オランダの物理学者。ホイヘンス家は父・祖父ともに大臣を務めたハーグの名門であり、彼は外交官になることを求められ、幼少のころは祖父から教育を受け、1645年にライデン大学に入学、法律と数学を学んだ。この間にメルセンヌと知り合い、デカルトの影響を受けた。1647年から1649年までオレンジ大学で法律を学んだが、ウィレム2世WillemⅡ(1626―1650)の死により、外交官になる機会を逸し、1650年ころより科学研究に没頭し始めた。1666年まではハーグの自宅で研究を続け、1660~1661年にはパリ旅行の際にパスカルと出会った。この間の業績により1666年にフランスの科学アカデミー設立に際し、外国会員となり、この年より1681年までパリに在住。その後はふたたびハーグに戻った。1689年にはイギリス旅行のとき、ニュートンと会った。1695年、長い病の末に没した。
科学的業績は多岐に渡る。1650年に『液体に浮かぶものに関する三巻』で静力学を、1651年に『双曲線・楕円(だえん)・円の求積に関する諸定理』で求積法を、また1657年には『賭(か)けにおける計算について』で確率論をそれぞれ論じた。一方、実用的な問題も扱い、ガリレイの発見した振り子の等時性と、ばね運動の歯車時計を結び付けて時計の改良を行い、1658年に『時計』を著した。1659年にはサイクロイドの等時性を発見、1673年には大著『振子時計』を出版し、振子時計の製作も続けた。
1652年から望遠鏡などの光学機械の改良にも取り組み、1655~1656年には自作の望遠鏡で土星の衛星と環(わ)を発見し、1656年『土星の衛星に関する新発見』および1659年『土星の体系』を出版した。また球面収差・色収差などの屈折光学の研究も行ったが、これらの成果は死後1703年に『屈折光学』として出版された。その一方で、1670年ころから複屈折現象を解明する過程で、光の本性の問題を扱い始め、素元波や楕円波面などの概念を用いた光の波動論に達し、1690年『光についての論考』を発表した。
1652年ころより衝突の問題を扱い、デカルトの衝突の法則を修正して、1656年に運動量の保存則を再定式化した。この成果は死後1703年に『衝突による物体の運動について』にまとめられた。1659年には『遠心力について』、1690年には『重力原因論』を著した。多くの業績にもかかわらず、ホイヘンスの説を引き継ぐ研究者は当時少なく、たとえば、光の波動論は19世紀に入ってようやく受け入れられた。この理由としては、ニュートンの影響が大きかったことが考えられる。
[河村 豊]
オランダの物理学者,天文学者,数学者。ハーグの名家に生まれ,16歳までの教育は兄コンスタンティンとともに,もっぱら祖父らによってなされた。1645年から2年間ライデン大学で法律と数学を学ぶ一方で,自然についてのデカルトの考えに大きな影響を受け,またこの間にM.メルセンヌと文通を始め,フランスの知識人とも連絡をもつようになった。50年からはハーグの生家で数学や物理学の研究に没頭し,66年,フランスのアカデミー・デ・シアンス設立と同時に外国会員に選ばれ,パリに移り住んだ。アカデミーの中では中心的存在として数多くの業績をあげたが,81年に体調を崩し,母国オランダに帰国した。以後,再びフランスに住むことはなかったが,この間,89年にはイギリスのローヤル・ソサエティを訪れ,ニュートンと会見している。
ホイヘンスの科学上の業績は,この時代の研究者同様,実践的な問題にかかわるものが多く,かつ多岐にわたっている。まず数学の分野では,求積法を探求して微積分学形成に貢献したほか,確率の問題も扱っている。物理学の分野では,浮体の安定性を静力学的に論じ(《液体に浮ぶものに関する3巻》(1650)),1652年からは弾性衝突を取り上げ,デカルトの衝突論に基づきながらも彼の衝突規則が実験的に合わないことに気づき,56年に運動の相対性の原理を用いた衝突論を示した。これらの結論は死後《衝突による物体の運動について》(1703)としてまとめられた。一方,56年末からは実用的な時計の改良をめざし,59年サイクロイド曲線を描く振子の等時性を発見,幾何学的に証明し,精度のよい振子時計を設計した。73年の《振子時計》は,このサイクロイド振子の等時性をはじめ,振子の長さと周期の関係,縮閉線(エボリュート)の理論,円運動における遠心力の研究など,彼の力学上の諸研究をまとめたものである。また光学に関する研究は,1652年から主として望遠鏡と顕微鏡の改良を問題として始められた。初期には光学器械の改良に関連し,レンズの屈折,倍率,球面収差を研究したが,複屈折現象の理論的説明を試みる中で,しだいに光の本性の問題を扱うようになった。彼はR.フックやI.G.パルディースらとは異なって発光体の微粒子を考えながらも,彼らと同様光の波動説を主張し,光の伝搬に関するホイヘンスの原理を確立して,これに基づいて光の反射,屈折,複屈折などの現象に説明を与えた。これらの成果は《光についての論考》(1690)にまとめられているが,この間には光学研究をもとに改良された望遠鏡を用いることで,土星の衛星(チタン)を発見している(1655)。
ホイヘンスの研究は高度な内容をもっていたが,同時代のニュートンによる体系的な理論がより広く受け入れられたことにより,その後の科学者への影響力は弱かった。
執筆者:河村 豊
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… エーテルが,形而上学的な概念から変化して,物理学的な実体を与えられたのは,ケプラーに始まる近代光学においてであった。とくにホイヘンスが〈光の波動説〉を説くにいたって,波動を支える媒質としてのエーテルという概念が浮かび上がる。例えばホイヘンスの波動説に対してまっこうから反対して〈光の粒子説〉を唱えたと言われるニュートンでさえ,屈折現象に関しては,エーテルに頼っている。…
… 1669年,デンマークの物理学者バルトリヌスE.Bartholinus(1625‐98)は,細い1本の光線を氷晶石の結晶に入れると,屈折光線が二つに分かれること(複屈折)を見いだした。次いでオランダのC.ホイヘンスは,二つに分かれたこれらの光の振動方向が,かたよっていること(偏光)を見いだした。1813年には,イギリスのブリュースターD.Brewster(1781‐1868)によって,結晶には1軸性と2軸性のものがあることが発見された。…
…R.フックはこの波動的側面を発展させ,光をエーテル媒体中のパルスと考えた。さらに,ホイヘンスは発光体を中心とする波面の各点から二次的な波が球状に広がるとする〈ホイヘンスの原理〉を提出し,光の反射,屈折の法則を説明することに成功したのである。他方,ニュートンは太陽の光をプリズムによってスペクトルに分解し,それぞれの色の光は固有の屈折率をもつという重大な発見をした。…
…初期の機械時計や和時計では,棒の両端におもりをつけた棒てんぷが用いられたが,ひげぜんまいがなく固有の振動数をもたない点で現在のてんぷとは異なる。現在のようなてんぷは17世紀,オランダのC.ホイヘンスの考案によるといわれている。てんぷは和時計の用語で天府,天桴,天符などと書かれるが,語源は明らかでない。…
…これらは王侯貴族の権威や富の象徴として珍重された。
[精度の向上]
17世紀はG.ガリレイ,C.ホイヘンス,R.フック,J.ケプラー,I.ニュートンなどの天才が天文学,物理学,機械学などに顕著な業績をあげた時代であるが,時計の精度を向上させることにもおおいに情熱が注がれ,さまざまなくふう改良が試みられた。その中のいくつかの考案,発明は現代の時計にまで引き継がれている。…
…望遠鏡の分解能がたりなかったため,耳のある惑星と記した。1655年C.ホイヘンスは衛星チタンを発見し,あわせて土星の耳が薄い平らな環であることを示した。環の面は土星の赤道面と一致しており,軌道面と26.゜73傾いているため,地球から見ると軌道上の位置によって開いたり消失したりする。…
…ニュートン自身の築いた力学で,力の加わらない質点は与えられた初速度の等速直線運動をするが,光が直進することをこのことに結びつけて説明しようとしたのである。 当時,光を波動と考えたのはC.ホイヘンスやR.フックであった。フックは薄膜が色づいて見える現象が粒子説では説明できないことを示し,光をエーテルの振動と考えた。…
※「ホイヘンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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