクフルト国民議会が召集された。69万1500人(2011)。
→関連項目自由都市

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

フランクフルト・アム・マイン
Frankfurt am Main

西南ドイツのマイン河畔の古都市。中世以来ドイツの商業の一中心地であり,神聖ローマ帝国皇帝選挙地として政治的にも重要。1816年以降ドイツ連邦議会の開催地。特に48年のフランクフルト国民議会は有名である。

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